棚からぼた餅--岩淵龍王丸

信州の山郷での暮らしと、絵本と無縁になってしまった大人に向けた創作絵本や、芸術活動をお話します。

社会派作品ーー 海の叫び

2021-06-13 14:56:47 | 創作活動
久し振りの投稿ですっかり忘れ去られていることと思いますが、目を通してくれる方に心から感謝いたします。
しばらくぶりに訪れた居酒屋でしたら「コロナで来れなかったよ」と言い訳もできますが、
ブログではだただ自分のこと。
前置きはこのくらいで今年最初に完成をした作品を紹介します。

「海の叫び」サイズF50(1160X910cm)
地球温暖化が社会問題として話題になりつつあったのはまだ20年ほど前でした。
正直私自身もCO2問題はビンときませんでしたが研究をし、問題提起をした作品「海の叫び F100」を発表。
絵画作品としそれなりの評価を得ましたが、社会問題化してゆくほどのムーブメントにはなっていきませんでした。
その作品を描いた意義を私自身忘れかけていました。

地球温暖化のタイムリミットは2030年が分かれ道だ、というような番組を視聴しショックを受けました。
遠い先のことではなく、私もかろうじて生きている時代です。
「地球温暖化といっても俺が生きている時代には大丈夫だろう」
とまだ気楽な思いもあった一作目でしたが、この度の制作意図は差し迫った現実として表現しました。
観ていただいた方からも意味合いをよく理解をしてもらった。
それは以前とはかなり異なる反応で、みんなが地球温暖化危機意識を持っているのだと思います。

制作途中ですが私の分身ともいえる少女の赤色から白色のか~てーがんを着せて少しなじみのある色彩構成にした。


この少女は度々登場し、私だあり作品を観る皆さんなのです。
海底には産業革命いらい人類が犯してきた残骸を描く。


様々な怒り 悩み 絶望などを感じさせる目。腐りゆく目 なのです。





個展準備

2010-06-02 09:23:10 | 創作活動
ようやく平年並みの良い朝になりました。
今年の7月28日から松本市美術館にて、個展をすることになった。
タイトルは「りゅう王丸作品展-終戦65周年--人類の愚行を描いた40年」です。
私の青春時代は、1960年代のベトナム戦争が真っ只中でした。
それ以後たえることが無い戦争・紛争・差別などなどは、人類の最大の愚行だと、時々のそれらをテーマに創作をしてまいりました。
思想性の強い作品は、美術界ではあまり歓迎されず、当然それらの作品はお金にはならない。
しかし、其れは其れとして、尽きることの無い争い-戦争を告発した作品を制作し続けてきた40年でした。。
ズート以前から、終戦60周年か65周年にまとめて発表をする思いできたのです。
終戦65周年を機に新たな脱皮へのタイミングだと感じ、今年7月の個展に向けて一気にテンションを上げているのです。

環境による色彩感覚

2010-05-04 08:17:18 | 創作活動
優しい色彩が豊かな季節です。
刻々と変わってゆく色合いは、決して人口色では味わえないものです。
自然の真っただ中で、そんな営みを感じていますと、色彩感覚も大都会人とはちがってきます。
強烈な反射色の人口色のなかで過ごしていますと、いつの間にか其の色彩が自然色だと、感覚が思い込んでしまいます。
良い悪いの問題ではなく、感覚が根本的に違っています。
現代的な作品だと評価される多くの作品が、人造物・人造空間にマッチしているのが基準になっている。
選ぶ方も、プラスチックカラーー空間で育った方ばかりだ。
下の写真は4月上旬・・まるで花の蕾のように見える唐松の芽

ご案内

2009-12-25 09:07:12 | 創作活動
新春一番の美術展-五味画龍展(ごみがりょうてん)とは「甘い・辛い・苦い・すっぱい・塩辛い」の五種を仏教では五味といいます。
画竜点睛(がりょうてんせい)とは、ご存知のとおり最後の一筆によって仕上がるということですが、竜の文字でなく龍としたのは、最後は龍のごとく天空に飛び立っていくことを願ったものです。
蛇足ながら、登竜門もめでたい意味で、「後漢書(李膺伝)」には「竜門」は中国の黄河中流の急流で、これを登った鯉は竜になるという言い伝えから、立身出世の関門を称するようになった。
文学界では芥川賞がそういわれます。美術界での一般的な賞は何でしょう。シリマセン。
個性ある五人の作家が、それぞれの持ち味をご披露。
全世界が輝かしい光彩を放つ年になりますよう、正に登竜門として開催いたします。
●写真撮影取材をしたのち、デジタル処理によって別な創作表現を試みる。称して写画  岩淵 四季
●素直に対称を観る。カメラを向ける。感謝を込めて収める。ロマンに終わらない作品です。写真 赤羽 佳代
●ヨーロッパで学んだと言う砂絵。日本では数少ない作家の一人。
Sand Art  石田 恵美
●幼児が書いたのですか?と思われるのが最もうれしい、と、誰でもが喪失する世界を描こうとする。絵画 JOOTARO
●今はもっとヘタに描けれなくてはと思いつつも、実に難しくウマイ作品です。
 絵画 りゅう王丸 それこそ我流天性デゴンス。

