夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

たかが宝くじ、されど宝くじ、老ボーイの私は当選したら、と長年夢想を重ねて、やがて微苦笑し・・。

2016-05-17 15:19:05 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の71歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後38年の古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

午前中のひととき、小雨降る中、私は駅前に20分ばかり歩いて、歯科医院で治療を受けた後、
『宝くじ』売り場に行き、ドリームジャンボ発売中を確認した後、10枚ばかり買い求めた・・。

そして手に取ったら、『熊本地震被災地支援ドリームジャンボ』と明記されていたので、
もとより外れる確率は圧倒的に多く、今回も貢献かな、と微苦笑をしたりした。

そして今回の『熊本地震被災地支援ドリームジャンボ』は、1等は5億円と初めて知り、
5億円を私が手にしたら人生観が変わるよなぁ、と何かと単細胞の私は微苦笑したりした・・。
                    

私は2004年(平成16年)秋に定年退職をする1年前の頃から、
「ジャンボ」と称される宝くじが発売される時だけ、確か一等は数億円と知り、
一枚300円の宝くじを10枚だけ、四季折々に発売されるたびに買い求めることが多かった・・。

私は中小業のある民間会社に35年近く奮戦してきたが、
サラリーマンの時代では、生涯の給与、ボーナス、退職金を合算しても税込2億5000万円であった。

そして最後の5年はリストラ烈風の中、あえなく出向となり、何とか年収1千万円台で卒業できたが、
大企業で栄進された方、或いは官公庁の上層部のように高額所得地位にも成れず、
つたない私は程ほどの年収、退職金であり、金融資産も程ほどとなっている。

こうした中で、多くの方たちから人生の3大支出と称される教育資金、住宅資金、老後資金の中で、
無念ながら私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、子供の教育資金は不要となり、
結果として程ほどの預貯金は出来たりしていた。

こうした中で、経済にも疎(うと)い私が、
信愛している経済ジャーナリストの荻原博子さんなどの数多く著名人の寄稿文を読み、
デフレ経済の蔓延している中、公的年金を受け取りながら堅実に年金生活をし、
預貯金が3000万円あれば、少しづつ取り崩して生活すれば、少しはゆとりのある年金生活ができるかしら、
と学んだりした。

しかしながら定年後に、多々理由で年金生活を始めた時、
古ぼけた一軒屋を、新たに新築すれば少なくとも3000万円は資金を要すると思い、
老後の資金に余裕がなくなり、私たち夫婦の趣味の国内旅行費などに制約されると思い、断念した。

そして定年退職時の2年前に、少しリーフォームをして、500万円前後で整備した程度となった。
                    

このような思いを秘めてきた私は、一枚300円の宝くじを10枚だけ、
四季折々に「ジャンボ」が発売されるたびに、買い求めることが多かった・・。

そしていつの日にか、1億円ぐらい当選すれば、5000万円前後で新築し、
残りの5000万円は、国内旅行の滞在日数を今より増やしたい、と夢想したりしている。

或いは南太平洋を一か月ぐらい豪華客船に乗船して、背延してバルコニーのある部屋に滞在したい、
と夢想をする時もある。

しかしながら夢から覚めた現実としては、定年退職時の半年前に5万円当選し、
2年前に1万円当選したが、これまでは少なくとも年に12000円を買い求め、
11年半過ぎた今は、概算14万円は投じてきたので、もとより採算は合わないこととなっている。

何かしら富裕層の方たちは、宝くじは余りにも当選確率は低いので、投資信託などで堅実に利益を上げている、
と私は学んだりしたが、哀しき平民の私は、もしかしたら・・と夢想しながら買い求めている。
            

夢見る少年、少女は可愛らしいが、齢ばかり重ねた老ボーイの私は、哀れかしらと思ったりする時もあるが、
『ジャンボ宝くじ』を買い求めなければ、もとより当選はしないので、買い求めてしまう。

そしていつも結果を知り、見果てぬ夢だよなぁ、と微苦笑を重ねたりしている。

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医師のホンネ「人間ドックは必要ない」「余命わからない」と私は学び、困惑して、やがて微苦笑し・・。

2016-05-16 15:26:54 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の71歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭の中で、古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

こうした中で、私の住む市では年に一度の健康診断は、
過ぎし平成19年度までは『お誕生日検診』と可愛らしい名称であったが、
この後は、何かしら基本健診に血圧測定、血液検査などが加味され、『特定検診』と改称された。

私は健康診断を受診する時、基本健診としては、
身長、体重、採血、心電、尿検査、血圧測定などが行われた後、最後に医師との問診となっている。
そして希望者には胃がん、大腸がんの検診があり、私は毎年受診してきている。

家内も私に準拠して受診しているが、女性の身であるので、婦人系の検査を加味し、受診している。

そして私は、こうした年に一度ぐらい健康診断をされない方は、命を粗末している御方だ、
と公言したりしている・・。
            

昨夜、ネットでニュースを見ている中、
【 医師のホンネ「人間ドックは必要ない」「余命わからない」 】と見出しを見て、
どういうことなょ、と思いながら精読してしまった・・。

この記事は、【NEWS ポストセブン 】5月15日配信されたひとつで、
原文は女性専用週刊誌の『女性セブン』2016年5月26日号に掲載された記事のひとつであり、
無断であるが転載させて頂く。

《・・名医50人が『直撃!コロシアム!!』(TBS系、4月11日放送)で、
ぶっちゃけた本音が「あまりにもひどすぎる」「情けない」とネットで大炎上した。
その内容は、耳を疑う話ばかり。

ここではさらに掘り下げて、医者・病院の真実を聞いてみた。
            

同番組に出演していた『おおたけ消化器内科クリニック』の大竹真一郎院長は、
「人間ドックは、問題だらけ」とまで言い切る。
年に1度の人間ドックの結果に、一喜一憂している人には、衝撃的な話。


「いい加減なところが多いし、言われるがままにすべての項目を受ける必要は、まったくない」
人間ドックは保険外診療なので、病院によって価格の差が大きい。
検査のオプションを増やせば、金額はどんどん高くなる。

どう受ければいいのか悩むところだが、大竹氏は「必要のないオプション検査は、受けなくていい」と話す。

「例えば、全身を一度に撮影して、がんの早期発見をするPET検査。
がんと診断された人を詳しく調べるために、PET検査は必要ですが、健康な人は受けなくていい。
PET検査をやった人とやっていない人で、死亡率の差はまったくないですよ。
何十万円もする検査ですが、見逃しが山ほどある」
            

一方、同番組に出演した医師で医療ジャーナリストの森田豊氏は、番組で「人間ドックは意味がある」と回答していた。
「人間ドックで見つからないケースもありますが、多くのがんは検診で見つかります。
罹患者が多いということで、地方自治体が推奨している乳がん、子宮がん、肺がん、大腸がん、胃がん検診。
これは絶対にやった方がいいです」

ただ高い検査を受ければいいというわけではないのだ。
            

さらに、大病を患って気になるのは、あとどのくらい生きられるのかということ。
余命宣告は本人と家族にとって、その最後の時間をどう生きるか考える上でも、とても大切だが・・。

「余命宣告は、半分カンである?」の問いに、半数の医師が「Yes」と答えた。

その意味を大竹氏が説明する。
「今は基本的に、余命宣告なんてしません。

息も絶え絶えで、家族が見てもわかるような状態なら別ですが、
正直言って、1年や半年単位で、患者さんの余命なんてわかりません。
ただ、生存率の統計データを示して、可能性をお伝えします」

例えば、今の病状であれば、5年後に生きている人は30%といったデータを伝える。
ただしあくまでも確率の話。
「あと半年です」などと余命宣告をする医師がいても、その言葉をうのみにしては、いけないのだ。・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
            

私は1970年(昭和45年)の春に、ある民間会社に中途入社して以来、
定年退職した2004年(平成16年)の秋まで、会社から春、秋に実施されている健康診断には、
欠かさず受診し、そして苦手なバリウム薬を飲む胃がん検診も、積極的に受診してきた。

この間、50代の前半に、二度ばかり『人間ドック』で多岐に及び検査を受けて、
異常なし、と結果されて、安堵したりしてきた。

その後、リストラ烈風の中、あえなく出向となり、『人間ドック』の受診まで心身余裕がなく、
出向先で定年退職時を迎えた拙(つたな)い身である。


定年後は多々の理由で、年金生活を始めて、やがて『国民健康保険』に加入した結果、
毎年市から斡旋される健康診断を受診している。

こうした中で、再検査・要を3度あったりした。
            

過ぎ去りし年の2010年〈平成22年〉の秋の健康診断を受診した時、
糖尿病と明示され、茫然としながら、翌日より食事の内容はもとより、ウォーキング、散策をしたりしている。

やがて最寄の内科に4週間毎に定期健診を受けているが、
ここ3年は悪玉コレステロールは基準値の90%、これ以外はほぼ優等生となって、改善努力の成果となっている。

こうした定期健診を受けるたびに隣接した薬局で、血糖値を下げる薬を頂き、
日々朝食後に飲んでいるが、これ以外は至って健康だ、と思ったりしている。
            

過ぎし年の2013年〈平成25年〉の秋には、何故かしら『胃がん検診』の結果だけは、『要精検(内視鏡)』に◎印が囲まれていた。

私は担当の医師から、『胃の下腹にあたる幽門部に粘膜面異常が見られますので、再検査をして下さい』
と写真の6枚を見ながら私に説明をして下さった。

『再検査と言いますと・・胃カメラを呑んで・・検査することですか?』
と私は医師に言った。

『代表的な検査としては、胃カメラで検査することが多いですね』
と明るい表情で医師は私に言った。

私はこれまでの胃がん、大腸がんの検診をしてきたが、すべて良好の『精検不要』となっていたので、
生まれて始めて胃カメラを呑んで、再検査かょ、と何かと小心者の私は怯(おひ)えた。
                    
この後、この医師に調布市で胃腸科に関して評判の良い病院に紹介書を頂き、
そして紹介先の病院に訪れて、胃の再検査を予約の申し入れて、やがて受診した。

結果として、医師の問診があり、私は医師から検査で写した鮮明な写真を8枚ばかり、
パソコンの画面から解説を受けたりした。
『胃潰瘍・・わずかに見られます』
と医師から私は言われたが、家内に胃潰瘍と診断されたこともあったので、私は安堵した。

そして私は胃ガンの初期状態は・・?』と私は医師に問い合わせた。
『現状では、そのような徴候はありませんょ』と医師は明るく私に言った。
            

今年の3月初旬には、大腸がんの検診で再検査・要と診断されて、
大腸の内視鏡の受診し、恥ずかしながら肛門から内視鏡で盲腸まで約1メートルを挿入された結果、
内視鏡の検診をして下さった医院長より、大きなポリープはふたつ有り、摘出して傷口は出血防止の為、クリップで縫逢し、
小さなポリープは6ばかり有り、いずれワイヤーで摘出しました、と私に説明して下さった。

こうした中で、悪性腫瘍であれば、癌に進むこともあり、
よくみられるポリープと思われますので・・と医院長より私は言われて、御礼の言葉を重ねたりした。
            

或いは昨年の2015年〈平成27年〉の晩秋には、白内障の手術を左眼、そして右眼を受けた。
確か5年前の健康診断で、白内障の疑いがあり、検査・要、と診断されたが、
小心者の私は、やはり眼の手術は怖くて、放置していたが、やむなく昨年の晩秋には、白内障の手術を受けて、
酷い近眼だった私はメガネ不要となり、視力が1.0前後となり、戸惑いながら微笑んだりしてきた。
            

