私たち夫婦は、5月8日より3泊4日で伊豆半島の西海岸にある堂ヶ島を滞在旅行をしたが、
伊豆半島の東海岸が幾たびも訪れてきたが、西海岸はわずかとなっている。
戸田、土肥だけは宿泊した体験があるが、特に堂ヶ島に関しては、ささやかな想いでを秘めている・・。
遠い昔、1960年〈昭和35年〉の夏、私が高校1年の時に夏休みを利用して、
初めて独りで宿泊する旅行をして、伊豆七島のひとつの大島に訪れた。
夜、東京湾の確か晴海埠頭(はるみ・ふとう)だった記憶しているが、
ここから乗船し、早朝に伊豆大島を訪れた後、
午後に出航する観光船で、伊豆半島の下田港に向かい、下田にある観光旅館に宿泊する。
そして翌日は伊豆半島の西岸を観光周遊バスで、名所に立ち寄りながら北上し、
修善寺にある観光旅館に宿泊した後は、
三島まで私鉄を利用し、国鉄(現在・JR)で東京駅に帰京するプランであった。
私は旅行鞄のボストンバックを提げて、
白いワイシャツと黒の長ズボン、革靴と通学とまったく同じ様な学生服の容姿で、
東京の晴海埠頭から東海汽船の観光船で、伊豆大島行きに乗船した。
確か夜の10時に出航し、翌朝の4時前に大島の岡田港の沖で着いて、
島の朝が動き始める6時頃に入港した、と記憶している。
この間の乗船していた時は、仕切りのない大部屋のゴロ寝のような感じで、
私は大部屋の片隅に横たわり、旅先の盗難を警戒していたのでボストンバックを握りながら、
不安げに眠れない深夜を過ごした。
岡田港に下船した時、高波警戒の注意報の掲示板があり、少し不安げに私は見つめていた。
私は午前中に大島の観光バスで半日周遊観光をした後、
午後、元町港から下田港行きの定期航路の観光船に乗り、そして下田の観光旅館に予約済みであった。
このような思いがあったので、高波警戒の注意報が気になり、
うつろな思いで、初めての伊豆大島の情景を車窓から眺めていた。
半日周遊観光の終点は元町港であったが、
下田港方面は本日欠航、と私は掲示板を見て、小心者の私はどうしょう、と内心うろたえたのである。
しばらくした後、下田港、伊東港は欠航、熱海港は午後2時過ぎに出航、と報じられた・・。
私は予期せぬ周遊で、熱海港行きの定期観光船に乗船したが、
観光客で満席となり、私は客室に入らず、
ボストンバックを握り締め、サン・デッキ付近の小さな椅子に腰掛けた。
空一面は、わずかな雲で快晴の青空が拡がり、私は燦燦と照り昼下りの陽射しを全身に浴び、
果てしなく海原が広がる情景を眺め、そして潮風を受けながら、私は身も心も爽快な心となった・・。
この当時は、私にとっては苦手な俳優の加山雄三さんが演じた若大将シリーズ映画が、
盛んに映画館で上映されていた時代であった。
そして海に魅了される人たちの思いが、少し解かったような心情となった。
わずか1時間半ばかり航路であったが、
熱海港を下船後、私は伊豆急行が開通前の時期で、
東海バスの下田行きの路線バスの乗車場所を何とか探し、乗り込んだりした。
この当時は、伊東から下田までの伊豆急行が開通前の時期で、
鉄道の施設の工事を盛んにしていたので、埃りっぽい中をバスで南下したのを、
おぼろげに記憶している。
下田に着いた後、予約した観光旅館を探し当て、
大浴場で心身を清めていたが、余り疲れを感じることなく、
何とか予約した観光旅館に着けた、という思いが強く、安堵したりした。
夕食の時、和服を召した綺麗な若き女性の仲居さんが、
『お客様・・何か・・お飲みものは・・』
と私は訊(き)かれ、
『・・サイダー・・お願い・・』
と私は若き仲居さんに少し見惚(みと)れながら、不馴れな浴衣姿で照れながら言ったりした。
この当時の私は、もとよりビールの味も知らず、
和服を召した若き仲居さんに、綺麗な女の人、と感じながらも、
うっとりと恥ずかしげに見つめるだけの少年であった。
この後の周遊は、下田から石廊崎、そして堂ヶ島から修善寺に周遊観光バスで周遊していた時、
堂ヶ島で自由昼食となり、私は迷いながら『さざえ丼(どん)』を注文して、
食堂のはずれで、海を眺めながら食べたりした。
この当時の私は、恥ずかしながら外食の丼(どんぶり)は、親子丼、カツ丼しか知らず、
初めて食べた『さざえ』であり、鮮烈な風味だったことを、今でも記憶している。
この後の周遊は、予定通り順調であった。
私は16歳をまもなく迎える前、独りで初めての旅行をし、
今となっては、愛惜ある旅のひとつとなった。
この後は、1995(平成7)年6月初旬に、私たち夫婦は家内の両親を誘い、
土肥温泉の『今井荘』に、わずか一泊二日の旅路をした。
新宿より小田急の特急『あさぎり』を活用して、沼津で下車した後、
沼津港からフェリーに乗船して、やがて堂ヶ島で下船し、観光船で島めぐりをしたりした。
そして堂ヶ島港から土肥温泉港に行き、ささやかな宴会をした翌日、
修善寺に路線バスで行き、虹の里に寄り、やがて『あさぎり』で新宿に帰還した旅であった。
このように堂ヶ島に関して、私はたった二度ばかりささやかな想いでとなっている。
*当面はコメント欄を閉鎖させて頂きます。
