私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
先程、ネットでニュースを見ようと、時事通信社の基幹ネットの【時事ドットコム】を開き、
《 同年代の少年兵、なぜ特攻=生還者に聞く「戦争体験」-大学生が証言映像製作 》
と見出しされた記事を見て、
思わずクイックし、記事を深く精読した・・。
無断であるが、この記事を転載させて頂く。
《・・
同年代の少年兵、なぜ特攻=生還者に聞く「戦争体験」-大学生が証言映像製作
僕らと同年代だった少年兵は、どんな気持ちで特攻に赴いたのか-。
中央大(東京都八王子市)の学生が、
太平洋戦争中に東京陸軍航空学校(武蔵村山市)から特攻隊へ志願した元少年兵らを取材し、
10分間の映像にまとめ公開した。
前夜に涙した同僚。生き残った苦しみ。元少年兵の言葉に改めて戦争の事実を見た。
同大法学部4年冨田佑さん(21)ら10人余りが今年5月ごろから取材。
飛行学校で学び、19歳で特攻隊へ志願した長野県松本市の島田昌往さん(84)にインタビューし、
出撃基地があった鹿児島県南九州市の「知覧特攻平和会館」や静岡県牧之原市にある隊員の墓なども取材した。
出撃前夜に泣きだした最年少の同僚隊員。
機体トラブルで生還した島田さんが「なぜ死ねなかった」と苦しむ姿。
その話に「亡くなった人にも生き残った人にも傷跡や不幸を与える。
それが戦争の生む事実だ」と冨田さんは感じた。
特攻隊入隊希望を学校側から聞かれた際、
「迷いなく志願した」という島田さんの言葉を、
冨田さんはすんなり納得できず何度も真意を尋ねた。
「戦争という非常事態だからか」
「われわれも同じだったら迷わないのか」。
取材後、仲間と議論したという。
図書館で見つけた資料から何人ものつてをたどり島田さんを見つけ出したが、
その過程には亡くなったり病気のため話を聞けなかったりした元隊員もいた。
「早いうちに戦争の記憶や証言を集め、伝えることが重要では」。
冨田さんは力を込めた。
映像は、冨田さんらが属するゼミが毎月番組提供している都内や九州地方のケーブルテレビや、
番組のホームページで視聴できる。
教育関係者には無料でDVDを提供するという。
http://tamatan2.exblog.jp/。
(2010/08/13-11:32)
・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2010081300050
☆【時事ドットコム】 同年代の少年兵、なぜ特攻=生還者に聞く「戦争体験」-大学生が証言映像製作☆
私は1944(昭和19)年9月に、今住んでいる近くの北多摩郡神代村入間(現・調布市入間町)実家で生を受けた・・。
もとより敗戦となった時は、翌年の1945(昭和20)年8月15日であるので、
戦争を知らない世代である。
後年になると、戦争のさなかの事はもとより、この当時の前後のことを
祖父、父、母、叔母の同居する人たち、そして親戚の叔父、叔母からも教えて貰った。
中には戦地から帰還した近所の小父さんからも、話しを聞き、
過酷で悲惨な戦地の様子を教示したりしていた。
こうした中で、特攻隊に関しては、
定年退職後の翌年の2005年4月初旬に、九州の南部を団体観光ツアーに私達夫婦は参加し、
島津家の別邸『仙厳園』に立ち寄った後、知覧にある『特攻平和会館』に寄った。
私は、歴史の中で不幸にも、
若き日に命を国家に捧げた隊員の遺書が確認したかった。
私の特攻隊に関する根底は、ニュース、歴史書物、映画から得た知識があり、
何より阿川弘之・著の『雲の墓標』を二十歳過ぎの時に読んだのが
基礎知識として影響を受けていた。
この『雲の墓標』は、阿川弘之氏が純文学月刊雑誌のひとつの『新潮』に、
1954(昭和29)年に於いて、連載し発表された作品である。
私はこの当時の時代の空気も描かれ、
鹿屋基地にある海軍海兵団の青少年の心情も深く表現されている作品に感銘を受けたひとりであった。
《・・雲こそ吾が墓標