今回の難題、「余命わからない」に関しては、私は複雑な思いを秘めている。

私の父は私が小学2年の時に、肝臓が悪化して、やがて42歳の若さで肝臓ガンで死去した。

そして母は私が54歳の時に病死したが、数年前から入退院を繰り返して、
婦人系のガンで喜寿(きじゅ)と称される77歳を迎えて、まもなく亡くなった。

家内の父は私が定年退職する直前に病死されたが、やはり4年前から入退院を繰り返して、
腎臓ガンで77歳で死去した。

私の母、そして家内の父も、最初に入院して、まもなく医師から、
5年すぎれば・・余命が長くなる場合も・・あります、
とこのような意味合いの言葉を頂いたが・・。

私は医師、看護師、そして治療を受けている人の努力も肝要であるが、
生死の境は、神様か仏(ほとけ)様に采配されている世界と、思いを深めている。

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舛添知事いいわけ語録を読み、余りにも心の節度が欠けた人、と無力な都民の私は憂いを深めて・・・。

2016-05-15 14:29:15 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の71歳の身であるが、
結婚前後5年を除き、都民のひとりとして66年ばかり過ごしている。

私は政治にも疎(うと)く、近現代史など歴史に興味あるひとりであり、
政治家は権力と重責を収集するので、一般社会人より遥かに言動が注視され、功罪も追及される人であり、
在任中に功績が7割、罪悪が3割で有ったら、十二分に責務を果たした、と私は評価している。

代表的な御方は、元首相の田中角栄さんである。
            

昨今、私が住む東京都の舛添要一知事が、新聞、雑誌に掲載されることが多く、テレビのニュースでも放送され、
ときおり読んだり、視聴してきたが、何かしら悪しきことばかりで、無力な都民の私でも、憂いたりしている。

たまたま先程、ネットで、【舛添知事いいわけ語録 「せこすぎる!」今に始まったわけじゃない公私混同批判の数々】
と見出しされた記事を読み、私は溜息を重ねたりした。

私が読んだ記事は、『産経新聞 』が5月15日に配信された記事であり、
無断ながら転載させて頂く。

《・・正月に行った家族旅行の宿泊費をホテルの部屋で「大事な会議をした」と政治資金で支払っていたことを認めた東京都の舛添要一知事。

13日の会見では「不徳の致すところ」と述べ、税金も含まれる政治資金への認識の甘さを謝罪した。

しかし、こうした指摘はいまに始まったことではない。
掛け軸などの美術品や漫画本を購入して「資料代」と称したり、世田谷区の自宅に毎年多額の事務所費を支出したり…。
「公私混同」との疑念は、これまでも何度も指摘されてきた。

反省を口にするのなら、なぜこれまで聞き入れてこなかったのか-。
            

■1年半前にも「美術品は日仏交流の材料、問題ない」

「政治活動の資料代として正当な活動なので、いちいち申し上げませんけれども、
私は(政治資金で)バーとかキャバレーは行きませんから。
そういう時間があったら、(古書店街として知られる)神田神保町へ行ったり、
ネットで『国民のための資料』を一生懸命見つけて、勉強してやろうと思っており、一切問題ありません」

そう声高に主張したのは、一昨年11月21日の定例会見。
舛添氏が参院議員だった平成23、24年、画廊やアートギャラリー、高級な美術書専門の古書店などから、
政治資金で、掛け軸や版画などの美術品を多数購入していたことが発覚。

報道陣から追及を受けた際の発言だ。

舛添氏は、美術品は自ら店頭やネット通販で入手し、自宅や知事室に置いてあるとし、
「研究本を書くための資料だ」などと説明。
「いろいろな意味で日仏文化交流のときの材料になっている」などと持論を展開した上で、「問題ない」と繰り返した。
            

■「国民のための資料」 マンガも購入…「国会議員やれば分かる」

舛添氏は、ほかにもクレヨンしんちゃんの漫画やクイズ本などを購入し、
美術品と同様に「資料代」「書籍代」などの名目で経費処理。
その金額は23、24年の2年分だけで計約907万円にも及ぶ

舛添氏は会見で、保護者から「子供がクイズばかりやって困っている」
「子供が悪い言葉使いを真似てしまう」などの陳情を受け、内容確認のために買ったなどと説明。

「一度国会議員をやってみれば分かると思うが、毎日のようにそういう陳情が来る。
だから、わざわざ買ったわけです」などと述べた。

報道陣からは「美術品は資産価値が高い」などとする指摘もあったが、
舛添氏は「いまは資料として使用中。終わったら捨ててもいい」などと反論。

「国民のための資料で、一切問題ない」などと取り合わず、政治資金での美術品の購入は。その後も継続した。
            

■政治団体事務所を自宅に置き家賃受け取り 解散時には「清掃代」も

また、舛添氏は、少なくとも新党改革の代表に就任した22年以降、
自らが代表の「新党改革比例区第四支部」(解散)など自身の関連する複数の政治団体から事務所費として、
毎年計531万円(月44万2500円)の支払いを受けていた。

支払先は舛添氏の妻が代表のファミリー企業「舛添政治経済研究所」。
いずれの団体も世田谷区にある舛添氏の自宅に事務所を構えており、「家賃」名目で税金を含んだ政治資金が、
自宅を所有する舛添氏個人に還流している格好だ。

識者からは「自らの懐に入る仕組みは、道義的問題がある」
「自宅の場合は家賃を取らない政治家も多い中、せこすぎる」などと批判が相次いだが、
こちらについても舛添氏は「何の問題もない」「きちんとルールに基づいて、不動産鑑定士と公認会計士できちんと決めている」と反論。

離党に伴う政党支部の解散時には、「ハウスクリーニング代」(約28万円)などもきっちり徴収した上で、
その後も新規に立ち上げた別の政治団体「泰山会」から同額の家賃を取り続けている。・・》
            

何かしら石原元都知事の時代の時は、都知事の年収は2600万円、退職金は任期の4年ごとに4300万円、
と公表されているが、現代の舛添要一知事は余りにも公私混同が激しく、心の節度が欠けた人、と憂いを増したりした・・。

私は何より問題視しているのは、約13,574千人の都民をあずかる東京都の執行最高責任者として、
自覚が欠けている御方と思ったりしている。
たとえば新聞で読んだりして知ったが、湯河原の別荘宅に毎週のように土曜、日曜日でお出かけ、と知った。

多事多難が山積する都政の中、東京都の執行最高責任者の任期中は、自制して世田谷区にあるご自宅と都庁を往還して、
重責に対処するのが、職責であり、舛添要一さんがご不満であるならば、知事を辞職して頂きたい。
            

今回の舛添要一知事の不祥事、都の約16万5千人の職員の御方は、都民の不満、クレームに対して対応に追われ、
恥ずかしく困窮している、と私は想像を深めている。

舛添要一知事は、襟を正して、数多くの都民、そして職員の方々に、
信頼される都知事として、相応しい言動を遅ればせながら期待している。


余談であるが、思い馳せれば前職の猪瀬直樹さんが、前回知事選の直前に医療法人徳洲会から5000万円を受領し、
返金した問題をめぐって都政の昏迷を招いたことで辞職し、やむなく知事選が実施された。

私は立候補者を見て、舛添要一さん、宇都宮健児さん、細川護熙さん、田母神俊雄さん等の中で、
これからの東京都・・と思いながら、消却法として、舛添要一さんに清き一票を投票した。

今回の舛添要一さんの不祥事、東京都以外にお住まいの数多く国民からも、あきれ果てて唖然とされた方も多かった思われ、
私は消却法ながら舛添要一さんに投票したひとりであり、責任を感じながら、心の純潔を穢(けが)されるような心情となり、
舛添要一さん、どうしてあのような幼稚な言動をしてきたのですか、と問いたい。


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ときには情報機器、老ボーイの私は丸3日シャットダウンをして、やがて微苦笑を重ねて・・。

2016-05-14 08:54:21 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の老ボーイの身であるが、
過ぎし年の2004年(平成16年)の秋に定年後、多々の理由で年金生活を始め、
まもなくブログの世界を知り、国内旅行とかパソコンの故障がない限り、毎日に一通は投稿し、丸11年半が過ぎている。

私は年金生活を過ごしている中で、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
          
そして私は愛読しているブログの数多くの御方の投稿文を読ませて頂いたり、
コメントを頂戴したり、返信をしたりしている。
或いは数多くの御方の投稿文を読ませて頂く中で、ときおりコメントをしたりしている。

こうして私はブログに関しては、ほぼ毎日3時間前後は要して、過ごしている。
          

私は恥ずかしながらガラケーと称される携帯電話、
そしスマホと省略されているスマートフォンも使えない拙(つたな)い身である。

その上にフェイスブック、ツイッター、そしてモバイルパソコンにも無縁であり、
やむなくインターネットは固定回線の光ファイバーの『フレッツ』を頼りに、
せめてと思いながら据え置き型のパソコンとノートパソコンを利用している。

このように無線のモバイル情報機器に遠い世界の出来事のような思いながら、
稀(まれ)な時代遅れの国民のひとりとなっている・・。

我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、もとより息子、娘もいなく、
モバイル情報機器に関しても疎(うと)く、昨年の春に遅ればせながら家内専用の携帯電話を買い求め、今日に至っている。
          

たまたま過ぎし8日より、私たち夫婦は国内旅行を3泊4日してきたが、
私はパソコンは据え置き型のパソコンとノートパソコンであり、
家内は携帯電話を持参しているが、原則として独り住まい家内の母に対して、
安否確認専用電話のように利用している。

このような結果として、丸3日は情報機器がシャットダウンをしてしまい、
時代遅れの私は、旅先で独り微苦笑をしたりしてきた・・。

平素はパソコンを毎日3時間前後は使用している習性があるが、
旅先では平素より読書時間が増えて、持参した本を2冊ばかり読み、
そして10日発売の総合月刊雑誌『文藝春秋』(6月号)を買い求めて、読んだりした。

やがて11日の夕暮れに帰宅した私は、夜のひとときにパソコンを開き、
まもなく私のブログサイトの古き投稿文、或いは最近の投稿文に、毎日400名以上の御方が訪れて下さり、
偏(ひとえ)に感謝を重ねたりした。
          

しかしながら、過ぎし年に私が愛してやまないパソコンが突然に故障して、私が年金生活をしてきた中で、
最も困窮した苦い体験があった・・。

過ぎし2001年(平成13年)の秋になると、定年退職時が2004年(平成16年)の秋であったので、
定年後の生活に備えてパソコンを買い改めたりした。

そして市販の最高級品のパソコンを選定し、そしてプリンターも新調し、
民芸風の大きな机、脇机、そして椅子を買い揃え、定年後に備えたりした。
                              

やがて私は2004年(平成16年)の秋に定年退職後、まもなくブログの世界を知り、
私は無我夢中に毎日数通は投稿し、そしてブログ上のコメントで知り得た8名の御方と、
お互いにコメントを交わしていた私のブログ熱中時代の時であった・・。

そして定年後の生活に備えた肝要のパソコンは、
2006年(平成18年)9月中旬に、予告もなく突然にダウンした。

この当時は年金生活2年生をまもなく卒業を迎えようとしていた私は、
『10年ぐらい利用しょうと思ってたのに・・どうして突然に故障するのよ・・』
と心の中で呟(つぶや)きながら、長らく黒くなった画面を見つめ、落胆を深めたりしたりした。

やむなく買い求めたパソコンの量販店に修理を依頼したが、
1週間後に我が家に来宅することをなり、私は困窮した・・。

我が家は無念ながらパソコンは、この当時は一台しかなく、この来宅するまでの1週間の間、
どうしょうかしら、と私は悩んだりした。

この当時の私は、ブログ上で盛んにコメントで交流を重ねていた時代で、
コメントを頂いたりし、半日以内に必ず返信していた。

こうした状況下では、もとより返信が出来なくなり、
相手のお方はいつも半日以内に返信を下さるに、どうしたのかしら、
と戸惑うと思いながら悩んだりした。

もとよりリアルの交流であったならば、電話でお詫びの連絡もできるが、
ブログの世界は匿名が多く、連絡できる方法がないのである。
たとえ匿名の世界であっても、何よりも信頼が大切なのに、と私は困苦したりした・・。
          

そして私はこの修理の期間、パソコンのレンタルを量販店に依頼をしたが、
弊社は扱っていません、と素っ気ない返事を私は受けたりした。

やがて修理が最悪の場合に備えて、このパソコンの量販店に最新のパソコンの下調べに行き、
魅了されたパソコンが販売価格25万円に、我が家の予算計上にしていないので、
ため息を重ねながら困り果てた・・。

