棚からぼた餅--岩淵龍王丸

信州の山郷での暮らしと、絵本と無縁になってしまった大人に向けた創作絵本や、芸術活動をお話します。

ホウの木の花

2014-05-30 09:08:44 | 山郷の暮し
風香り光が舞い踊る五月。
若者ばかりではなく、オッチャン・おばちゃんもナニカいいことがありそうな五月もあと一日となりました。

散歩道に在る ホウの木の花 が咲き出しました。
大きな葉が重なる枝の先端に、ポッと蓮の花に良く似た白い花。
一面に花がつくわけではなく、順番にポツポツと現れる。
この様を観ていると連想する物があります。

チベットの仏画に仏様たちの集まりを大樹の形に模した「集樹会」があります。
この仏画を彷彿とさせるのです。
緑の天空に蓮華座がポッと現れ、仏様がお座りになっている。
そお思うと楽しくなってきます。

季節が進み新緑も色濃くなり、山藤やアカシヤがボーーとけむり、多彩な彩りになる。
時にはゾクッとするような深遠な色に変わって観えます。


立派なホウの大木 白い花が点々と観えます


山藤の花


川原のニセアカシヤ

大樹の姿 

2014-05-28 06:36:12 | 山郷の暮し

山沿いの散歩道には樹齢7-80年の杉・ヒノキ、ひときわ立派な唐松などの林がある。
いずれも幹周2メートルを超えるものばかりで「立派だなー」としみじみと感じる。

今朝はなぜか一層深く感じ、積み重なった年月の偉大な姿 だと魅入った。
そして、それに比べ人間は樹木のように 積み重なった姿 をそのまま現すことができない。
当たり前といえば当たり前であるが、人のなした偉業 とての残物にすぎない。
ならば芸術家は といえば、作品として残すことができているが、それとて今生きている姿そのものではない。
年齢そのものが生み出した姿、または偉容を現し得ないものか・・。
それは姿・様子がいいとか、威厳が在る とか言うことではないのです。

解ったようなワカラナイような、哲学的であるようなまったく戯言でもあるような・・、
そんな話になってしまうのですが・・。

樹木と人間を同次元で比べること自体が無理であることは十二分に承知はしているが、
今のオレは、この木のように年月を重ねた姿 を感じさせることができたらなーー。
少なくとも、そお思わせるような作品ができたら・・・。
とても 画僧生涯筆一竿 などといかない。

蛇足だが、絶筆といわれる作品に至り、始めて歳月が積み重なった姿 を見出せるようになるのかなーー。
俺のやっていることなど見上げている、大樹の一枝にも満たないのかも知れない。

まてよ・・大木を伐採し、切り出した板などにあたるものが 人が成した形 にあたるのかな・・。

人生のありかたに悩んでいる、などということではありませんが、このような思考を謳いあげた古今の詩などを
ご存知の方はお教え願いたい。

と、しみじみ思考しながらの散歩でした。



写真は苔むしたポプラ 野生の 山なし の大木

花子とアン

2014-05-24 09:02:46 | 山郷の暮し
NHKのアサドラ「花子とアン」ナカナカ面白いですね。
ヒロイン役の吉高由里子さんは、今後大いに期待できる女優さんと思います。
朝一にスキッとした、つやつやとしたお顔は視聴していて気分がいい。


甲府には友達が数人いて時々飲みに出かけますが、
「コビットしろし!!」と言う方 言面白い と感じますが、コビットは聞いたことがありません。
友たちはほとんどが山梨人ではないのでしかたがないとしても、地元の方からも聞いたことがない。
ここのところ、山梨に行っていないのでなんとも言えないがね「コビットしろし」が流行っているのではないだろうか。
先日友に「コビットしてるかい」と電話をしたら、大笑いだった。
ナントナクいい言葉ですね。

さて・・偶然ですが友達が移り住んだ地域が、ドラマの舞台になっている地域。
「そりゃもーえれー騒ぎズラ」と言う。
其の地域は水に恵まれない高台で「むかしゃーエれー苦労したズラ」と思わせるが、
今は果樹園が広がる美しい所です。

「物語はフィクションです」とわざわざテロップが出るのも、今までと違う。
伝記ドラマ的であるだけに、「ありゃー誰のことズラか・・」と、いろいろと憶測があることと思います。
毎朝楽しみにしている番組です。

お絵描き

2014-05-23 09:10:48 | 山郷の暮し
梅雨時のような朝で、ただいま製作に入っている 晴れ渡る空に泳ぐ新生命体 の空間と違います。
新生命体などと大層なことを言いましたが 鯉のぼり なのです。
(写真は5-3に投稿した 以前に描いたもの)