落暉よ碑銘をかざれ・・》
この小説は、私の人生観を揺さぶられたひとつの書物である。
そしてここ数年前に映画の『ホタル』(2001年)を観た。
この映画は、知覧にあった陸軍の特別攻撃隊をテーマにしている。
このような拙(つたな)い知識の上で、この平和会館に入った。
おびただしい遺書、日記が展示されていたが、20分過ぎると、心重くなった。
うみやまに まさるめぐみに むくひなむ
道をゆくなり いさみいさんで
佐藤 新平
君がため 雄々しく散らん 桜花
上成 義徳
会館を出ると、大通りの桜並木があった。
おびただしい石燈篭の中で、桜の花びらが空をさまよい、
地上に舞い降りていた・・。
そして路肩に吹き寄せられた花びらが、薄い絨毯のように敷き占めていた。
この後、この会館で買い求めた村永薫・編の『知覧特別攻撃隊』を精読したのであった。
私はここ35年ちかく、国民の責務のひとりとして、
6月23日の沖縄戦が事実上集結した『沖縄慰霊の日』、
8月6日のアメリカが人類史上初めて広島に原子爆弾が投下された『広島被爆』、
この後にも9日、長崎に原子爆弾が投下された『長崎被爆』、、
そして15日の終戦記念日と称している『敗戦記念日』、
この日の朝には、手を合わせながら黙祷をしたりしている・・。
かの大戦で余りにも多くの方たちが亡くなわれて人々に哀悼の意を表して、
黙祷をし、尊い命の冥福を祈っている。
そして私はいつも感じることは、若き10、20代の少なくとも日本の国民の方には、
こうした現実が過去の日本にあった、と認識して欲しい、
固く願っているひとりである。
このような心情を重ねている私であるが、
今回のこのニュースを知り、大学生の一部には、
真摯に戦争、そして特攻隊の心情を再確認される言動に、
私は秘かな感動を頂いたのである。
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先程、ネットでニュースを見ようと、時事通信社の基幹ネットの【時事ドットコム】を開き、
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と見出しされた記事を見て、
思わずクイックし、記事を深く精読した・・。
無断であるが、この記事を転載させて頂く。
《・・
同年代の少年兵、なぜ特攻=生還者に聞く「戦争体験」-大学生が証言映像製作
僕らと同年代だった少年兵は、どんな気持ちで特攻に赴いたのか-。
中央大(東京都八王子市)の学生が、
太平洋戦争中に東京陸軍航空学校(武蔵村山市)から特攻隊へ志願した元少年兵らを取材し、
10分間の映像にまとめ公開した。
前夜に涙した同僚。生き残った苦しみ。元少年兵の言葉に改めて戦争の事実を見た。
同大法学部4年冨田佑さん(21)ら10人余りが今年5月ごろから取材。
飛行学校で学び、19歳で特攻隊へ志願した長野県松本市の島田昌往さん(84)にインタビューし、
出撃基地があった鹿児島県南九州市の「知覧特攻平和会館」や静岡県牧之原市にある隊員の墓なども取材した。
出撃前夜に泣きだした最年少の同僚隊員。
機体トラブルで生還した島田さんが「なぜ死ねなかった」と苦しむ姿。
その話に「亡くなった人にも生き残った人にも傷跡や不幸を与える。
それが戦争の生む事実だ」と冨田さんは感じた。
特攻隊入隊希望を学校側から聞かれた際、
「迷いなく志願した」という島田さんの言葉を、
冨田さんはすんなり納得できず何度も真意を尋ねた。
「戦争という非常事態だからか」
「われわれも同じだったら迷わないのか」。
取材後、仲間と議論したという。
図書館で見つけた資料から何人ものつてをたどり島田さんを見つけ出したが、
その過程には亡くなったり病気のため話を聞けなかったりした元隊員もいた。
「早いうちに戦争の記憶や証言を集め、伝えることが重要では」。
冨田さんは力を込めた。
映像は、冨田さんらが属するゼミが毎月番組提供している都内や九州地方のケーブルテレビや、
番組のホームページで視聴できる。
教育関係者には無料でDVDを提供するという。