この帰路、25万円かょ・・空から舞い降りてこないかしら、と思ったりして帰宅した。

            
我が家の年金生活の基本は、厚生年金、わずかな企業年金を頂き、通常の生活費するのが原則としている。
しかし共通の趣味のひとつである国内旅行、或いは冠婚葬祭などの思いがけない出費などに関し、
程々の貯金を取り崩して、ささやかに過ごしている。

こうした中、私たち夫婦は毎年の新年を過ぎた頃に、思いついた購入する予定の品物、旅行計画などの概要の経費を話し合ったりし、
今日に至っている。
          
         
我が家の家内は、テレビ、パソコン、デジカメなどに無知なひとりで、
こうした商品は半永久的商品、と確信したように思い続けていることであった

年金生活をして5年ぐらいまでの頃は、特に耐久商品と称される品の購入には、
私は気弱になり、耐久商品の買い替え時にためらったりしていた時期であった。

そして私が現役サラリーマン時代の時は、程ほどの年収を得ていたので、幾たびか買い換えてきたが、
しかし年金生活となれば、限りある厚生年金、企業年金からの収入には、もとより限度があるので、
私は気弱になり、予算を計上するできなかったりした。

こうした中で、私の愛してやまないパソコンが壊れたりしてしまった・・。
          

やがて待ち焦がれたパソコンの量販店の修理の技術者が予定通り来宅した時、
パソコンの故障を点検して結果、心臓部のキャッシュメモリ、メインメモリの一部でわずかな磨耗があり、
部品の交換すると10万円を超える、と私は言われた・・。

私の現役サラリーマン時代の50代の頃は、冷蔵庫、クーラーなどを新調しょう、
と私は家内に気軽に言ったりして、購入したりしていた。

しかしながら、この当時の我が家の年金生活の年次購入予定品目もなかったが、
やむなくパソコンの新製品を買い改めることに決意した私は、家内にどう説得するかであった。

そして私は長らく中小業の民間会社のサラリーマンをしていたので、
多事多難の対処には鍛(きた)えられ、こうした中で多少の悪知恵も備えられてきた。

家内は冷蔵庫、洗濯機をよく手入れをするタイプで、
過剰に掃除し過ぎ、やむえず新調した体験があったことを、思い馳せたりした。

やがて私は居間に置いているパソコンから、台所にいる家内に近くに寄り、
『XXちゃんさぁ・・昨今のパソコン自体、飛躍的に進歩しているし・・
前に買ったパソコンより遥(はる)かに廉(やす)くなっているの・・この際、思い切って新しいのにしょうねぇ・・』
と私は少し懇願するように家内に言った。
          
          
結果として、データ強制移行料などを含めて、27万円弱で、魅了されたパソコンに新調し、
やはり最新のCPUは速い、と私は微笑んだりした。
         
パソコンのデザインも良く、安定したドライブの配置もあり、好感し、
年金生活の中で、日々こよなく愛用して、文字通り私の愛機となった・・。

こうしたことは一般の御家庭すれば笑い話になるが、
私としては年金生活11年半を過ぎる中で、何よりも困窮し危機一発の出来事であった。
          

この後のパソコンは2011年〈平成23年〉6月に於いて、
この当時の主流の『ウィンドウズ7(セブン)』の新機種を買い改めた時、予備機として一台は設置している。

やむなく従来の『ウィンドウズXP』と新たな『ウィンドウズ7(セブン)』を
当面2台のパソコンを置いたりしている。
          
         ☆この当時の記念写真・・左側が現在愛用している『ウィンドウズ7(セブン)』、右側は旧機の『ウィンドウズXP』☆

このような私のささやかなパソコンの足跡があるが、
『ウィンドウズXP』は2014年(平成26年)4月9日にセキュリティ賞味切れとなるので、
やむえなく私も『ウィンドウズXP』に別れを告げて、
2013年(平成25年)12月中旬に最新の『ウィンドウズ 8.1』を対応させた。
          
        ☆左側が現在愛用している『ウィンドウズ7(セブン)』、そして右側は買い求めた『ウィンドウズ 8.1』☆
          
やがて昨年より、『ウィンドウズ7(セブン)』、『ウィンドウズ 8.1』に関して、
最新の『ウィンドウズ 10』に無償でアップグレードできると知ってきたが、
風の噂として、一部に不安定な要素があると学び、何かとパソコンの技量に乏しい私は、ためらっているひとりとなっている。

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伊豆半島・堂ヶ島のたわむれ遊学記 最終 堂ヶ島温泉ホテル

2016-05-13 12:16:59 | 
『堂ヶ島温泉ホテル』に3連泊した部屋は、本館の4階にある指定された部屋であり、
窓辺近くにあるテーブル、椅子から、そして部屋の前にあるバルコニーからも、
三四郎島の展望も良く、彼方は西伊豆特有の海岸線を眺めることが出来た。
            

そしてバルコニーはゆったりとした6畳ぐらいの広さであり、外壁は白く船型の曲線となり。
あたかも豪華客船に乗船しているような幻想となったりした。

私は国内航路の一部とハワイの一部航路しか知らなく、豪華客船には無縁であり、
豪華客船のパンフレットを見て、部屋の中の配置を見た限りあるが、
たまたま今回指定された部屋の方が、ゆったりとした上、やすらぎを感じる間取りである、
と錯覚を繰り返したりした。

翌日、この『堂ヶ島温泉ホテル』のパンフレットを見ていた中で、
《・・風にクルーズする船のように。
海からの爽やかな潮騒を受けて、
今にも出航するかように遠くを見渡す白い建物。
堂ヶ島温泉ホテルで始まる、あなたのリゾートクルージング。・・》と記載されていたのに、
何かと思い込みの激しい私でも、驚きながら微苦笑をしたりした。
            


わたしは朝夕、幾たびかバルコニーから眺めたりしたが、飽きない情景であり、
英語に苦手な私でも、オーシャンビューだよねぇ、と私は家内に言ったりした。            
            

温泉に関して、堂ヶ島温泉の数ある観光ホテル・旅館の中でも、唯一独自の源泉が湧き出し、
大浴場は「化粧の湯」と称されて、確かに71歳の私でも、衰えた肌もスベスベとなり、幾たびか微笑さえ、浮かべたりした。

そして露天風呂は、庭園の外れにあり、波打ち際の近くにあり、名所の三四郎島が前景に眺められ、
たまたま私が入浴した時は、昼下がりで陽射しが燦々と照らす中、独りで入浴となり、
打ち寄せる波の音色が風に流されてくるのが聴こえ、贅沢なひとときを過ごしたりした・・。
            

私たち夫婦は国内旅行が共通の趣味のひとつで、四季折々旅路を重ねたきた。

私が現役サラリーマン時代は、やはり日数には制約されて、
短き日程となったが、定年後に年金生活を始めると、6泊7日前後が多くなったりしている。

こうした中、旅先のリゾートホテル、観光ホテル、旅館など、魅せられる予感を感じた場合は、
3連泊前後をする為に、最寄駅にある旅行代理店に依頼して、幾たびも旅路を享受してきた。

或いは通販旅行会社として名高いクラブツーリズムに於いて、長期滞在型のフリープランがあるが、
宿泊先を基点に、周辺を歩き廻ったりし、格安で少なくとも10数回は活用してきた。

ここ一年、家内は家内の母の小事、介護が増え、昨年の初秋の頃から、家内の妹が援軍となり、
ふたりで交互に母の小事、介護をしているので、のんびりと旅行をする心情は遠いているが、
今回は久々(ひさびさ)の海辺の旅路となり、短じかな3泊4日となったりした。
            

こうした中、今回も私たちは、朝食前に入浴した後、朝食を頂いた後、
朝の9時過ぎから周辺を歩き廻り、やがて午後3時前後に帰館し、
私は夕食時まで入浴したり、本を読んだりしている。

家内は源泉好きで、幾度も入浴したりしているが、今回は介護の疲れの為か、
夕寝を少ししたりしていた。

私は夕暮れ時になると、館内の売店で4合瓶の地酒を買い求めて、
部屋の窓辺にある椅子に座りながら飲んだりしてきたが、今回からは断念した。

やはり齢を重ねれば、夕食の時だけ飲むこととし、
根底には健康寿命を延ばすには、何かしら断念することが必要だ、と思ったりしてきたのである。
            

今回、天候は曇り時々雨が多く、10日の日中のひとときだけ快晴となり、
伊豆・西海岸は夕陽と名高いが、無念ながら敬遠されてしまった。

そして私が秘かに期待していた満天の星空も、私は嫌われてしまった。

しかしながら晴れる時もあり、曇り空、或いは雨の日もあり、
人生と同じかしら、とつたない人生航路を歩んだ私は、微苦笑したりしている。

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伊豆半島・堂ヶ島のたわむれ遊学記 ③街中、付近を散策すれば・・。

2016-05-12 16:00:44 | 
5月9日、午前中は曇り、と報じられていたので、朝の8時半過ぎから堂ヶ島の中心街の近くにある遊歩道を
一時間ばかり散策した。

この後、『海の道』を歩く予定にしていたので、短めとなったりした。

そして堂ヶ島最大の魅力と称せられる天窓洞は、白い凝灰岩からできており、その地下は蜂の巣のように海蝕トンネルができている。
この洞窟への入口は、東口と南口、西口があり遊覧船は、この南口から入り中央にある天井が丸く抜け落ちた天窓まで進み、
暗い洞窟の中に天井から、光の帯が海面まで差し込み神秘的な光景が見られる、伝えられている。

私たち夫婦は、1995(平成7)年6月初旬に、家内の両親を誘い、土肥温泉に宿泊した時、
この堂ヶ島に立ち寄り、遊覧船に乗船して、イワツバメが舞う中、神秘的な天窓洞を見たりした。

今回、私たちが散策したは、天窓洞を上からも見ることができる堂ヶ島遊歩道のコースである上、
周辺の島々が展望できる快適な路であった。


翌日、小雨が予報されていたが、曇り一時快晴となり、10時半過ぎから、街中、付近を散策した。

そして私は家内と別れて、天窓洞にある『昭和天皇歌碑』を訪ねた。
何かしら昭和29年に昭和天皇がお越しになられた際、と御詠みなされた歌碑であった。
  

  たらちねの
  母が好みしつわぶきは
  この海の辺に
  やがて花咲き匂ふ

この後、与謝野鉄幹・晶子の歌碑があると知り、私は立ち寄ったりした。
昭和10年の早春に、ご夫妻は堂ヶ島に訪れ、天然記念物に指定されている天窓洞を見て詠まれた、
と伝えられる歌である。
          

”島の洞 御堂に似たり舟にして 友の法師よ 参れ心経“ 鉄幹

”堂ヶ島 天窓洞の 天窓を 光てくだる 春の雨かな“ 晶子

私は和歌も詠めないつたない身であるが、晶子さんが詠まれた一句に、
やはり歌人としては才女だ、と微笑んだりした。


やがて私は、お土産屋さんで家内と合流した後、『加山雄三ミュージアム』が視えたが、
私は街起こしに協力している加山雄三さんの主旨は理解できるが、
私は加山雄三さんの言動には苦手であったので、通りすぎたりした。

そして私たちは街外れを散策した後、昼食代わりに食堂に入ったりした。
家内は生しらすと生桜エビを盛った丼(どんぶり)を食べたりしたが、
私はイカの『舟上沖干し』を注文した。

大きめのイカが、二日干しより幾分固かったが、これが私としては最適であり、
ビールを2本ばかり飲みながら、至って満足な風味となったりした・・。

しかしながら家内は、期待した味より欠落した為、コーヒーを注文して飲んだりしていた。

やがて食堂を辞して、私は『セブンイレブン』に立ち寄り、
本日発売の総合月刊雑誌の『文藝春秋』(6月号)を買い求めたりした。

この後、歩いて宿泊先の『堂ヶ島温泉ホテル』に帰還する途中に、小さなお堂が視えたので、
私たちは立ち寄った。
          

宿泊先に戻った後、このお堂は『堂ヶ島薬師堂』で、鎌倉時代に製作された寄木造りによる木像薬師如来坐像、
木像阿弥陀如来坐像、木像釈迦如来坐像が安置され静岡県の重要文化財に指定されている、
と知り、私は無知なことが多すぎる、と微苦笑したりした。


