一年間のコロンビア大学留学を終えて8月末に日本に帰国した。
送別会では、私のコロンビア大学時代のメールアドレス入りのTシャツを担当の准教授が作ってくれたりして、PHDの学生と一緒にやってくれた。帰国すると当然のことであるが出発前と日本側での生活に大きな変化があった。
仕事の関係では、私が入社以来お世話になって、留学にも出してくれた直属の上司がいなくなったことである。帰国すれば元の研究所の通信研究部に戻ることになっていたが、私の上司からは戻る少し前に手紙が来て(当時はまだメールは使われていなかった)、移動通信事業部に異動になるとあった。
そして私は通信研究部の中の移動通信グループに入ることになっている、とあった。 それまで私は衛星通信とかマイクロ波通信とかの仕事をしていたのだが、ここから自分のライフワークとなる移動体通信の仕事をするようになった。1983年のことである。
私生活の面ではまず住むところを探さなくてはならない。出発前に住んでいたアパートは解約して出てきたので、とりあえず住むところがない状態だった。そこで母親に頼んで前のアパートのあった宿川原近辺で捜してもらった。
2Kで3万円ちょっとのアパートを見つけてもらった。風呂なしてあるが、近くに銭湯があり、私は銭湯が好きだったので気にならなかった。 出発前の1万9千円に比べると大分値上がりしているが、そのあたりでは安いほうであり部屋も少し広くなっているのでまあ満足だった。
こうしてリフレッシュした状態で私の新たな日本での研究者生活が始まった。
コロンビア大学にいたころ私は美術館廻りもした。
ニューヨークの有名な美術館というと、メトロポリタン美術館とニューヨーク近代美術館があるが、私が気に入ったのはグッゲンハイム美術館である。
この美術館は建物自体が芸術作品のような変わった形をしており、陳列作品は美術の教科書に出てくるような歴史的有名人の作品ではなく現代アートを陳列していた。展示室は直径50メートルくらいの円筒形で、らせん状に上にあがっていく形になっている。円筒の外壁に作品が展示してあり、内側は何もない空間である。
こういう展示の仕方だと、作品のすぐそばに行ったときにみるのと、円筒の反対側からかなり距離を置いて作品を見るのと2回見ることになる。そしてその2回で、作品の印象が大きく変わることを知った。
近くで見ると何も感じない作品に対しても、遠くから見ると力を感じるような作品もある。抽象画なので意味はわからないのだが、リズムや力を感じる。それまで私は抽象画には興味がなかったのだが、グッゲンハイム美術館は私に抽象画への興味を呼び起こしてくれた。
音楽に関しては、リンカーンセンターにクラシックを聴きに何度か行った。私はクラシックは特に好きではないので、前売り券を買ったりはしない。開演ぎりぎりの時間に会場に行ってみると、ダフ屋が売れ残ったチケットを半額で売っている。その価格とその日の演目を見て面白そうなら買ってはいるというやり方である。
リンカーンセンターで印象的だったのは佐渡の太鼓の一座「鼓動」の演奏である。祭りの法被のようなものを着て出てくるのだが後半になると法被を脱ぎ捨て、褌一丁で大太鼓をたたく。その背中の隆々たる筋肉と、大太鼓の迫力ある音、それに笛や小太鼓、鉦などの音が相まって、音楽的にも視覚的にも楽しめた。
映画では「クロサワムービー」という黒沢明監督の作品を専門に上映する映画館があり、ここへ何度か通った。私は映画館へはめったに行かないので黒沢監督の映画を観たのはニューヨークが初めてだった。「七人の侍」「椿三十郎」「用心棒」「生きる」などを観たと思う。
黒沢監督というと三船敏郎が有名だが、私には「生きる」の志村喬の演技が最も強く印象に残っている。
考えてみると、ニューヨークで日本の作品をいろいろ観ている。やはり「自分は日本人だなー」と思う。
ニューヨークの有名な美術館というと、メトロポリタン美術館とニューヨーク近代美術館があるが、私が気に入ったのはグッゲンハイム美術館である。
この美術館は建物自体が芸術作品のような変わった形をしており、陳列作品は美術の教科書に出てくるような歴史的有名人の作品ではなく現代アートを陳列していた。展示室は直径50メートルくらいの円筒形で、らせん状に上にあがっていく形になっている。円筒の外壁に作品が展示してあり、内側は何もない空間である。
こういう展示の仕方だと、作品のすぐそばに行ったときにみるのと、円筒の反対側からかなり距離を置いて作品を見るのと2回見ることになる。そしてその2回で、作品の印象が大きく変わることを知った。
近くで見ると何も感じない作品に対しても、遠くから見ると力を感じるような作品もある。抽象画なので意味はわからないのだが、リズムや力を感じる。それまで私は抽象画には興味がなかったのだが、グッゲンハイム美術館は私に抽象画への興味を呼び起こしてくれた。
音楽に関しては、リンカーンセンターにクラシックを聴きに何度か行った。私はクラシックは特に好きではないので、前売り券を買ったりはしない。開演ぎりぎりの時間に会場に行ってみると、ダフ屋が売れ残ったチケットを半額で売っている。その価格とその日の演目を見て面白そうなら買ってはいるというやり方である。
