棚からぼた餅--岩淵龍王丸

信州の山郷での暮らしと、絵本と無縁になってしまった大人に向けた創作絵本や、芸術活動をお話します。

マンダラ・アート・パフォーマンス--5

2008-10-19 08:48:16 | 創作活動
創作の根っこ
障子戸を利用した、即興的ステンドグラス風なものが舞台に出現する、とでもいいましょうか・・。
それも、興にまかしたアブツトラックな絵ではなく「マンダラ絵」
 もういちど申し上げますが、このパフオーマンスは1980年代から90年代にかけて、私の創作の一環として行ったものです。
アトリエで黙々と製作する一方、多数が寄り合ってナニカを創り上げることが無性にしたくなったのです。
といって、美術会のようなところでの動きではなく、もっと直接的な創作欲でした。
パフォーマンスによって収入を得る(有料でした)よりも、ほとんどが持ち出し。
舞台での公演は、アトリエでは決して感じることが出来ない、満足感だった。
それゆえにトントンだったら、経済的には大成功だとおもっていました。
資金を蓄えながらの、マスターベーション的な公演だったのです。

パフォーマンスは私の創作活動の一時期でしたが、ただ今に続いている「私の創作世界」です。
http://ryuomaru3.web.fc2.com/mam-caos-1.html

写真は神社における「しこみ」風景。
地域おこしの祭りで、観覧してくれた方々から「うちでも・・」と声がかかりましたが、演奏者・照明・PA・などなどと、予算的に問題がありました。

かぼちゃが実っていた

2008-10-18 17:25:13 | 山郷の暮し
暖かで穏やかな秋の一日でした。
赤味の強いオレンジ色の西空に、アルプスの山並みが深いグレーの陰をつくっています。神音が聞こえてきそうなたたずまいです。

さいさんお話をしてきましたが、二箇所の椎間板ヘルニヤと、脊柱管狭窄の合併症でヒーヒーいって4ヶ月。
目の前の花畑は完全に雑草が茂り、最も始末の悪い「藪からし」が覆いつくしてしまったなか、けなげにも「かぼちゃ」がみのっていました。
このかぼちゃの種類名は忘れてしまいましたが、表皮はとってもかたくナタで切るほど。まじめに調べてみましたら スクナカボチャ というんです。ネットってすげなー
それでいて栗のような甘みがあります。
もち(保存)もよく、お気に入りの種類ですが、あまりてにはいらない。
というのも、普通のかぼちゃのようにあまり実がつかないらしい。
今までなんども種蒔きをしたのですが、今回ほど立派なものが収穫できたのははじめてです。
写真中の赤い柄は犬のクシです。デッカイかぼちゃでしょうーー

まんだら・パフオーマンス--4

2008-10-18 08:26:06 | 創作活動
パンフより
演出意図--気持ちのいい空間
露天風呂にオッ月さん。山のてっぺんのお星様。
浜辺に寝転んで、ジート観る雲。
すべてイー時空ダ!!
そんな空間は一人ならば至って簡単に味わうことが出来る。
だが、複数から群集とまでなると、ナカナカ難儀なことだ。
ワタシタチのマンダラ・アート・パフォーマンスは、そんな時空を創れないものかと、仲間によって自然発生的に考案されてきた。
ピらミット型に障子戸を組み上げた巨大なキャンバスに、絵師岩淵龍王丸が踊るように絵筆を振るう。
クロスオーバーする、光と影、そして音楽。ライトに照らし出された障子戸に鮮やかなマンダラ絵が浮き上がってくると、高揚した観客の魂は一体化され、かんぜんに開放される。
幻想的で不思議でありながら、自然な世界。
なによりも、気持ちのいい時空に浮遊できる。
             舞台演出  青木福太郎

パフオーマンス--3

2008-10-17 09:35:06 | 創作活動
私は1980年代、画家・詩人・音楽家など創作活動を志す者たちが、互いに協力し合っていく組織を設立していました。
「オーム芸術協会」--そうです、あの宗教団体と混同されてしまい、解散せざるをえませんでした。
オームとは真言の意味もありまして、OUMを含んだ銘銘はたくさんありましたが、みんな誤解され改名またわ解散をしたと聞きます。
パフォーマンスはこの協会の仲間が、手弁当で楽しんだものです。
営業とか利益目的ではなく、まずは自分たちが楽しむことでした。
パンフレットを紹介いたしましょう。

歓喜なる調 極彩色が光を放つ 神秘の曼荼羅空間

説明しがたい心の恩奥こそ、私たちが真に求めていることかと思います。
その見えない世界を、視覚化してくれたのが曼荼羅絵です。
それは生命の尊厳を謳いあげた世界でもあります。
曼荼羅を深遠で難解な秘密領域とするのではなく、心の充足は完全平和への道であり、私たちの生活そのものが、曼荼羅原理なのです。
私たちは曼荼羅絵図を基に、現代的な表現として曼荼羅絵のライブペイントを中心に、音楽・照明そして自然(空間)そのものを加えた演出をこころみました。
老若男女の域を超えた歓喜の空間は、世界に類の無いアート・パフォーマンスといえます。