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伊豆半島・堂ヶ島のたわむれ遊学記 ②トンボロ現象を求めて

2016-05-12 10:25:22 | 
今回、私たち夫婦が伊豆半島の西海岸にある『堂ヶ島』で、3泊4日の旅路をした。

ここ一年近く、家内は家内の母の小事、介護をしてきたが、
やがて昨年の初秋の頃から、家内の妹も加わり、交互で家内の母の小事、介護をしている。

そして一か月前の頃、家内は介護の疲れた表情が見られ、海を見たいわねぇ・・と私に言ったりした。

こうした時、通販旅行会社として名高いクラブツーリズムから送付されてくる月刊誌から、
伊豆半島の西側にある『堂ヶ島』で、温泉のある観光ホテル『堂ヶ島温泉ホテル』で3泊4日滞在プランがあり、
海辺を眺め、周辺を散策したり、何かとゆっくりと過ごせそうなので、私たち夫婦は瞬時に同意した。

この3泊4日滞在プランには、下田プリンスホテル、東急下田ホテルもあったが、
私たち夫婦は下田には幾たびも訪れてきたので、対象外とした。
何よりも『堂ヶ島』を選定したことは、トンボロ現象が見られることであった・・。

何かしら三四郎島は、沖あい200Mほどの処にある伝兵衛島・中ノ島・沖ノ瀬島・高島からなる4つの島で、
見る角度により3つに見えたり、4つに見えたりすることからこう呼ばれている。

こうした中で、普段は海なのに、干潮時になると一番手前の伝兵衛島まで瀬が現れて、
足をぬらさずに歩いてわたることができる現象を「トンボロ」と称されている。

ただし、干潮時でも30センチ以上潮が引く時でなければ、歩いて渡ることは難しく、
たまたま5月8日の午前12時半には、潮位がマイナス4センチ、
翌日9日の午後1時には、潮位がマイナス1センチが予報され、ここ一か月以内で最少の潮位と知り、
これだったら私たちでも、歩いて『海の道』を歩いて行ける、と悦びながら旅路を選定した。
          


5月8日、私たち夫婦は東京駅より特急『踊り子』に昼12時に乗車し、下田駅で下車した後、
路線バスを利用して『堂ヶ島』バス停で下車した後は、
宿泊滞在する『堂ヶ島温泉ホテル』の送迎車が待機して下さり、チェツクインしたは、午後4時であった。

そして宅配便で到着させた旅行ケースを受領後、指定された4階にある部屋で身支度を改めた後、
明日の昼過ぎに『海の道』を歩く予定にしていた私たち夫婦は、庭園から海辺を歩き廻ったりした・・。
  

そして私たちが気付かされたことは、海岸、海辺は砂浜でなく、玉石とじゃりが集積され、
歩きづらいと処であった。

『海の道』を歩くことは、海水が引いた後で、大小の玉石が殆ど海水に浸かって、苔もあるので滑りやすく、
油断をするとケガになるので、注意しながら歩く処と思ったりした。

その上、天候は本日は晴れ間から曇り空となり、明日からは朝の9時過ぎから小雨が予測され、
その後の日々も小雨時々曇り、と報じられていた・・。

『XXちゃんさあ・・小雨の中、傘を差して『海の道』を歩くことは・・難儀だよなぁ・・』
と私は悪い予感を家内に苦笑しながら言ったりした。


翌日、午前中は曇り、と報じられていたので、堂ヶ島の中心街の近くにある遊歩道を散策した。
          

やがて一時間過ぎた頃から雨雲に変貌してきたので、宿泊している『堂ヶ島温泉ホテル』に10分ばかり歩いて戻り途中で、
小雨が降りだした。

そして『堂ヶ島温泉ホテル』の庭園近くにある松林で、傘を差しながら『海の道』が潮が引くときを待ちわびたりした。
まもなく本降りとなり、私たちは松林にある木のベンチに、傘を差して腰を下ろしたりした。
          

やがて10時半過ぎ、『海の道』が殆ど潮が引いたので、私たち夫婦は歩き出した。
本降りの中、傘を差して歩き始めたが、やはり足元は大小の玉石が海水に浸かっていた為、苔もあるので滑りやすく、
ゆっくりと歩いたりした・・。

途中で、私はデジカメでシャッターを押しても、傘を差しているので定まらい中、撮ったりした。


そして後方を見ると、私たちを見て、渡ろうかと数人の人が思案していたり、
その後も10数人増えたが、やはり歩くことを断念して、退散している状景が見られた。
  

やがて私たち夫婦は、沖あい200Mほどの処ある伝兵衛島にたどり着き、私は記念に撮ったりした。
          

そして私たちは帰還して、松林に戻った時、雨は激しさを増した・・。
          

私たちは幸運にもタイミング良く渡れたよねぇ、と私は家内に微苦笑しながら言ったりした。


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伊豆半島・堂ヶ島のたわむれ遊学記 ①過ぎし年に堂ヶ島を訪れた時の思いで・・。

2016-05-11 21:24:25 | 
私たち夫婦は、5月8日より3泊4日で伊豆半島の西海岸にある堂ヶ島を滞在旅行をしたが、
伊豆半島の東海岸が幾たびも訪れてきたが、西海岸はわずかとなっている。

戸田、土肥だけは宿泊した体験があるが、特に堂ヶ島に関しては、ささやかな想いでを秘めている・・。

遠い昔、1960年〈昭和35年〉の夏、私が高校1年の時に夏休みを利用して、
初めて独りで宿泊する旅行をして、伊豆七島のひとつの大島に訪れた。

夜、東京湾の確か晴海埠頭(はるみ・ふとう)だった記憶しているが、
ここから乗船し、早朝に伊豆大島を訪れた後、
午後に出航する観光船で、伊豆半島の下田港に向かい、下田にある観光旅館に宿泊する。

そして翌日は伊豆半島の西岸を観光周遊バスで、名所に立ち寄りながら北上し、
修善寺にある観光旅館に宿泊した後は、
三島まで私鉄を利用し、国鉄(現在・JR)で東京駅に帰京するプランであった。
             

私は旅行鞄のボストンバックを提げて、
白いワイシャツと黒の長ズボン、革靴と通学とまったく同じ様な学生服の容姿で、
東京の晴海埠頭から東海汽船の観光船で、伊豆大島行きに乗船した。

確か夜の10時に出航し、翌朝の4時前に大島の岡田港の沖で着いて、
島の朝が動き始める6時頃に入港した、と記憶している。

この間の乗船していた時は、仕切りのない大部屋のゴロ寝のような感じで、
私は大部屋の片隅に横たわり、旅先の盗難を警戒していたのでボストンバックを握りながら、
不安げに眠れない深夜を過ごした。

岡田港に下船した時、高波警戒の注意報の掲示板があり、少し不安げに私は見つめていた。

私は午前中に大島の観光バスで半日周遊観光をした後、
午後、元町港から下田港行きの定期航路の観光船に乗り、そして下田の観光旅館に予約済みであった。

このような思いがあったので、高波警戒の注意報が気になり、
うつろな思いで、初めての伊豆大島の情景を車窓から眺めていた。

半日周遊観光の終点は元町港であったが、
下田港方面は本日欠航、と私は掲示板を見て、小心者の私はどうしょう、と内心うろたえたのである。

しばらくした後、下田港、伊東港は欠航、熱海港は午後2時過ぎに出航、と報じられた・・。

私は予期せぬ周遊で、熱海港行きの定期観光船に乗船したが、
観光客で満席となり、私は客室に入らず、
ボストンバックを握り締め、サン・デッキ付近の小さな椅子に腰掛けた。

空一面は、わずかな雲で快晴の青空が拡がり、私は燦燦と照り昼下りの陽射しを全身に浴び、
果てしなく海原が広がる情景を眺め、そして潮風を受けながら、私は身も心も爽快な心となった・・。
          
          
この当時は、私にとっては苦手な俳優の加山雄三さんが演じた若大将シリーズ映画が、
盛んに映画館で上映されていた時代であった。
そして海に魅了される人たちの思いが、少し解かったような心情となった。

わずか1時間半ばかり航路であったが、
熱海港を下船後、私は伊豆急行が開通前の時期で、
東海バスの下田行きの路線バスの乗車場所を何とか探し、乗り込んだりした。

この当時は、伊東から下田までの伊豆急行が開通前の時期で、
鉄道の施設の工事を盛んにしていたので、埃りっぽい中をバスで南下したのを、
おぼろげに記憶している。

下田に着いた後、予約した観光旅館を探し当て、
大浴場で心身を清めていたが、余り疲れを感じることなく、
何とか予約した観光旅館に着けた、という思いが強く、安堵したりした。

夕食の時、和服を召した綺麗な若き女性の仲居さんが、
『お客様・・何か・・お飲みものは・・』
と私は訊(き)かれ、
『・・サイダー・・お願い・・』
と私は若き仲居さんに少し見惚(みと)れながら、不馴れな浴衣姿で照れながら言ったりした。

この当時の私は、もとよりビールの味も知らず、
和服を召した若き仲居さんに、綺麗な女の人、と感じながらも、
うっとりと恥ずかしげに見つめるだけの少年であった。

この後の周遊は、下田から石廊崎、そして堂ヶ島から修善寺に周遊観光バスで周遊していた時、
堂ヶ島で自由昼食となり、私は迷いながら『さざえ丼(どん)』を注文して、
食堂のはずれで、海を眺めながら食べたりした。
          

この当時の私は、恥ずかしながら外食の丼(どんぶり)は、親子丼、カツ丼しか知らず、
初めて食べた『さざえ』であり、鮮烈な風味だったことを、今でも記憶している。

この後の周遊は、予定通り順調であった。

私は16歳をまもなく迎える前、独りで初めての旅行をし、
今となっては、愛惜ある旅のひとつとなった。


この後は、1995(平成7)年6月初旬に、私たち夫婦は家内の両親を誘い、
土肥温泉の『今井荘』に、わずか一泊二日の旅路をした。

新宿より小田急の特急『あさぎり』を活用して、沼津で下車した後、
沼津港からフェリーに乗船して、やがて堂ヶ島で下船し、観光船で島めぐりをしたりした。

そして堂ヶ島港から土肥温泉港に行き、ささやかな宴会をした翌日、
修善寺に路線バスで行き、虹の里に寄り、やがて『あさぎり』で新宿に帰還した旅であった。

このように堂ヶ島に関して、私はたった二度ばかりささやかな想いでとなっている。

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久々(ひさびさ)に私たち夫婦は、海辺の旅路を3泊4日で遊学することとなり・・。

2016-05-07 11:57:22 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の71歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭の中で、古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

こうした中で、私たち夫婦は国内旅行が共通の趣味で、国内の折々の旅路を重ねてきた・・。
2004年(平成16年)の秋に定年後、多々の理由で年金生活を始めると、
サラリーマンだった時代からは、旅行日数などに何かと制約が解放され、6泊7日前後が多くなったりしている。

私は定年後まもなく、無念ながら判断力が衰え、自動車の免許証の更新を断念したので、
もとより旅先でレンターカーなどは利用できない身である。

こうした関係で、交通機関と宿泊先を確定させた上で、遊学してきた。

私たち夫婦が旅先のリゾートホテル、観光ホテル、旅館など、魅せられる予感を感じた場合は、
3連泊前後をする為に、最寄駅にある旅行代理店に依頼して、幾たびも旅路を享受してきた。

或いは通販旅行会社として名高いクラブツーリズムに於いて、長期滞在型のフリープランがあるが、
宿泊先を基点に、周辺を歩き廻ったりし、格安で少なくとも10数回は活用してきた。
            