昨日は投稿ののち全力投球でアトリエにこもった・・・、のではありません。
水彩でイメージをしっかりとキャンバスに植えつけた後、油彩仕上げにする準備として水性ニスを塗り、
乾かしていたのです。
と言いますのは、私は20年ほど前から私製キャンバスにしています。
既成の油性キャンバスでは、水性から製作を始める独自の方法がとれないからです。

絵を画かない方にはナンノコトか不明でしょうが、キャンバスの地塗りは最も大切なこと。
発色や仕上がり方など、地塗りに左右されてしまう。

参考までに書きますと、胡粉とニカワをこね、バネルに何度も塗る。
塗っては磨くことを繰り返すのですが、これがナカナカ。
(時には剥げたり、ひび割れたり。肝心の発色が悪かったり・・・と失敗もする)

日本画の製作法と同じですが、最終は油彩にするので吸い込みを止めるために水性ニスを塗る。
十二分に乾いてから、いよいよ油彩彩色を始めます。

参考までに・・・既存のキャンバスに、即 油彩またはアクリル画をすることはいけません。
最終仕上がりのイメージによって 地塗り の数々があります。ここが研究のしどころ。
日曜画家とプロの大きな違いです。

何でそんなことを???。
特にオリジナルな作画法ではないのですが、手間隙をかけているうちに製作意図が益々蓄積されていく気がするからです。
そうすることが面白いことだと感じるからです。
おしまい

鯉のぼり のお絵かき

2014-05-22 09:19:35 | 山郷の暮し
皐月の空に薫風をいっぱいに吸い込んで泳ぐ鯉のぼり。
天空に眼が生まれ、躍動する様に、ただただうれしくなって今までに何枚もの 鯉のぼり の絵を描いてきた。
艶やかな色彩が天空に溶け出すように・・・。

以前にも(5-3)投稿しましたが、最近は 武者絵の昇り旗 に興味がでてきた。
昇り旗 は単に平面そのもので、そのまま天空に描いたとしてもまったく面白くもない。
それはただの写生か模写だ。

風を受け揺らめきだすと、武者たちが動き出す。
平面がボリュームを得るのである。そのような様変わりを表したい。
しかも、武者絵は一筆画(そうではないが)のような線描きが魅力だ。
この線を表しながら、平面を動かす ことである。
と、創意を言葉にするのは難しいが、描くとなるともっと難しい。

一気に筆が走るようになるまで習作をしてきたが、
今回は 大きな鯉のぼりがゆったりと泳ぐようにしたい。

風をイッパイにはらんだ重みを感じさせ、なおかつ変化自在に躍動するデカイ鯉のぼりと、
平面的そのものの 昇り旗 との対比を描きたいのだ。

創意はイッパイ。でっかい鯉のぼり以上です。


数枚描いた下図から構図を決定する

書き出しは水彩からアバウトに

よかお湿り

2014-05-21 09:10:36 | 山郷の暮し
昨夜からの雨は時折激しく降り、気温も下がった。
ただ今9時にならんとしているが、霧雨のようになってきました。

田植えや様々な苗の植え時で「一雨ほしいですねー」と、散歩時に行き会う農家との会話だ。
農家ならずとも、私のチッポケな菜園にとっても水遣りをせずに助かる。
というより、ずぼらな私だからこそありがたい。

さて今朝のTVで、里山のなかに木々が重なり合うような狭い谷の田んぼのことを「やす田」と言うらしい。
初めて聞く名称でネットで検索したがワカラナイ。
もしかしたら間違った記憶であるかもしれないが・・。
映像の光景は毎日の散歩コースの一廓にも在る。
ちなみに「安田」の地名は各地にあり、共通点は谷あいの処のようです。

自然ののなんでもない風景や様に、固有名詞をつける人々の大地との結びつきの暖かさを感じる。
日本の古い言葉には深い意味を持っていることを改めて知る。

無残な姿に

2014-05-17 15:01:52 | 山郷の暮し
真夏日になったかと思えば、アルプスの連山がにわかに黒雲に覆われ、冷たい風が吹いてくる。
展示をしてある境内に予期もしなかった突風が流れ込み「私の風景の中に貴方は在」の名品が倒れてしまった。

バランス的には安定を考慮した製作だったが・・・。
石膏鋳込みであるため壊れてしまい、なんとも無残な姿になってしまった。
首を失った像を見た人が「なにか気味が悪いわねー。どんな意味があるのかしら・・・」と。

修復はできないことはないが、ただちに取り掛かる気分ではない。


四角い枠は取り付け
陽炎のような微妙な動きを表した衣の流れや、肩は壊れてしまった


内部の空洞

現代の聖像

2014-05-15 09:30:45 | 山郷の暮し
ただいま写真家の兄貴の展示会に便乗して、牡丹の花が香る境内に数点の立体作品を展示しています。
メインは「出現の像・・私の風景の中に貴方は在」の大小3点