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伊豆半島の東海岸が幾たびも訪れてきたが、西海岸はわずかとなっている。
戸田、土肥だけは宿泊した体験があるが、特に堂ヶ島に関しては、ささやかな想いでを秘めている・・。
遠い昔、1960年〈昭和35年〉の夏、私が高校1年の時に夏休みを利用して、
初めて独りで宿泊する旅行をして、伊豆七島のひとつの大島に訪れた。
夜、東京湾の確か晴海埠頭(はるみ・ふとう)だった記憶しているが、
ここから乗船し、早朝に伊豆大島を訪れた後、
午後に出航する観光船で、伊豆半島の下田港に向かい、下田にある観光旅館に宿泊する。
そして翌日は伊豆半島の西岸を観光周遊バスで、名所に立ち寄りながら北上し、
修善寺にある観光旅館に宿泊した後は、
三島まで私鉄を利用し、国鉄(現在・JR)で東京駅に帰京するプランであった。
私は旅行鞄のボストンバックを提げて、
白いワイシャツと黒の長ズボン、革靴と通学とまったく同じ様な学生服の容姿で、
東京の晴海埠頭から東海汽船の観光船で、伊豆大島行きに乗船した。
確か夜の10時に出航し、翌朝の4時前に大島の岡田港の沖で着いて、
島の朝が動き始める6時頃に入港した、と記憶している。
この間の乗船していた時は、仕切りのない大部屋のゴロ寝のような感じで、
私は大部屋の片隅に横たわり、旅先の盗難を警戒していたのでボストンバックを握りながら、
不安げに眠れない深夜を過ごした。
岡田港に下船した時、高波警戒の注意報の掲示板があり、少し不安げに私は見つめていた。
私は午前中に大島の観光バスで半日周遊観光をした後、
午後、元町港から下田港行きの定期航路の観光船に乗り、そして下田の観光旅館に予約済みであった。
このような思いがあったので、高波警戒の注意報が気になり、
うつろな思いで、初めての伊豆大島の情景を車窓から眺めていた。
半日周遊観光の終点は元町港であったが、
下田港方面は本日欠航、と私は掲示板を見て、小心者の私はどうしょう、と内心うろたえたのである。
しばらくした後、下田港、伊東港は欠航、熱海港は午後2時過ぎに出航、と報じられた・・。
私は予期せぬ周遊で、熱海港行きの定期観光船に乗船したが、
観光客で満席となり、私は客室に入らず、
ボストンバックを握り締め、サン・デッキ付近の小さな椅子に腰掛けた。
空一面は、わずかな雲で快晴の青空が拡がり、私は燦燦と照り昼下りの陽射しを全身に浴び、
果てしなく海原が広がる情景を眺め、そして潮風を受けながら、私は身も心も爽快な心となった・・。
この当時は、私にとっては苦手な俳優の加山雄三さんが演じた若大将シリーズ映画が、
盛んに映画館で上映されていた時代であった。
そして海に魅了される人たちの思いが、少し解かったような心情となった。
わずか1時間半ばかり航路であったが、
熱海港を下船後、私は伊豆急行が開通前の時期で、
東海バスの下田行きの路線バスの乗車場所を何とか探し、乗り込んだりした。
この当時は、伊東から下田までの伊豆急行が開通前の時期で、
鉄道の施設の工事を盛んにしていたので、埃りっぽい中をバスで南下したのを、
おぼろげに記憶している。
下田に着いた後、予約した観光旅館を探し当て、
大浴場で心身を清めていたが、余り疲れを感じることなく、
何とか予約した観光旅館に着けた、という思いが強く、安堵したりした。
夕食の時、和服を召した綺麗な若き女性の仲居さんが、
『お客様・・何か・・お飲みものは・・』
と私は訊(き)かれ、
『・・サイダー・・お願い・・』
と私は若き仲居さんに少し見惚(みと)れながら、不馴れな浴衣姿で照れながら言ったりした。
この当時の私は、もとよりビールの味も知らず、
和服を召した若き仲居さんに、綺麗な女の人、と感じながらも、
うっとりと恥ずかしげに見つめるだけの少年であった。
この後の周遊は、下田から石廊崎、そして堂ヶ島から修善寺に周遊観光バスで周遊していた時、
堂ヶ島で自由昼食となり、私は迷いながら『さざえ丼(どん)』を注文して、
食堂のはずれで、海を眺めながら食べたりした。
この当時の私は、恥ずかしながら外食の丼(どんぶり)は、親子丼、カツ丼しか知らず、
初めて食べた『さざえ』であり、鮮烈な風味だったことを、今でも記憶している。
この後の周遊は、予定通り順調であった。
私は16歳をまもなく迎える前、独りで初めての旅行をし、
今となっては、愛惜ある旅のひとつとなった。
この後は、1995(平成7)年6月初旬に、私たち夫婦は家内の両親を誘い、
土肥温泉の『今井荘』に、わずか一泊二日の旅路をした。
新宿より小田急の特急『あさぎり』を活用して、沼津で下車した後、
沼津港からフェリーに乗船して、やがて堂ヶ島で下船し、観光船で島めぐりをしたりした。
そして堂ヶ島港から土肥温泉港に行き、ささやかな宴会をした翌日、
修善寺に路線バスで行き、虹の里に寄り、やがて『あさぎり』で新宿に帰還した旅であった。
このように堂ヶ島に関して、私はたった二度ばかりささやかな想いでとなっている。
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