ここ一年、家内は家内の母の小事、介護などで、旅行を断念したりしてきた。
一か月前の頃、家内は介護の疲れで、我が家の居間で仮眠から目覚めた時、
海を見たいわねぇ・・と私に言ったりした。

やがてクラブツーリズムから送付されてくる月刊誌から、
伊豆半島の西側にある『堂ヶ島』で、温泉のある観光ホテルで3泊4日滞在プランがあり、
海辺を眺め、周辺を散策したり、何かとゆっくりと過ごせそうなので、私たち夫婦は瞬時に同意した。

そして家内は、家内の母の介護の責務もあり、短い3泊4日であったならば、
家内の妹と調整し、息抜きに良いかしら、と私は微苦笑したりして、
明日の8日より、久々(ひさびさ)の旅行をすることとなった・・。

思い馳せれば、前回の旅路は、昨年の2月中旬、オーホック海に面した紋別で3連泊した後、
サロマ湖の湖畔で3連泊し、帰路に網走湖畔で一泊した旅路であったが、
遠い昔の出来事に思えたりした。

私たち夫婦は年金生活は早くも11年半が過ぎているが、
殆ど毎年3回ぐらいは旅行をしてきたが、こんなに間隔を開けたのは初めてだょ、
と私は微苦笑したりしている。
            

そして久々に海辺の旅路か、と思いながら、過ぎし年の投稿文を読み返したりした・・。

たまたま私が読んだ自身の投稿文は、昨年の7月20日に於いて、
【 里彦だった私が、海の匂いを初めて感じ、やがて海に魅せられた時は・・。】であった。
http://blog.goo.ne.jp/yumede-ai/d/20150720

私のささやかな海の思いを認(したた)めたひとつであり、変わらぬ想いだよなぁ・・と微苦笑したりしている。

*旅行の準備、これから旅行もあり、当面はコメント欄を閉鎖させて頂きます。

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私たち夫婦は老々介護の時代を迎え、ときおり私は『おひとりさま』となり、微苦笑して・・。

2016-05-06 10:43:41 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の71歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭の中で、古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

過ぎし年、私の父は私が小学2年の時に病死し、母は1998年(平成10年)1月に死去され、
私は53歳の時であった。

そして家内の父は、私が定年退職する2004年〈平成16年〉の秋の直前に病死され、
このような状況なので我が家の両親は、無念ながら家内の母だけとなっている。

家内の母は我が家から電車・バスなどを乗り継いて2時間ばかりの千葉県の八千代市で、
一戸建ての独り住まいの生活をされて、早や11年半が過ぎている・・。
           

家内は、家内の母が独り住まいとなった当初から、
安否を含めて、殆ど毎晩30分前後ぐらい電話連絡をしたりしている。

そして私たち夫婦は7年前の頃までは、年に数回は国内旅行に誘い、
やがて、家内の母の『母の日』には、やはり温泉ね、と要望され温泉滞在旅行が多かった。

家内の母は、平素は女友達のグループで小旅行をしたり、街歩きをしたり、
或いは独りで実家の上越市に訪れたりすることが多い。

この間、やはり後期高齢者の身であるので、内科、眼科、整形外科などに通院してきた。

このような中で、日常生活の身の廻りはある程度は出来ているが、
長女の家内は季節の変わるたびに、大掃除、季節ごとの室内のカーテン、布団、暖冷房器具、衣服、庭の手入れなどで、
7泊8日前後で母宅に泊りがけで行っているのが、ここ11年の恒例のようになっていた。

この間、私は『おひとりさま』の生活となっているが、
いずれは私たち夫婦は片割れとなり『おひとりさま』となるので、 特別演習かしら、
と思いながら私は過ごしている。
           
こうした中で年末年始は、独り住まいになっている家内の母を我が家に来てもらい、
私たち夫婦と共に年末年始を共に過ごすのが、ここ11年の恒例行事のようになっている。
           

独り住まいとなった家内の母は、千葉県の八千代市に一戸建てに住み続けて、
年金を頼りに程ほどの貯金を崩しながら、おひとりさまの生活をしている。

確か8年前の頃だったと私は記憶しているが、
年金は月平均14万円前後で貯金を少しづつ崩しているが、長生きを考えると心ぼそいわ、
と家内の母はこのような意味合いの言葉を、長女の私の家内に言った。

そして私は家内から聞いて、毎月少し融資を受けられる『リバースモーゲージ』を本格的に調べたりした。
『リバースモーゲージ』は、老後資金がどうしても不足してしまう場合には、自宅不動産を活用し、
自宅を担保にお金を借りて、慣れた自宅を手放さず、死亡後に担保を売却して元本を返済する方法である。

やがて家内は孤軍奮戦した結果、家内の母の住む八千代市の社会福祉協議会より、
家内の母は、毎月3万円の融資を受けている。

この間、社会福祉協議会より一戸建ての査定をして、相場の70%前後の融資総額となり、
家内の母の相続人の長女の家内、そして次女などの承諾書を提出したりしてきた。

家内の母は、家内に、お父さんの遺(のこ)された一戸建て・・私の老後で喰いつぶしてしまうけれど、
とこのような意味合いの言葉を家内に言った、と後日に私は家内から聞いた。
           

私は家内に結婚してまもない時に、
お義父(とう)さんとお義母(かあ)さんが築きあげてきた財産に関して、
どのようにお使いになっても、僕は関係ないょ・・と私は家内に言ってきた。

こうした私の根底には、私が結婚する時、私の母から、
男子(だんし)たる者は、奥さんの実家の財産をあてにするのは、最低の男だからねぇ、
と私は叱咤激励されたので、もとより家内の母のいつの日にかの遺産は、あてにしてこなかった。

やがて家内の母は、年金に毎月3万円頂くので助かるわ、と家内に言ったと、
と私は家内から聞いたりして、悦んだりした。

そして家内の母は、自身の葬儀代を預けるから、と家内に程ほどの金額を振り込んだ、
と私は家内から聞いたりして、私は微苦笑しながら、
お義母(かあ)さんらしいねぇ、と家内に言ったりした。
                               

やがて家内の母は、5年前の81歳を過ぎた頃から膝(ひざ)を悪化して、
杖(つえ)を突いて歩く身となった。

やがて市の福祉課を通して、『要支援2』と認定されて、
市の福祉課からのアドバイスにより、住まいの一部を補修したりしたが、
介護の助成金のお蔭で、たった一割負担で済んだりした。

そして私たち夫婦は、お醤油、ソースなどの調味料、洗剤、雑貨品などの重い品物と感じられる品の数々を、
積極的に宅配便を活用して送付したりしている。
                    

こうして家内の母は、独り住まいとなって早や11年半が過ぎているが、
私は家内の母に対して、たったひとつだけ困惑することがある。

年末年始の時節になると、独り住まいの家内の母に年末に我が家に来宅してもらい、
私たち夫婦と共に新年を我が家で過ごした・・。

こうした過ぎし6年前のある日、居間の炬燵に入り、食事をしたり、談笑したりすることが多かったが、
ある時、家内の母が、
『あたし・・やっぱり・・百まで生きたいわ・・』
と呟(つぶや)くように家内に言ったりした。

私は家内の母が100歳になる事は、私は86歳、家内も81歳の高齢者となるので、
これを聞いた私は困り果てて、勘弁してょ、と心の中で思いながら、笑ってごまかしたりした。
                     

私は定年退職の60歳を迎えた時、これからの10年間は何とか五体満足で、その後は余生である、
と日頃から公言している。

私は煙草も喫い、時折お酒も呑むし、身勝手な日常を過ごしているので、
75歳以上は想像がつかない未知の世界と思っている。

家内から言うわせれば、
『貴方は・・皮肉ぽく・・憎まれ口を言っていますので・・長生きできますよ・・
私の方が・・平均寿命まで無理と思うの・・』と私に年に数回ぐらい言ってたりしている。

このようなことを私たち夫婦は、家内の母が百歳まで生きられたら、
老々介護以前に、私たちのどちらかは片割れになるか、或いは夫婦ふたりとも死後の世界、
と思ったりしたのである。

人それぞれ永(なが)らえるのは、自助努力も肝要であるが、こればかりは神様か仏(ほとけ)さまの采配による、
と私は思い深めているひとりである・・。
           

やがて昨年の5月下旬より、家内の母は膝(ひざ)、腰も悪化して、大学病院に入院した後、
リハビリで近くの病院に行ったりしている。

そして家内と家内の妹は交互に、大半は家内の母宅に宿泊して、家内の母の食事、洗濯、掃除、
或いは通院の付き添いなどしているので、必然的に多くなっている。

やがて数週間前、家内の母は市の福祉課が再審査を得て、『要支援2』から『要介護1』と認定されたりした。

何かしら身だしなみや掃除などの身の回りの世話に手助けが必要で、
立ち上がり、歩行、移動の動作に支えが必要とする時があり、
排泄や食事は殆ど自分でできるが、問題行動や理解の低下がみられることがある方が対象されている。

こうした状況を家内から教えられた私は、いよいよ老々介護の時代に私たち夫婦はなった、と実感した。
           

今朝、家内は独り住まいの家内の母宅に介護に行く日であったので、私は平素より2時間半ばかり早く、
4時少し前に起床した。
やがて私たち夫婦は朝食後、まもなく玄関の軒下に降り立った。

そして6時少し前、私は門扉の近い道路に降り立って、
『お義母(かあ)さんに、よろしく・・』
と私は家内に言った後、家内を見送くったりした・・。

こうした関係で、ときおり私は我が家で、独りぼっちの『おひとりさま』の生活を過ごしている・・。

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日本で最初に「中華麺」を食べたのは水戸黄門と知り、何かと無学な私でも、「びっくりぽん」と呟き・・。

2016-05-05 16:25:41 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の老ボーイの71歳の身であるが、
一昨日に小庭の手入れをしたが、体力の衰えた私は中断したような結果となり、
本日は朝の8時半より、敗者復活戦のように汗まみれ泥まみれで、草むしりを専念した。

結果として昼食抜きで5時間半ばかり奮戦したが、しゃがんで草むしりをしたり、
樹の下の周囲にある雑草を取ろうと、地面に這いつくばりながら奮戦すると、
やはり腰や足に負担が増し、私は若くないよなぁ、と苦戦した。

やがて遅い昼食後、腰がだるさを感じながら、ネットをぼんやりと見ていると、
日本で最初に「中華麺」を食べたのは、水戸黄門と知り、何かと無学な私でも、
「びっくりぽん」と呟(つぶや)りした・・。

私が見た記事は、愛読している『東洋経済オンライン 』で、5月4日に配信された記事のひとつ中、
【 「ラーメン」の真実をどれだけ知っていますか 】と題された記事であった。
            

何かしらモノ情報誌のパイオニア『モノ・マガジン』(ワールドフォトプレス社)と東洋経済オンラインのコラボ企画で、
今回は、日本人の国民食といってもいいほどのラーメンについて、あなたはどのぐらいのことを知っていますか、
と主題であった。

そして私は単細胞のように読んだりした。
《・・
01. 「ラーメン」とは中華麺とスープ、チャーシューやメンマなどさまざまな具材を組み合わせた麺料理のこと
02. 「拉麺」「老麺」「柳麺」とも表記されるが、ほかに中華そば、支那そば、南京そばなどとも呼ばれる
03. 使用される麺は「小麦粉」を原材料に、「かん水」というアルカリ塩水溶液を添加するのが特長

04. そのため同じ小麦粉を原材料とする麺でも、うどんや中国の多くの麺料理とは異なる独特の色や味をもつ
05. 多くの場合、自家用の製麺機で製麺するが、製麺会社が製造する麺を使用する店もある
06. 麺と同様に重要視されるのが「汁(スープ)」で、原料によって味や色、風味にさまざまな違いがある

07. 日本のラーメンの原点とされる「醤油ラーメン」の場合、鶏がらを基本に野菜と削り節や煮干で味を調える
08. ラーメンの出汁には豚骨、牛骨、昆布なども使用され、臭み消しには長ネギ、生姜など香味野菜が使われる
09. それら複数の出汁をまとめるために、店によっては「旨み調味料」(化学調味料)を添加する場合もある

■ 日本で最初に「中華麺」を食べたのは? 