MY TIBET チベットの仏画製作

2009-11-23 08:26:51 | 創作活動
私もかの地で優れた仏画師(ラマ僧)にお会いしました。
描くことが修行で、いわゆる作家名を描きこむことはありません。
信者たちが寄進のための製作依頼ですが、かなり高価なものでした。
私もほしいと思った30×50cm大の千手観音仏画は、日本円で10万くらいのことをいわれました。けっして吹っかけているのではなく、ソオなんでしょう。
もちろん手元にはありません。今でも目に浮かんでくる名品です。
仏画は寺院ばかりでなく、一般家庭の仏間に飾られています。
話はまたまたそれますが、ネパールのお土産のひとつにこのタンカがあります。
多くはネワール人が描いたもので、顔つきがチベット仏画と異なっています。
次いでながら、ネパールはチベット仏教にヒンドゥー教がミックスしたような独特なネワール仏教があります。
写真の立派なラマ僧は自画像です
ラマ寺院内を描く-より

13-MY TIBET チベットの仏画

2009-11-20 07:39:29 | 創作活動
13-タンカについて
仏画といえばまず思い浮かぶのが、掛け軸ではないでしょうか。
今日「床の間」のある新築家屋は少なくなってしまいましたが、床の間には掛け軸、下には生け花が置かれる定番の室内装飾です。
普通の壁に掛け軸がだらりと掛けられていることはまずありません。
ところが私がドイツのお宅で見たのは、高い天井の部屋に日本の掛け軸がぶらさがり、それがとても新鮮に見えました。
話を仏画に戻しますと、日本で本物のチベット仏画を観れるのはタンカと呼ばれる掛け軸です。
日本の掛け軸は、絹本(けんぽん--荒目の絹布ににかわを引いて描く)や紙本などを薄い和紙で裏打ちし、模様紙や布を美しく貼り付けた正に職人仕事のものです。
チベットの掛け軸-タンカは油絵のキャンバス地に近い感じで、主に綿布です。
装飾の布は縫い付けられたもので、なんとなく旗にもみえます。
チベットの気候風土から生み出されたものかと思います。
写真は2枚のタンカ・・普段は黄色の絹布が覆っている。

壁が修復作業

2009-11-19 10:14:16 | 創作活動
 
40年前に描いた壁画4×2.5mの修復をすることになり、ただ今格闘中。
お絵かきで格闘というのも変なたとえですが、絵筆でチョコチョコと修正すると言う仕事ではなく、1センチちかく盛り上げた繊維壁材が相手です。
そのほか、石膏セメントなどに顔料を混ぜたものを絵の具としているので、とても通常のお絵かきとはいきません。
20代前半の製作で、布キャンバスではとうてい不可能なほどの盛り上げが面白く、これでもかこれでもかと思える重ねようです。
正直、よく40年も剥げ落ちずに残っていたと、感心をしてしまいました。とはいっても繊維壁材は剥がれやすく、埃も吸いやすいので今は人気がないようです。
まずは剥げ落ちるものは落としきることからの作業です。
タバコのにおいが染み込んでいて、ツンツンとくるエライことになってしまった。
油彩画でもタバコの煙は大敵で、絵の具の中に深く染み込んでしまいます。
あらためてタバコってーヤツはヨロシクナイと思いました。

12-TIBET 仏の顔

2009-11-18 08:31:35 | 創作活動
仏画で最も難しく重要な目の書き方も定まっているが、時代によって流行があったのはおもしろい。
仏画の最重要点は目です。目はわずかな線引きで違ってしまう。どんなに位置を定義づけしてもどうにもならないことです。
例えば、左右をまったく同じに描いたとしますと、なんとも味気の無い死んだ顔になってしまいます。
そお、コンピューターで作ったあの薄気味悪い顔なのです。
フリーハンドで描くのは、どんなに対称に描こうとしてもソオならない。だからいいのです。そこに画家の個性が現れてくるのです。
画家の血がにじみ出てきます。もっと探っていくと、どんなに規定にのって描いてもネパールの画家の作、モンゴル人・ブータン人とどこか違ってきます。
私の知る限りですが、最新の作でいいのがモンゴル人の描いた壁画は近代性を感じます。当然、顔つきも異なっています。
いい顔とは美男美女を描くことではなく、観ている方がいつの間にか、仏其の顔になってゆくような気分にさせる顔、でなくてはいけません。

写真は我が家の土蔵に描いたチベットの観音---20年前の七五三記念写真

11-チベット仏画を描く

2009-11-16 09:08:02 | 創作活動
今日のチベット仏画は、長い歴史の上に独自のバランス感覚のスタイルが確立してきたことは大雑把に話してまいりました。 
具体的には、任意の1の長さをもとに割り振っていくので、姿勢は総てがコピー化されていく。
顔の傾き・目鼻の位置や大きさなどなど厳格に決まっています。
では、その割り振りの本はといえば、タブン人間の形、すなわち自分たち自身のからだと思いますが・・・。
画家はその升目の中で輪郭を描き出すのすでが、作者によって微妙に違ってきます。言い換えれば、骨の位置(中心)はコピーされても、肉着けが違ってくることによって、どうしても雰囲気が異なってしまいます。
当たり前といえばアタリマエなんですが、これこそ描手の個性で、同じような図形で微妙に違っていることを見い出すのは面白いことです。
また、時代・地域によって違っているので、年代鑑定の目安になります。
 
右図はただ今製作の「チベット寺院内を描く-360×200cm」の一部

ryusun

つぶやき

絵本と無縁になった大人に

子供たちに向けたというより、内なるものを呼び覚ます大人への絵本