http://tamatan2.exblog.jp/。
(2010/08/13-11:32)
・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2010081300050
☆【時事ドットコム】 同年代の少年兵、なぜ特攻=生還者に聞く「戦争体験」-大学生が証言映像製作☆
私は1944(昭和19)年9月に、今住んでいる近くの北多摩郡神代村入間(現・調布市入間町)実家で生を受けた・・。
もとより敗戦となった時は、翌年の1945(昭和20)年8月15日であるので、
戦争を知らない世代である。
後年になると、戦争のさなかの事はもとより、この当時の前後のことを
祖父、父、母、叔母の同居する人たち、そして親戚の叔父、叔母からも教えて貰った。
中には戦地から帰還した近所の小父さんからも、話しを聞き、
過酷で悲惨な戦地の様子を教示したりしていた。
こうした中で、特攻隊に関しては、
定年退職後の翌年の2005年4月初旬に、九州の南部を団体観光ツアーに私達夫婦は参加し、
島津家の別邸『仙厳園』に立ち寄った後、知覧にある『特攻平和会館』に寄った。
私は、歴史の中で不幸にも、
若き日に命を国家に捧げた隊員の遺書が確認したかった。
私の特攻隊に関する根底は、ニュース、歴史書物、映画から得た知識があり、
何より阿川弘之・著の『雲の墓標』を二十歳過ぎの時に読んだのが
基礎知識として影響を受けていた。
この『雲の墓標』は、阿川弘之氏が純文学月刊雑誌のひとつの『新潮』に、
1954(昭和29)年に於いて、連載し発表された作品である。
私はこの当時の時代の空気も描かれ、
鹿屋基地にある海軍海兵団の青少年の心情も深く表現されている作品に感銘を受けたひとりであった。
《・・雲こそ吾が墓標
落暉よ碑銘をかざれ・・》
この小説は、私の人生観を揺さぶられたひとつの書物である。
そしてここ数年前に映画の『ホタル』(2001年)を観た。
この映画は、知覧にあった陸軍の特別攻撃隊をテーマにしている。
このような拙(つたな)い知識の上で、この平和会館に入った。
おびただしい遺書、日記が展示されていたが、20分過ぎると、心重くなった。
うみやまに まさるめぐみに むくひなむ
道をゆくなり いさみいさんで
佐藤 新平
君がため 雄々しく散らん 桜花
上成 義徳
会館を出ると、大通りの桜並木があった。
おびただしい石燈篭の中で、桜の花びらが空をさまよい、
地上に舞い降りていた・・。
そして路肩に吹き寄せられた花びらが、薄い絨毯のように敷き占めていた。
この後、この会館で買い求めた村永薫・編の『知覧特別攻撃隊』を精読したのであった。
私はここ35年ちかく、国民の責務のひとりとして、
6月23日の沖縄戦が事実上集結した『沖縄慰霊の日』、
8月6日のアメリカが人類史上初めて広島に原子爆弾が投下された『広島被爆』、
この後にも9日、長崎に原子爆弾が投下された『長崎被爆』、、
そして15日の終戦記念日と称している『敗戦記念日』、
この日の朝には、手を合わせながら黙祷をしたりしている・・。
かの大戦で余りにも多くの方たちが亡くなわれて人々に哀悼の意を表して、
黙祷をし、尊い命の冥福を祈っている。
そして私はいつも感じることは、若き10、20代の少なくとも日本の国民の方には、
こうした現実が過去の日本にあった、と認識して欲しい、
固く願っているひとりである。
このような心情を重ねている私であるが、
今回のこのニュースを知り、大学生の一部には、
真摯に戦争、そして特攻隊の心情を再確認される言動に、
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戦後に生まれた私は、面影の欠けらも無い世の中で育ちましたが、TVでは特集を組んで放送していたのを覚えていますし、中学生時代には中国での不幸な事実を勉強したり。
多くはここで語りませんが、特攻に志願した方々の有志、特攻に望まず選抜された方々の魂。
私も、毎年戦没者の方々と共に、祈っています。