10. 日本で最初に「中華麺」を食べたのは、常陸水戸藩の第二代藩主・徳川光圀(水戸黄門)といわれている・・》

私は徳川時代に於いて、何かと国民から今でも親愛されている水戸黄門と称されている徳川光圀公と知ったが、
本当かょ・・と半信半疑であった・・。

そして下記を読んだ後、ありえるなぁ・・と微笑んだりした。
            

《・・
11. 1659年に明から亡命した儒学者・朱舜水が水戸藩に招かれた際の所持品リストに中華麺関連のものが存在
12. 中華麺を献上したという正式な記録はないものの、光圀は食通としても知られるため可能性は高いとされる
13. 1697年には光圀の隠居所・西山荘を訪問した僧や家臣らが、中華麺を振舞われたという記録が残っている
14. その後、江戸時代に開港した横浜・神戸・長崎・函館などに明治期に誕生した「中華街」から麺料理が発展・・》

このような時代状況を学んだりした。

私は「ラーメン」に関しては、殆ど「醤油ラーメン」を愛食し、
特にチャーシューが多く入ったチャーシュー麺が、食事処であれば積極果敢に注文してきた。

私は最初に「ラーメン」を食べたのは、1955年(昭和30年)小学4年生に独りで映画館に行った帰路、
駅近くにある「ラーメン屋」さんで、この当時の「醤油ラーメン」を頂き、
満足しながら確か35円を支払った記憶がある。
            

ここ10数年、私は家内と共に冬の旅路で、雪が舞い降る時、ときおり昼食代わりに、
その地のラーメンを食べた後、お互いに評価したりして、談笑したりしている。

余談であるが、私が「びっくりぽん」と新用語を学んだは、
昨年よりNHK連続テレビ小説『あさが来た』を家内は愛視聴し、
こうした中、家内がときおり、私に「びっくりぽん」と言ったりしてきた・・。

やがて何かと単細胞の私は、「びっくりぽん」と新用語を覚え、
昨今は、私でも「びっくりぽん」と呟(つぶや)く時もある。

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「白飯」をもっと美味しく食べる方法を教示され、老ボーイの私は微苦笑を重ねて・・。

2016-05-04 16:57:34 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅に住む年金生活の71歳の身であるが、
午前中のひととき、近くにある散髪屋(理容室)に行った後、
いつもように買物メール老ボーイの私は、家内から依頼されて品をスーパーで、買い求めて帰宅した。

先程ぼんやりとネットをも見ていたら、
【 あなたならどうやって食べる?
     最高のご馳走「白飯」をもっと美味しく食べる方法教えます【作ってみた】 】
と見出しを見て、好奇心に負けて精読してしまった・・。

この記事は、【ダ・ヴィンチニュース】より5月4日に配信され、
JUNKOさんという御方が綴られ、無断であるが転載させて頂く。
            

《・・日本人が昔から愛してやまない食材、それは「お米」です。
これがあったからこそ長寿大国日本が築かれてきたと言っても過言ではないほどです。

エネルギー源となる豊富な炭水化物をはじめ、たんぱく質、カルシウム、鉄、ミネラル、ビタミンといったものもバランス良く含まれており、
茶碗一杯で体に必要な栄養素をたくさん摂取できるので、海外ではダイエット食としても注目されているほど。

そんな白飯は、ホカホカの炊きたてだけでも立派なご馳走ですが、
そこに手軽な食材を合わせると、より白飯の美味しさが引き立てられたりします。

そんな究極な白飯の楽しみ方をまとめた『究極に旨い白飯の食べ方』(宝島社)が発売になりました。
身近な食材を使ったレシピ、著名人のとっておきの食べ方、さらには日本全国郷土のご飯のお供、人気ふりかけベスト10まで、
白飯を美味しく食べる方法がぎっしり詰まった1冊です。

今回はこの中から、身近な食材を使った簡単でうますぎる3品を実際に作ってみました。
            

1.新玉ねぎの甘みが美味しい!「玉ねぎ納豆ご飯」(P.48)

ボウルに粗くみじん切りした新玉ねぎを入れて電子レンジで加熱し、
ここに納豆、めんつゆ、からし、すりごまを加えて混ぜ合わせます。
最後に、白飯にたっぷりかければ完成です。

こちらは日本伝統の発酵食品・納豆に、今が旬である新玉ねぎを加えた、アレンジ納豆ご飯レシピです。
新玉ねぎの食感を活かすために、粗く刻み、加熱しすぎないようにするのがポイントで、
そうすることでシャキシャキした食感が残り、また甘みもアップします。

これを納豆と混ぜ、ホカホカ白飯にかけて食べると、口の中にふわ~っと優しい味が広がります。
思わず、口の中に一気にかきこみたくなる一品です。
            

2.バターが溶けていく姿が愛おしい「おかかバターご飯」(P.57)

白飯の上にしょうゆをかけ、バターをのせます。
これを電子レンジにかけてバターを溶かしたら、最後にかつお節、ごまをふりかければ完成です。

こちらは、和と洋な食材を使った、ちょっと斬新な組み合わせのご飯レシピです。
白飯にバターを溶かすだけでも、かなりのコクがプラスされるのですが、
ここではさらにたっぷりのかつお節をふりかけることで、ますますコクがアップして、とっても深い味になりました。

かと言って、決して濃すぎる味ではなく、さらっと食べられます。
小さいお子様や、外国人でも美味しく食べられるレシピです。
            

3.おろししょうががアクセント「やきとり缶混ぜご飯」(P.66)

白飯にたれ味のやきとり、おろししょうがをのせ、混ぜれば完成です。

こちらは、市販の缶詰を使って、混ぜるだけという超簡単アレンジレシピです。
甘辛いたれがかかったやきとりを白飯にそのままのせて混ぜることで、白飯にもたれが絡み、
そこにおろししょうがが入ることで、味にメリハリが出ます。

やきとりがなくなっても、このたれ+おろししょうがだけで、バクバク食べられそうなくらい。
風味をしっかり出すためにも、熱々のご飯を使うことがポイントです。(略)・・》
            

私は2004年(平成16年)の秋に定年退職後、多々の理由で直ちに年金生活に入り、
現役サラリーマン時代は悪戦苦闘が多かった為か、解放感で高揚したりした・・。
        
この当時の私は、朝食は白米のご飯を腹いっぱい食べながら、インスタントのワカメの味噌汁、
コブの佃煮、ラッキョの塩漬け、福神漬けなど、
そして魚を煮たり焼いたりする代わりに、せめてと思いながらシャケの瓶づめ、或いは鯖(サバ)の味噌煮の缶詰が、
日々貫徹のように食べたりしていた。

私は幼年期に農家の児として育ったので、齢ばかり重ねた今でも、
ご飯と汁、おかずと香の物で成り立っていた庶民の『一汁三菜(いちじゅうさんさい)』が、
何かと心身の波長に合ったりしていた。

やがて体重は増えてしまったので、やむなく食事の前には、玉ネギをスライスし、生ワカメと和え、
ミツカンの『味ぽん』とお醤油をかけて盛大に頂いたりした。

或いは冷凍食品のブロッコリーを電子レンジで温め、やはりミツカンの『味ぽん』とお醤油をかけて盛大に頂いたりし、
前菜としている。

そして五穀米を加えた白米のご飯を夫婦ご飯碗で、お変わりなしで今日に至っている。

こうして少なくとも朝食は、こよなく白米を愛食してきたので、
上記の3種類を読みながら、微苦笑をしたりした。
            

私がこの世で白米が最も美味しく実感されてきたのは、温かいご飯に大根(ダイコン)下(お)ろしで頂く時である。
年始、簡略の御節料理を頂き、お雑煮を食べる新年の三が日、
私だけの昼食は、 大根(ダイコン)を下(お)ろして、お醤油をかけて、温かい白米のご飯にのせて食べたりしている。

このような私の昼食を見ていて、 家内は最初の頃は、呆れ果てていた・・。
『あなたは・・やはり幼年期に農家の児として育ったせいかしら・・』
と家内は苦笑したりしていた。

『こうした食べ物は・・この世で一番美味しく・・贅沢な食事だょ・・』
と私は笑いながら言ったりして、早や11年が過ぎている。

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皐月(さつき)晴れの薫風の中、老ボーイの私は小庭の手入れに5時間奮闘しても、あえなく・・。

2016-05-03 17:00:54 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅に住む年金生活の71歳の身であるが、
世の中は過ぎし4月29日より大型連休で、各地は賑わっているが、
私はいつもように午前中は買物メール老ボーイとなり、スーパー、専門店に行ったしてきた。

この後も相変わらず自宅周辺3キロ範囲にある遊歩道、小公園を歩いたりしてきた。

午後も買い求めた本を読んだり、ネットで著名人の寄稿文を読みながら多々教示されたり、
私のブロクに一日一通の投稿文を重ねてきた。

そして私が愛読している御方のブロクを読みながら、微笑んだり、苦笑してきた。

このように何かと単細胞の私は、電車のレールのように過ごしてきた。
            

こうした中、小庭の数多くの雑木は、萌黄色から若葉に色合い染められ、
地面からは雑草が、こんにち~わ、というように生えてきている。

私は3月23日、4月10日、そして4月18日と小庭の手入れをしてきたが、
亡き作家・徳冨蘆花(とくとみ・ろか)さんが私の住む近く地域で、
1906年(明治39年)からの死去するまでの20年間を過ごし、
ときおり畑などを耕して、雑草と戦いだ、と名言を遺(の)されていたので、私は思い重ねたりした。

そして本日、ぐうだらな私でも、小庭の手入れをする為に、8時半少し前に、玄関庭に下り立った・・。
空は晴れ渡り大型連休に相応しく皐月晴れとなり、ときおり微風が吹き、心地よく、薫風ねぇ、
と私は心の中で呟(つぶや)きながら、微笑んだりした。

こうした時の私の容姿は、ストレッチパンズの長ズボン、着古したスポーツシャツ、
ウォーキング・シューズ、帽子、滑り止めの軍手をし、剪定鋏(ハサミ)を腰の周りにしている。

そして私は枝切りを少しした後、草むしりをした。
私は体力の衰えを実感している中、しゃがんで草むしりをしていると、腰や足に負担が増し、
ときおり簡易椅子に座り休憩したりした。
            

私は高齢者入門となった65歳の頃から、体力の衰えを実感して、
たとえば低山で多くの人から愛好されている高尾山(標高599m)でも、
下から登り、やがて山頂にたどるハイキング・コースさえ、歩き通す自信がなくなっている。

まして旅先で、高山の山なみを見たりすると、山は眺めるもの・・と私は家内に言ったりしてきた。

このような私が懸命に草むしりをしている中、疲れを感じると、
今しなくていつするょ・・或いは人生は気合だ・・と自身を叱咤激励をしたりした。

そして樹の下の周囲にある雑草を取ろうと、地面に這いつくばりながら奮戦すると、
やがて泥まみれ汗まみれとなり、苦笑したりした。

しかしながら夏の熱い時節は、汗はしたたり落ちながら、草むしりするよりは、
遥かに楽で、微苦笑をしたりした。

やがて私は昼食抜きで奮闘したが、疲れは果て、程ほどに小奇麗になったので、瞬時に妥協してしまったのは、
午後1時半過ぎであった。

今、こうした綴っていると、腰がだるく、やはり平素の買物とか散策で老ボーイと気取っても、
齢は隠せないよなぁ、と苦笑している。

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シニア世代の殆どの多くは、ご自身が好きなように安楽に過ごされ、と改めて確信して・・。

2016-05-02 16:29:34 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の71歳の身であるが、
昨日の朝、配達された読売新聞を読んだりしている中、やがて新刊本が評論されている【本よみうり堂】を読んだりした。

やがて阪本節郎・著作の『シニアマーケティングはなぜうまくいかないのか』(日本経済新聞出版社)について、
経済学者・東京大教授の柳川範之さんが評論されていたのを私は読んだりした・・。