製作は20年以上のものですが、久しぶりの展示となります。
今までは美術館や画廊での発表でしたが、今回は兄貴の写真作品「想像可視世界」とナントナク組み合わせてみました。
寺境内という願ってもない舞台を得て、今までにない雰囲気で立派な作品だと自画自賛しております。

「私の風景の中に貴方は在」と長い題名ですが、私の風景とは人それぞれの思想・観念そして社会的範囲など
全般を指しています。

像の背後の四角形は額縁のようなもので、私たちは無限に広がる宇宙的視野をそのまま受け入れているわけではなく切り取っている。または枠を設けているのです。
其のことを象徴的に形ずけたものです。
ですから仏像などの光背とは違う意味で、この枠こそが必要不可欠で私のオリジナルな発想かと思います。

さて、貴方 とは、一人ひとりが内在している「聖なる姿」なのです。
それが必ずしも宗教的な観念とは限らず、理想像であってもいいのです。

そもそもこの像の発想のもとが、陽炎や煙または霧など、
もやーーとたちこめる中に「不思議な姿」を思い浮かべることから始まったものです。
しかし、お化けや霊などと夢想したらいけません。
自分の精神を高めてくれる「自分自身の理想像」だと捕らえることです。

長くなりました。
だれでもが内在する・・在る 聖なる姿・理想像は、宗教観に囚わない次元からの 現代の聖像 だと確信しています。

そのほか 「地球家族またはノアの方舟」「家族・・金文文字の愛からイメージ」




体調悪し

2014-05-13 09:41:20 | 山郷の暮し
お寺での展示会は連日「牡丹見学」で老若男女がカメラを手に大賑わい。
回廊での写真展は普段眼にすることがない地元の仏様たち。
「なんだい、あのきたねーお堂にこんな仏様があったのかい」
と、不信心な現代の老人たち??。
小さなお堂での念仏講は遠い過去になってしまったと、つくづく感じます。

今朝 散歩道でワラビを一掴み収穫してきました。
草生した路傍には山ふき・ねんぼろ・こごみ・などの山菜が生えているのですが、チョビット収穫をしたのは今朝が始めてだ。
というのは、摘む事も下ごしらえをすることも、なんとなくおっくうである。
その原因の元は持病の「ノテ病」に他ならないが、先年よりシビレが加わってしまった。
それも全身くまなく、たえずビリビリ。

脳梗塞で倒れた友が(今は正常)似ている症状だから検査をセヨ、と強く言われ、大学病院で脳検査。
まったくその気配はないが、全身のシビレ は ?????、と一粒の薬もなし。
しかし、暖かくなっても一向に収まらない。

私の外見はずんぐりむっくり、色艶よく眼力もそれなりにあり、健康そのものに見えるが・・・。
なによりシャクニさわるのが、時折足がもつれてしまう。そして、いやーーな疲労感だ。
そんなわけで、山菜取りもとてもする気が起きない。
どうなってしまったのか、我が身体。
年のせいだ などと言っていられない。
オレにはまだまだやりたいことだらけの、煩悩の塊なのである。

牡丹

2014-05-10 09:17:22 | 山郷の暮し
夜中に雷雨があったり、にわかに曇り冷たい風が吹く。
遅霜注意報があったり、朝夕は肌寒いほど・・。

毎日 みごとな牡丹の花を見ているのですが「描こう」という気にならない。
ただ今は赤系の花が多く、厚ボッタリした感じがしますが、其の花びらは薄くか弱い。
しかし、先日の大風にも千切れたり吹き飛ばされることもなく咲いている。

けなげ と称したいが、咲いている様はケナゲさとはいえず堂々としている。
立派 と言ったほうが適切な感じだ。
甘く妖艶な香りに包まれながら眺めていると、。
負け惜しみも十二分にあるが、光が透けるほどの弱よはしい花びらでありながら、なんとも強く立派な花だ。
そんな様はとても描ける自身がないので「描かない」のだ。

数々の牡丹の名画は浮かんでくるが、そのような作品があるのだろうか。

まったくあてずっぽうだが、確か南画で扇子に描かれた牡丹は最初に浮かんだが、
多くは日本画のボテッとした紙のような花びらであり、重い花ばかり。
私の好きな天才画家、沖若冲 の牡丹の名作ですら及んでいないのだ。
姿かたちを描くことはできても、すけた光の花びらや、こぼれ陽は超難しい。

水彩か油彩だったら可能かもしれないが、挑戦してみようという気もおきない。
(名画といえるものを見た記憶はナイ)
早々に私にはお手上げである。
負け惜しみ半分だが、そんなエネルギーがあったらほかのテーマに注ぎ込む、と自分に嘯きながら眺めている。

棚から牡丹餅・花より団子 いやいや、花よりちょいとイッパイ。
今夜は展示を祝して飲み会だ。




ryusun

つぶやき

絵本と無縁になった大人に

子供たちに向けたというより、内なるものを呼び覚ます大人への絵本