日々草

「つれづれなるままに・・」日々の事を記す。

鈍感力と感動力

2023-06-01 | ギャラリー
鈍感力という言葉がはやったのはいつのことであったか。

戯れに調べてみたら、渡辺淳一の著書によって流行語になったのであった。

本のタイトルだという記憶はあったのだが、渡辺淳一の著作であったことは覚えていなかったから意外な名前がでてきた感。



鈍感力
大事をなすには日々の些末なことに心を惑わされないようにと解釈し、ストレス要因を真っ向からうけとめるのではなく、
のらりくらりと上手にかわす能力という認識でよかったかと2007年を振り返る。
もうあれから16年もたっているのね・・・・。



あらためて鈍感力というスキルの大切さをかみしめているところである。
望むと望まざるとにかかわらず、抗うとも抗わざるとにも関わらずすべては、流れるべき方向に流れていくのである。
コロナを取り囲む状況なんてまさにその典型であった。
なるようにしかならないかったというのが、偽らざる感想である。



状況はいつだって変わるから、嫌な状況が続くわけではないと言い聞かせて、いろいろなことを乗り越えてきたわけで、確かにそうだと言い切れる経験値ももっているけど、この数十年で学んだことは嫌なことはカタチをかえてやってくるものだということである。
とどのつまり、嫌だなあと思うことが0になることはないのである。


なかなかの真理だとおもうけど どう?
そうすると呪文のように唱えるのは「鈍感力・鈍感力・鈍感力」。
すると嫌なことがあるのがスタンダードになって、日常の些細なことに心を乱されることもへるはずである。

鈍感力発揮しつづけると、仙人にできあがってくるのである。
日々の雑事への達観。
そして憂うべき事態につきあたる。
鈍感力発揮=不感症

日常の些末なことに惑わされないということは、日常の些細なことに動じないということであり、心動かないから、感動するということもないのである。
誕生するのは仙人ではくて生ける屍であったのだ。


頑張ってインプットしてるのにアウトプットができなくなっているのは、こういうことではなかろうかと暇にあかせて分析中。
これ以上重度の不感症になるのはいやだな。困るな。

面白いアートをみても「すごいね」の一言で片づけていけない!
去年のせっせと通った、新潟妻有の「大地の芸術祭」



















ちょっと残念なニュースもあったけど、
何かに気づくきっかけになったら幸いである。
論議の種火になったのならなおよい。

大地の芸術祭
修学旅行中の中学生が作品を破損
作品を破損されたクワクボリョウタの作品「Lost#6」
修復作業を経て再公開




※写真は修復前のもの

アートに興味がなくてもあるバンドのMVにつかわれた場所だと知れば行きたくなる人もいるにちがいないし、美味しいゴハン処もあるとなればいってみたい人もいるだろう。

マ・ヤンソン/MADアーキテクツ
Tunnel of Light

鈍感力に蝕まれた感動力を取り戻すためのアート。
最近は壮大に意味不明で考えても考えても理解不能で諦めざるをえないなんだこりゃというもものが好みである。
解らないのが当たり前、考え込んでも無駄だと前向きに諦められるこの経験こそがアートなんだと自分に落としどころをつけられるのがいい。
そしてそれを感動とよんでいる。

日々の落としどころが鈍感力によるものなのか、感動力によるものなのかで取り巻く世界は大きく変わるか考えるのは無駄な労力かそれとも。
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