そして読んだりした後、微笑んだりした。無断であるが転記させて頂く。

《・・高齢化時代の将来設計

「シニアと呼ばれても、50代の9割は、自分のことだと思わず、60代の9割も、そう呼ばれたいとは思わない」。
本書を何気なく開いたときに、目に飛び込んできたのが、この文章。

確かに、50代読者の多くは、「え、俺ってシニアなの? それはないよ」と思われるに違いない。
60代の方々でも、「人生まだまだ、これからだ」と、思っている人々のほうがきっと多いだろう。

少子高齢化の時代は、長生きできるようになった時代でもある。
単に長く生きられるだけでなく、気力も体力も向上している。
一説には、20歳位若返っていて、今の60歳は、昔の40歳と同じだとか。
そんな時代には、昔とは違った新しいライフスタイルが求められるはずだ。

本書は、タイトルだけみると、典型的なマーケティングの本にみえる。
いや、実際に、優れたマーケティングの本だ。
でも、単に、どんな人にどんなものを売ったら良いか、という視点でだけ読むのはもったいない。

むしろ、これからの50代、60代が、どう考え、どんな風に未来を設計していったら良いか、
そんな生き方像、生活像を示している本として読むと、面白い示唆がたくさん得られそうだ。

自分だけが、従来の世代と違うと感じることが多いのも、この世代の特徴らしい。
こんな風に考えるのは、自分だけではなかったんだ、という実感や、気づきも本書から得られるかもしれない。

何歳になっても若々しく前向きな意識を持ち続けたいと思っている。
人生下り坂ではなく、自然体で若々しくセンスの良い大人になって、人生最高のときを、これから実現させたい。
本書が浮かび上がらせているのは、そんな風に考えている50代、60代だ。

少子高齢化時代を本格的に迎えて、50代、60代の人たちが、
生活のポイントをどこにおくべきか等についても、興味深い考察がなされている。・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
          

私は今でも、ときおり少年のように無我夢中となる言動をすることがあるが、
サラリーマン時代は苦楽の激しい中小業の民間会社で35年近く鍛えられた為か、
根は現実楽観主義のひとりである。

私は民間会社の中小業に35年近く勤め、2004年〈平成16年〉の秋に定年退職後、
その直後から多々の理由で年金生活をしている。

この中のひとつとして私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれながら、つたない言動も多く、
ときおり敗残者のように感じることも多く、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりした。
               
そして年金生活を始める時、秘かに私は残された人生の日々に、
『清く貧しく美しく』と信条を掲げた。

この発想の根源は、定年後の年金生活を始めた当初、ご近所の奥様と立ち話などをした時、
60歳のお若いのに、悠々自適な生活で羨(うらや)ましいわ、と言われたりしたが、
もとより私は一流大学を卒業した後、官公庁、大企業などで邁進(まいしん)され栄達したエリートのお方たちと違い、
高収入、高額な退職金には無縁で、程遠い生活実態であった。

その上、私は屈折した日々の多い半生を歩み、何とか定年を迎えることができたので、
半生記は何かと自慢史が多いと伝えられている中、私は限りなく遠い存在である。

そして私は確固たる実力もないくせに、根拠のない自信があり、
感覚と感性は人一倍あると思いながら、独創性に優れていると勝手に思い込み、
ときには独断と偏見の多い言動もしたりしてきた。

或いは、その分野で専門知識があり優れた人の前では、謙虚となりながらも卑屈になったりした・・。
このように可愛げのない男のひとりである。
                    

私は定年退職後に年金生活を始めたが、
1944年〈昭和19年)9月生まれであるので、満62歳にならないと年金は満額を頂けないので、
この間の2年間は満額の6割弱の片翼飛行のような、年金生活を過ごすことになった。

程々の貯金を崩しながら、つつましく退職後の生活を過ごす予定で、
私は秘かに退職時に、未知の年金生活に向い、自身を励ます意味合いも含めて人生信条を掲げた。

そして年金生活は何かと身過ぎ世過ぎの日々の生活実態と思われ、
『清く貧しく美しく』とした。

この根源は、敬愛している松山善三(まつやま・ぜんぞう)氏の脚本・監督された『名もなく貧しく美しく』(1961年=昭和36年)、
そして宝塚歌劇団の『清く正しく美しく』から、言葉を重ね合わせ、
何かしら慎(つつ)ましい年金生活に相応しいと確信した。

こうした『清く貧しく美しく』の人生信条を掲げた中で、
日常生活を過ごす目標として、『野に咲く花のように』とした。
                    

『野に咲く花のように』の発想の語源は、
古人の利休が、花は野にあるように、という銘言は私なりに知っていたが、
私は40歳の初めに、夏季休暇で家内と共に旅先で、実感させられ、まもなく私なりに命名した。

海辺のリゾートホテルに滞在していた私たち夫婦は、
昼下りのひととき、庭園にある茶室で茶事があるので、支配人から家内が誘われ、
私も末席としてお供した。

家内は茶事を中学生の頃から習っていたので、
私は結婚してから色々と和事に関しては、家内から影響を受けたりしていた。
茶花、花入、茶碗、掛け軸などを知り、四季の移ろいも改めて知りはじめた・・。

結婚して、3年後に家を建てた時、多額な借入となったが、私は何かと単細胞の性格で、
何かに夢中になると、あなたしか視(み)えないような熱中となることが多く、
その上に若さの勢いとして、家屋の中で茶室まで設けた。

私は茶事に関しては無知であったが、
家内が免許状の昇進と共に、礼金も重なったりし、こうしたことは暗黙のような約束事を知った時は、
不思議な世界と思ったりしていた。
         
そして無知な私でも、リゾートホテルの庭園にある茶室は、
掛け軸、花入、茶花も簡素で、素朴な茶碗で抹茶を頂いたりしたが、感銘を受けたりした。

やがて茶室から庭園に出た私たち夫婦は、その後に私は家内と散策した時、
『野に咲く花のような茶事であったね・・』
と私は家内に言ったりしたので、家内は微笑んでいた・・。

私はこの1985年〈昭和60年〉の夏の時節以来、
人生のささえる確かな言葉として『野に咲く花のように』と掲げて、
年賀状などで明記し、たびたび公言したりしてきた。
                              

こうして私は年金生活を始めて1年を過ぎた頃、
たまたま作家・城山三郎の著作の『無所属の時間に生きる』を読んでいた時、
『この日、この空、この私』の一節を瞬時に圧倒的に魅了され、この時から教訓としている。

《・・人生の持ち時間に大差はない。問題はいかに深く生きるか、である。
深く生きた記憶をどれほど持ったかで、その人の人生は豊かなものにも、貧しいものになるし、
深く生きるためには、ただ受け身なだけでなく、あえて挑むとか、打って出ることも、肝要となろう。・・》
そして私は亡き城山三郎氏の遺(のこ)された言葉を秘かに指針として、日々過ごしている。

          
そして恐れ多くも日本の歴代天皇が継承してきた三種の神器と称せられる鏡・剣・玉があるが、
平民で無力な私は、『清く貧しく美しく』、『野に咲く花のように』、そして『人生を深く生きる』言葉を
私の年金生活の三種の神器かしら、と思いながら過ごしてきている。

このようなことを根底に私は過ごしてきているので、
野に咲く花は、素朴で気負いもなく、何かとやすらぎを覚えたりしてきた。

このように私は三つの言葉をささえに、年金生活を過ごし、11年半が過ぎている。
                    

こうした中で、数多く60代の諸兄諸姉は、これまでの人生の苦楽を重ねた後、
何かと安堵しながら、身も心も溌剌と過ごせる人生の黄金時代と称せられるゴールデン・イヤーズ、
と知人、友人からの便りを受けたりしてきた・・。

私も長き人生に於いては、60代の期間が何より安楽な時代、と思い重ねたりして享受してきた・・。

そして70代となれば、体力の衰えを実感して、75歳まではこれまでどおりの自立した生活ができるが、
80歳が見えてくる頃には介護を必要とするようになり、
やがて80代後半では何らかの介護付き施設に入居する可能性が高くなる、と専門家の人から数多く発言されている。

私が現役サラリーマンだった58歳の時に、同僚の死去に接したり、
そして年金生活を始めて数年過ぎる中、先輩、同僚だった人たちの死去を知り、
余りにも若き60代なのに、と戸惑いながら、ご冥福を祈ったりしながらお通夜に参列したりした。

私たち夫婦は、幸運にも大病に遭遇せず、今日に至っている。
          

年金生活の我が家の基本は、厚生年金、わずかな企業年金を頂き、通常の生活費するのが原則としている。
しかし共通の趣味のひとつである国内旅行、或いは冠婚葬祭などの思いがけない出費などに関し、
程々の貯金を取り崩して生活している。

そして、毎年年始が過ぎた頃に、新年度の月別の概算表を作る際、
家内の要望などを織り込んで作成し、予算としている。
従って、年金生活の身であるから、今年も赤字が120万円前後かしら、とお互いに確認し合っている。

こうして私たち夫婦は経済的に贅沢な生活は出来ないが、
働らなくても何とか生活ができるので助かるわ、
と家内がときおり、 呟(つぶや)くように私に言ったりするので、私は苦笑したりしているのが、
我が家の実態である。
          

このように年金生活を過ごしているが、私は敬愛しているチャップリンの遺(のこ)された言葉のひとつに、
《 人生には三つのものがあればいい。希望と勇気とサムマネー。 》
という名言があり、人生の確かな格言ですねぇ、と程ほどの貯金しかない私でも、信愛しているひとりである。

そして『生きがい』を最優先とし、次に『健康』、そして程ほどの『お金』と思いながら、
年金生活11年半が過ぎている。

もとより家内は、過ぎし年の40年前の結婚式で、白無垢の新妻を見て以来、
どのような人生の荒波に遭遇しても、世界で私だけが専守できる責務と固く誓ってきたので、別格である。

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今の40~50代が抱えるお金が貯まらない「三重苦」を学び、無力な高齢者の私でも、悲嘆して・・。

2016-05-01 16:20:17 | 時事【社会】
私は民間会社の中小業の会社に35年近く奮戦し、2004年(平成16年)の秋に定年退職し、
そして最後の5年半はリストラ烈風の中、あえなく出向となり、やがて出向先で定年を迎えた身である。

この間に幾たびのリストラの中、何とか障害レースを乗り越えて、定年を迎えることができたので、
敗残者のようなサラリーマン時代を過ごした。

このように私のつたないサラリーマン時代であり、もとより一流大学を卒業され、大企業、中央官庁などに
38年前後を邁進し栄達されたエリートとは、遥かに遠い存在である。

このように悪戦苦闘の多い中で、敗残者のような状況であったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活を始め、
早や11年半が過ぎている身である。
            

昨夜、愛読している総合ビジネス情報サイトの【ダイヤモンド・オンライン】を見たりしていると、
【 今の40~50代が抱えるお金が貯まらない「三重苦」】と見出しされた記事を、
どうして・・と思いながら読んだりしてしまった・・。

この記事はファイナンシャルプランナー(CFP)の深田晶恵(ふかた・あきえ)さんが、
『定年までにやるべき「お金」のこと』の連載記事で、第3回として2016年4月27日に配信された記事であり、
私は年金生活の中で、深田晶恵さんの寄稿文を読み、多々教示されたひとりである。

私たち夫婦は子供に恵まれず、もとより息子、娘もいなく、たった2人だけの家庭であるが、
ときおり私の甥っ子の45歳前後の4人に逢ったりして談笑するが、叔父さんが過ごしてきた時代とは違いますから・・
と私は言われたりし、彼ら世代の経済実態は漠然と思い馳せるばかりで、殆ど無知となっている。

そして私は何かと働いて下さる現役の諸兄諸姉に注視するのは、
もとより日本の社会保障制度の年金、医療、介護の基盤は、
高齢者が使う費用は、その時の現役世代が保険料や税で負担する財政方式(賦課方式)を取っているので、
働いて下さる現役世代の諸兄諸姉が、その時の高齢者を支えている現実からでもある。
            

