夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

除夜の鐘、ときには拙(つたな)私でも、心を寄せて・・。

2013-12-31 10:05:45 | 定年後の思い
東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
今朝、ぼんやりとカレンダーを見ると『大晦日』と明記され、
今年も今日で終わってしまうのか、と過ぎ去り日々が早いと思いを深めたりした。

そして何かと単細胞の私は、『大晦日』は何かとベートーヴェンの『第九』、
或いはNHKの恒例番組の『ゆく年くる年』かしら、と瞬時に思い浮かべたりした。

やがて『ゆく年くる年』は、確か各地の寺院が映しだされて、
こうした中で除夜の鐘が撞(つ)くシーンがあった、と思ったりした・・。

私は生家の実家は、仏教の中で多い曹洞宗であるが、
お墓参りは私の母の命日、春のお彼岸、夏のお盆、秋のお彼岸ぐらいあり、
散策とか旅先で寺院にめぐり逢った時は、手を合わせる程度の拙(つたな)い身である。

私は身過ぎ世過ぎの年金生活の中、自宅の周辺の3キロ範囲を散策をすることが多く、
ときおり家内との共通趣味の国内旅行に行ったりしているが、
そして寺院の梵鐘を吊した鐘楼堂(しょうろうどう)に逢ったりしてきた。

今年も1月11日に付近の狛江市を散策していた時、
生家の実家のお墓が通称『泉龍寺』と称されている『曹洞宗 雲松山泉龍禅寺』であるので、
冬の暖かな陽射しの中、立ち寄ったりした・・。

山門から入ると、境内は広く数多くの大木があり、冬枯れの情景で静寂であった。
          

そして本堂に向かい歩くと、鐘楼堂が観えたりした。
              

或いは2月の中旬に南海ある八重山諸島を周遊した9泊10日間の旅路の中で、
石垣島の『桃林寺』を訪ねたりした。
この寺院は、石垣市にある臨済宗妙心寺派の寺院で、山号は南海山、本尊は観音菩薩でり、
1611年鑑翁西堂の開山により創建された寺で、1771年には大津波の被害を受けている、
と解説されていた。
                    
しかしながら私は寺院を恥ずかしながら鑑賞できる知識もなく、
この日本の南海の果ての地域でも、住民の方たちに信愛されていることに驚き、
本堂などの建物を眺めたり、鐘楼堂を観たりした程度であった。
          


そして6月の初め、私は45分ばかり歩き、この時節の数々の樹木の情景を観る為に、
都立の神代植物園に訪ねた帰路、隣接している深大寺に立ち寄ったりした。

そして本堂で123円ばかりのお賽銭で多くの願いを託した後、鐘の音が聴こえて振り返ったりした。
境内の山門の近くに鐘楼堂があり、たまたま時を告げる鐘が撞(つ)く時であった・・。
          

こうした情景を観たりしていると、単細胞の私は何故かしら『除夜の鐘』に思いを重ねてしまった・・。

恥ずかしながら私は『除夜の鐘』に関しても無知な方であった。

過ぎ去り2000年(平成12年)の春、
藤野邦夫・著の『幸せ暮らしの歳時記』(講談社文庫)を購読していた時、
大晦日の夜、日本の各地で除夜の鐘を撞(つ)くが、古来より108回となっていることに関して。
遅ればせながら55歳の時に教示された。

《・・仏教で人間の煩悩(ぼんのう)が、108あるとされる・・
煩悩とは、身体や心の欲望、他人への怒り、ないもののへの執着などとされている。

仏教に於いては、①生まれてくる苦しみ
        ②年をとる苦しみ
        ③病気の苦しみ
        ④死の苦しみ
4大要素を『四苦(しく)』とし、

        ⑤欲しくても手には入らない苦しみ
        ⑥愛する人と別れる苦しみ
        ⑦いやなことをさせられる苦しみ
        ⑧その他の色々な苦しみ
『八苦(はっく)』があるとされている。

そして、この『四苦八苦』の四苦(4x9=36)と八苦(8x9=72)を加算すれば、108になる。

108回の来歴については、他にも諸説があるが、
一年の様々な思いをかきたてる除夜の鐘は、 旧年中に107まで撞(つ)き、
最後の1回を新年に撞くのが慣例である。

尚、『除夜の鐘』は、中国の宗(960年~1279年)の時代に始まった風習だと云われて折、
『除夜』とは、旧暦で一年の最後の夜のことである・・》

こうしたことを学んだりしたが、私は中小業の民間会社に35年近く勤めて、
2004年〈平成16年〉の秋に定年退職後、その直後から多々の理由から年金生活をしているが、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりしているひとりである。

そしてこうした人生の『四苦八苦』の怜悧を深く思案したりすると、
つたない私は、どうしたらよいの、と迷うばかりが本音となっている。
            
せめて過ぎ去り今年の日々を愛惜を重ねて、
来たる新年にささやかなことを願い、そして少しは達成できるようになれはよい、
と私は思い、『除夜の鐘』を聴こうと思ったりしている。

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