と・・かなりきあいがはいっていました。実際かなりの反響がありましたが、資金的には苦しかった。
続く。
写真は東京-パルテノン多磨での公演パンフ

マンダラ・あーと・パフォーマンス-2

2008-10-16 09:51:39 | 創作活動
昨夜の16夜の月はすごさがありました。

すでに20年前にやったことを、昨日のごとく語る気はありませんでしたが、文の流れの中で、昔話になってしまいました。
1980年代から90年代半ばまで、盛んに行ったパフォーマンスです。
障子戸に描き、後ろからライトアップすることに思いついたのは、我が家に遊びに来ていた子供たちのいたずらからでした。
お絵かきに調子の乗ったついでに、障子戸まで描いてしまった。ヨクアルコトデス。
絵の具が色光に変わった美しさに「ステンドグラスだ!!!」と改めてきずいたのです。

それより障子戸に、曼荼羅絵を描きまくる。
たまたま遊びに来たPA屋さん兼音楽プロデュースさんが、舞台で音楽とコラボできないだろうかと提案された。
アブストラックな絵画だと、当時から結構行われていたが、きちんとした曼荼羅絵による舞台公演はなかった。
描きての私はバックで音楽にあわせながら、障子戸4-6枚を描く、というものだった。
つまり、真っ白な画面に人影が、ビッシリと観音さんを描く。いや浮かび上がってゆく。
綺麗な色光になるためにはどんな絵の具がいいのか、青森のねぶたの彩色などを研究しながらスタート。
演出はしだいにエスカレートしていったのです。
つづく

木漏れ日

2008-10-15 17:18:23 | 山郷の暮し
寒かった昨日と一変し、青空の広がる穏やかな一日です。
おかげで腰痛の痛みもたいしたことはなく、久しぶりに、本当に久しぶりに山道を20分ばかり散歩。
なんだ、そんなの散歩にはいらねーといわれてしまいますが、杖を突きながらゆっくりと歩みます。
賢犬サクラにしたらもどかしく、振り向いているばかり。
林の中といっても、我が家はその中にあるともいえますが、自然林の茂みはやはりちがいます。
車の騒音も和らぎ、どこかすごく遠くへ、いざなわれていきます。
なんとも言いがたい静けさと、音ともつかない木々のざわめき。
チラチラと踊るように煌く木漏れ日に
「秋だなーー」

残念ながら、キノコの一本も見当たりませんでした。
今夜はたしか16夜、まだこの谷からはオッ月様が顔をだしていません。

マンダラ・アート・パフォーマンス

2008-10-15 09:10:21 | 創作活動
小雨降る昨日は寒かったですねー。
私の主治医であり、酒飲み友達でもあった方の告別式でした。
それも、私より若く、旅行先での急逝。
盛大な告別式でしたが、なんともむなしい・・・・。

誘惑の絵などと思わせぶりに始めましたが、何のことはない、デーモン話になってしまった。
相変わらず、思い出したマンマの内容で、たいした考察はありません。
ヨーロッパ通も沢山おられる昨今、知ったかぶった愚かさは避けるとして、どこの町に行っても目に飛び込んでくるのは、巨大な教会ですね。

なかでも強烈な印象を受けたのが、当時、西ドイツといわれたケルン大聖堂です。
はじめて見たのは、ドイツが東西に分断されていた10月下旬だったか、夜行列車で終着駅ケルンに着いたが、宿屋の案内所はしまっていた。西も東もわからなかったが、それは毎度のことだった。
うすら寒いなか駅を出れば霧雨。歩道橋みたいな石多段を上がると、弱い照明にぼんやりと巨大な建物が浮かんでいる。
「こここ、コレが大聖堂か!駅並びにあるとは。まるでヒマラヤの岸壁を見ているようだ」と、旅日記に記した記憶がある。
教会を見て歩く目的は、美術品鑑賞もあったが、ステンドグラスの研究にあった。
といいますのは、当時、私は障子戸に極彩色の染料で「曼荼羅絵」を描いていた。
ねぶたのように絵の具の色が、光に変わる美しさにひかれ、背後からのライティングの絵だ。
しだいにエスカレートし、即興的な製作と音楽・光をコラボした「マンダラ・アート・ハフォーマンス」を考案し、日本各地で公演をしていた。
即興的なステンドグラスだと言われ、確りと本場物を研究したくなったからだった。
たまたま私の公演を見た、ドイツ人から公演の誘いを受け、その下準備もあったのだ。
次回は私が考案したマンダラ・アート・パフォーマンスについて、ご紹介しましょう。