こうした中で、少子高齢化が増す社会となり、年金、医療、介護などの社会保障費は膨張し、
やむなく年金の削減、医療、介護の見直し改定が実施されてきた。

そして過酷な現実として、年金、医療、介護なとで、毎年一兆円が増加している。

こうした状況が放置すれば、現役世代の諸兄諸姉からすれば、高齢者は過重負担する人たち、
と思いながら険悪し、粗末にする風潮も予測できるので、
私は働いて下さる諸兄諸姉に、ときおり感謝を重ねたりしてきた。


このようなことを私は思案し、特に多くのシニア世代にも、現役世代のひとつ経済実態を知って欲しく、
あえて記事を転載させて頂く。
            

《・・今の40~50代が抱えるお金が貯まらない「三重苦」

世帯年収890万円(夫800万円+妻90万円)

消費税増税、社会保険の負担増、教育費の高騰などで貯金が少ない40代、50代。
今の日本人の平均寿命83歳で、60歳定年から平均で23年もあるのをご存じだろうか。
貯金が少ないこの世代こそ、老後のお金の現状を知って、今から対策を講じなければ、悲惨な老後になってしまう。

ダイヤモンド・オンラインでも人気の連載「40代から備えたい 老後のお金クライシス」を書いている深田晶恵さんが、
『定年までにやるべき「お金」のこと』という本を上梓。
この内容をベースに、お金に不安がある人たちに役立つコンテンツを紹介していく。


●安心の老後が見えない!  今の40~50代が抱える「三重苦」

昨今、多くの人が老後に漠然とした不安を持つようになったのは、年金制度への不安ばかりが原因ではない。
私は、今の40~50代が、自分でも気付かないうちに、
老後の準備を妨げる「三重苦」に陥っているケースが多いことも原因の一つだと考えている。

特に、年収が高めの人ほど「三重苦」に苦しむ傾向が強い。「三重苦」とは、
(1)多額の住宅ローン
(2)高騰する教育費
(3)どんどんお金を使う「消費好き」
である。以下、典型的なパターンを見てみよう。

Aさん(46歳)は年収800万円の会社員。
「これだけ稼いでいるんだから、人よりちょっといい生活ができて当たり前」という意識が強い。
だが、年収は十分に高いはずなのに、近年は貯蓄がまったくできていない。

なぜ800万円という高年収であるにもかかわらず、貯蓄ができないのか? 
実際の家計の年間収支はどうなっているのだろうか。
            

●年収800万円、妻がパートをしても 貯金ができない! 

Aさんはパートで働く妻、私立中学と私立高校に通う2人の子どもの4人家族だ。
収入は、年収800万円から税金や社会保険料を差し引くと、手取りが610万円ほどとなる。
妻のパート収入90万円と合わせて、家計全体の手取り年収は700万円だ。

Aさんは28歳のときに3700万円のマンションを購入している。
頭金は500万円で、3200万円の住宅ローンを組んだ。
返済額は毎月10万円、ボーナス時は20万円。
ちなみに繰り上げ返済はできておらず、18年後の現在、まだ2000万円のローンが残っている。

ローン返済額は、年160万円。
このほかに固定資産税などもかかるため、住居費だけでも支出は、年200万円にのぼる。

生活費は月にだいたい20万円で、年間240万円。
食べ盛りの子どもが2人いて「人よりちょっといい生活」をしていれば、このくらいの金額はあっという間になくなっていく。

負担が重いのは、教育費だ。
私立校に通っていると、授業料だけでなく修学旅行や課外授業といったイベントにかかる費用もバカにならず、
子ども2人分を合わせると、年間220万円にものぼる。

住居費、生活費、教育費だけで、支出は年間660万円。
このほか、夫婦それぞれの小遣いや帰省費用などの臨時出費もあるので、
残る40万円は、いつのまにか消えている。

40万円というとまとまった額に思えるかもしれないが、1ヵ月あたりにならせば3万円ちょっとで、
「飲みに行って部下におごってしまい、小遣いを使いすぎた」といった程度の積み重ねで消えてしまう金額だ。
            

●銀行口座の引き落としやカード払い 知らぬ間に生活費がふくらんでいる

このAさん一家は、子どもが小学生の頃、夏休みに家族で海外旅行に行くのが恒例行事になっていたが、
今はそのような余裕はない。

年収800万円、さらに妻のパート収入があっても年間収支は、何とかトントンという状態なので、
もちろん貯蓄はまったくできない

今後、子どもが大学に進学する時期を迎えれば、教育費負担はさらに重くなる。
Aさんは老後に漠然とした不安を抱きつつも、具体的に対策を考える余裕もない。

ここまで読んで、「ウチでは妻に渡している額はもっと少ないから、まだ大丈夫かも」などと思った人も、注意が必要だろう。

というのも、妻が使う生活費が“インフレ状態”になっているのに、
そのことにまったく気付いていない夫は、少なくないからだ。

生活費の管理は、出口が複数あるのが、やっかいなところと言える。
たいていの家計では、「現金」「銀行口座からの引き落とし」「クレジットカード払い」と出口が3つあり、
生活費の実態は、この3つを合計してみないと把握できなくなっている。

しかし夫が財布のヒモを握っている場合、妻に毎月決まった額の生活費を渡すことで
「管理しているつもり」になりがちだ。

たとえば「毎月15万円」といったように、決まった額だけを妻に現金で渡したり
キャッシュカードで引き出させたりしていれば、夫は「生活費を一定の枠で管理できている」と考える。

だが実際には、銀行口座からの引き落としやクレジットカード払いが
想像以上に多く生活費がふくらんでしまっているケースはめずらしくない。
            

●家族の通信費は年間にすると 40万円を超える!? 

代表的な例が、通信費だ。
一昔前なら固定電話代で数千~1万円くらいの支出ですんでいたが、
今は家族全員が携帯電話を持つのが、当たり前。
子どもが大きくなって携帯を持つようになると、通信費は増える。

インターネットのプロバイダー料金や有料テレビの視聴料などが、かかる場合もある。
夫婦と子ども2人という家族構成で全員がスマートフォンを持っていれば、
月々の通信費は少なくとも3万5000円ほどにはなるだろう。
年間でみれば、42万円の支出である。

毎月通信費にいくらかかっているのか、足し合わせてみたことがない人は、
この金額にギョッとしたかもしれないが、実際にはもっと通信費が膨らんでいるケースもめずらしくない。

負担がじわじわと重くなっていても、銀行口座からの引き落としやクレジットカード払いになっていると目が届きにくく、
家計を圧迫していることに気付かないのだ
            

●ポイント目当てのカード払いで 生活費が把握できなくなる

もう一つ、死角になりやすいのは、妻がクレジットカードで、払っている生活費だ。
昨今、スーパーなどではポイントが貯まるクレジットカードの利用を勧めており、
日々の買い物でクレジットカードを使うのは、ごく当たり前になっている。

しかし、夫から現金で生活費を渡されている妻が、
「先月は食費のうち5万円をクレジットカードで払ったから、その分は返すわ」と言うケースはまずない。
夫がクレジットカードの明細をよく見ていなければ、カード払いの分はそのまま「予算超過」になるわけだ。

さて、「現金」「銀行引き落とし」「クレジットカード払い」の3つを合わせた毎月の生活費を、
あなたは即答できるだろうか? 

「今、ウチの生活費がいくらかかっているか」を把握できていない人は多い。
収入が増え、子どもが大きくなるにつれて少しずつふくらんできた生活費が、
びっくりするほど高額になっている可能性もある。

次回は、このような生活をしている世帯が年金生活に入ったらどうなるか、
というケースを具体的な数字とともにみていこう・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
            

私は確か5年前の頃、働いて下さる現役世代の男性の民間会社に勤めている正社員の人たちが、
平成9年( 1997年〉の時点から、年収が横ばいと知り、無力な私は悲嘆した・・。
         
更に昨今、国税庁による「民間給与実態統計調査」に寄れば、
1人あたりの年間平均給与は、継続的に下がり続け、
平成16年には438.8万円だったのが、平成26年には415.0万円と知ったりした。

ここ10数年は、民間会社は短期に成果が問われる時代の中、常時リストラともいわれたりして過酷な時代になり、
多くの会社は正社員は6割、契約社員、アルバイトなどは4割、と知り、深く憂いたりしてきた。

こうした中で、今回の世帯年収890万円(夫800万円+妻90万円)は、
私が信愛している経済ジャーナリストの荻原博子さんの『隠れ貧困』(朝日新書)に寄れば、
《・・例えば40代の男性、中堅銀行勤務で年収約800万円はまさに「勝ち組」だ。・・》と称している。

こうした家庭でも、荻原博子さんの論調によれば、
《・・40代といえば就職の苦労は並大抵ではなく、だからこそ、子どもにはより良い教育を施したい。
加えて、住宅ローンや月々の赤字の補てん、帰省費用などでボーナスは消えていく・・。
気がつけば貯蓄ゼロ! という家庭が、実は多く存在するのだ。・・》と私は学んだりしてきた。
            

私は今住んでいる近くに生家があり、1944年〈昭和19年〉の秋に農家の三男坊として生を受け、
思い馳せれば、敗戦後の荒廃した日本は、敗戦直後からの一部の裕福な家庭を除き、誰しも貧乏な時代を体験してきた世代である。

私より10歳以上の先代の諸兄諸姉の多くは、それぞれに奮戦し、
少なくとも世界の中でも、有数な経済大国の礎(いしずえ)を努力と英知で築かれた人々であり、
そして後続する私たちの世代は、諸先輩を見習い、そして少し齢下の団塊の世代も奮闘してきた。

こうした結果として、確かに日本は、世界の主要国の中に於いても、
社会インフラ基本基盤として、電気、ガス、電話、上水道、下水道も殆ど整備され、
学校、病院、公営住宅もあり、新幹線をはじめ鉄道・バス路線、そして道路、高速道路もあり、港湾、橋梁なども、
整備されている稀な国家でもある。

そして年金、医療、介護などの社会保障制度も、多少の難題がありながらも存続している。
                       
私たちが過ごしてきた昭和の時代は、日本の多くの人たちは一生懸命に働けば、年収も毎年増え、
そして家族で明日に希望が持て、実感できた総中流社会であった。

こうした中でバブルが終息し、そして平成元年(1989年)11月10日からベルリン市民に寄る『ベルリンの壁崩壊』した後、
やがてソ連が崩壊し、世界の諸国の政治はもとより、外交・軍事・経済、やがて社会が一変した。

そして 世界の経済が自由主義経済の一色となり、やがて日本は失われた15年で、
主要各国や躍進してきた中国などに国際競争力に敗退し、かっての高度成長の総中流社会の再現は、
見果てぬ夢となった。
                                   

昨今、総務省より、平成18年として『高齢者世帯の家計資産額の約9割は、宅地資産と金融資産』と公表された。

《・・二人以上の世帯のうち、高齢者世帯(世帯主が65歳以上の世帯)の1世帯当たり家計資産額(純資産額)は、
平成16年11月末日現在で、5816万円となっています。

これを資産の種類別にみると、宅地資産が3141万円(資産合計に占める割合54.0%)と最も多く、
次いで金融資産注が1970万円(同33.9%)、住宅資産が568万円(同9.8%)、
耐久消費財等資産が137万円(同2.4%)の順となっています。

全世帯と比較すると、資産総額では全世帯(3900万円)の1・5倍となっています。

これを資産の種類別にみると、金融資産が全世帯の2・1倍と倍以上になっており、
次いで宅地資産が1・4倍となっています。

一方、住宅資産及び耐久消費財等資産は、それぞれ0・9倍、0・8倍と、全世帯より少なくなっています。・・》
            

こうした実態を学び、私たちは高齢者世帯の資産総額は、全世帯に対して1・5倍と知り、
無力な高齢者の私でも、溜息をした後、
私の甥っ子から、叔父さんが過ごしてきた時代とは違いますから・・と改めて思い重ねたりした。

やがて働いて下さる現役の諸兄諸姉に対し、余りの世代格差の実態に、悲嘆を重ねたりした。

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