誘惑の教会

2008-10-13 17:12:17 | 創作活動
誘惑の絵などと意味深なことを言いましたが、中身は私の頭とおんなじで、大したことはありませんね。
ヨーロッパ旅行となれば美術館・教会めぐりはかかせません。
それにしても、教会の立派さは、人々の喜捨の結晶体と見るのは、へそ曲がりでしょうかねー。
宗教の中身は違っていても、東西南北・新旧、いずこの民族も、喜捨こそ尊きこととして、立派な殿堂を建てのことは同じですね。

教会内部の空間は、はるか上空の天国を創り上げ、光も音も天上から降り注いでくる装置です。
ミサや演奏会を聴くことができましたが、想像を超える音の響き、光の屈折などなど、木造建築では出来ない世界だと感じました。
そして・・・金箔が輝く祭壇には磔刑のイエスがあります。
それがすざましい。
写実であればあるほと、おぞましく・おどろおどろしている。
なんともアワレな姿なのである。
どうしてそこまで表現しなくてはならないのか、不思議なくらい血の臭いがある。
絵画作品よりも、彫刻物のほうがリアルだけに、正直、食傷きみになってしまった。

「血の臭い」と思わず書いてしまったが、血で連想したのがインド・ネパールのヒンドウー教です。
この宗教も血が大変お好きで、その神様(カーリー)もあり、血をぶっかけあうお祭り(ダサイン)もあるが、明るいのです。
キリスト教のような陰湿さがないのは、基本的に気候・風土と関係があるのではないだろうか。
またまた話は横道に入ってしまいましたが、邪宗といいながら地域の伝統文化・宗教を弾圧してきたキリスト教は、同じくらいデーモン・サタンがお好きなのです。
教会の壁面には意味はともかく、いっぱい潜んでいるのです。
写真はクラナッハの素描

キノコ狩りの時期ですが

2008-10-12 16:58:33 | 賢犬さくら
いつもは静かな国道254も、連休になると川の流れのように、ザーザーと乗用車が過ぎていきます。
棚田に並んでいた、はぜかけの稲も次々と脱穀され、今は稲殻を燃やす煙が西日に赤く染まっています。
腰の状態が正常だったら、例年はキノコ狩りをして、当然、宴会となりますが、誰も来ません。
チョット寂しい気もしますが、それも友の思いやりだと感じます。
賢犬サクラもこのごろは「さんぽにいこー」と誘うこともなく、周辺をウロウロしているのみ。
それでも私が「散歩にいくかー」というと、全身に喜びを表します。
やはり、一人ではつまらないのでしょう。

誘惑の絵--続き

2008-10-12 08:43:31 | 創作活動
2-誘惑の絵
奇態な悪魔がどっさり描かれている「聖アントニーの誘惑」の題材は、アタナシウスが著したたった一冊の本から、おおくの芸術家が触発されて、自由奔放に悪魔の誘惑図を描き出した。

悪魔はあらゆる手練手管を駆使し、アントニーを騙そうとする。
しかし、彼はイエスに全霊をささげ、これらの誘惑の炎を消し去ったのである。
例えば、妙麗な女たちによる酒肉の饗宴。
古今東西、野郎にとってもっとも弱いところとみえ、誘惑の定番で、絵にもなる。
奇怪な化け物による、肉体的な脅しや、甘いささやき。
権力・金力・欲欲欲への誘惑。

悪魔の誘惑の絵や彫刻などは、宗教にはつきものであるが、写実性の違いはあるが東と西では中身といいますか性格がかなり違う。
ヨーロッパは具体性があり、残酷だ。
話はそれるが、スペインで有名なサクラダ・ファミリーによる聖堂は、全体が森の様相に見え、おどろおどろしたデーモンがそこかしこに潜んでいる。
教会の壁面のそこかしこにいる、デーモン像の方に興味を惹かれてしまう。
ヨーロッパは、長い冬のどんよりとした思い空の下、悪魔たちが次々と生れでたのだと感じた。
話を戻そう。
西洋の「誘惑図」は、仏教の「地獄図」のように、肉体への責め苦は極めて残酷。
釈迦が苦行中に出現した「悪魔の誘惑」等は、どこかユウモアがあり人間的だ。
苦行における「心の迷い」を悪魔という姿で現したことは同次元だか、西洋はキリスト教以前からの、デーモン信仰と結びついている。

日本の悪魔感覚と、西洋の悪魔とは性格がまったく違っている。
その違いは、政治・経済に現実的に様々な面で違いとなって現れていると思う。
日本の政治家諸士よ、感覚が本質的に異なっていることを認識し、事に当たってほしい。

ryusun

つぶやき

絵本と無縁になった大人に

子供たちに向けたというより、内なるものを呼び覚ます大人への絵本