リンカーンセンターで印象的だったのは佐渡の太鼓の一座「鼓動」の演奏である。祭りの法被のようなものを着て出てくるのだが後半になると法被を脱ぎ捨て、褌一丁で大太鼓をたたく。その背中の隆々たる筋肉と、大太鼓の迫力ある音、それに笛や小太鼓、鉦などの音が相まって、音楽的にも視覚的にも楽しめた。
映画では「クロサワムービー」という黒沢明監督の作品を専門に上映する映画館があり、ここへ何度か通った。私は映画館へはめったに行かないので黒沢監督の映画を観たのはニューヨークが初めてだった。「七人の侍」「椿三十郎」「用心棒」「生きる」などを観たと思う。
黒沢監督というと三船敏郎が有名だが、私には「生きる」の志村喬の演技が最も強く印象に残っている。
考えてみると、ニューヨークで日本の作品をいろいろ観ている。やはり「自分は日本人だなー」と思う。
どこででもそうだろうが、海外で生活していると日本人同士が集まって話をする機会が多くなる。私の場合、独身で言ったので独身同士、それも日本人留学生同士が仲間となって遊びに行ったりすることが多かった。
夏休みの英語学校の間に私は二つのニューヨークの日本人グループと知り合った。お互いあまり仲が良くなかったのだが、私は両方のグループと付き合っていた。
一つは商社、銀行、上級公務員などの会社から派遣されている留学生である。この人たちは24-5才で将来を見込まれて派遣された人たちで、エリート臭をぷんぷんさせていて、どこかの重役と会食したとかいうニューヨークで日本人の人脈作りにいそしんでいるような生き方をしていた。それも一つの留学の利用方法かと思いつつも、私はあまり好きになれなかった。
先に述べた直木賞作家の古荘正朗氏も含まれていたが彼も同じ思いを持っており、お互いジャズが好きだったこともあってウマがあっていた。帰国してから結婚式にも招待してもらったが、35歳の若さで他界した。
もう一つのグループは、芸術家グループである。この人たちは音楽、ダンス、絵画などで身を立てることを夢見て自費できている。たいていはすし屋の皿洗いなどのアルバイトをしながら学校に通っている。私はこちらのグループのほうが好きだった。時々誰かの家に集まって夜明けまで飲み明かす。午前3時頃に誰かが練習していたギターのラウンド・ミッドナイトの旋律は今も頭に残っている。
私達のような技術系の留学生はMITのあるボストンかサンフランシスコ、ロサンゼルス、といった西海岸が多く、ニューヨークではあまり多くなかった。理科系では山口さんという数学者と会ったくらいである。山口さんとは私が京大で知り合った数学者の森さんの話などで盛り上がったが、気持ちの良い人だった。
夏休みの英語学校の間に私は二つのニューヨークの日本人グループと知り合った。お互いあまり仲が良くなかったのだが、私は両方のグループと付き合っていた。
一つは商社、銀行、上級公務員などの会社から派遣されている留学生である。この人たちは24-5才で将来を見込まれて派遣された人たちで、エリート臭をぷんぷんさせていて、どこかの重役と会食したとかいうニューヨークで日本人の人脈作りにいそしんでいるような生き方をしていた。それも一つの留学の利用方法かと思いつつも、私はあまり好きになれなかった。
先に述べた直木賞作家の古荘正朗氏も含まれていたが彼も同じ思いを持っており、お互いジャズが好きだったこともあってウマがあっていた。帰国してから結婚式にも招待してもらったが、35歳の若さで他界した。
もう一つのグループは、芸術家グループである。この人たちは音楽、ダンス、絵画などで身を立てることを夢見て自費できている。たいていはすし屋の皿洗いなどのアルバイトをしながら学校に通っている。私はこちらのグループのほうが好きだった。時々誰かの家に集まって夜明けまで飲み明かす。午前3時頃に誰かが練習していたギターのラウンド・ミッドナイトの旋律は今も頭に残っている。
私達のような技術系の留学生はMITのあるボストンかサンフランシスコ、ロサンゼルス、といった西海岸が多く、ニューヨークではあまり多くなかった。理科系では山口さんという数学者と会ったくらいである。山口さんとは私が京大で知り合った数学者の森さんの話などで盛り上がったが、気持ちの良い人だった。
今日は1982年のニューヨークのJazzの話を書こう。
ニューヨークにはありとあらゆるものがあるという感じだが、その中でも私はジャズが好きなのでよく聞いていた。
まず、印象的だったのはJazz Mobileである。 Jazz Mobileとはニューヨーク市が貧しい人たちのためにやっている活動で、トラックに機材を積んで、公園でジャズのライブを行うものである。日本だと2千円以上のレコード(当時はLPレコードだった)を発売しているような有名なプレーヤーがこれで回ってくる。ジャズの演奏家は黒人が多いので彼らもほとんどボランティアなのかもしれない。
コロンビア大学は貧しい地域にあったので私は良く公園に聞きに行っていた。広場で演奏して周りの階段などに皆好き好きに座って聞く。もちろん無料である。演奏の時間が近づいて観客が集まってくるとシシケバブ(日本でいえば焼き鳥)の屋台などが建っていい匂いがしてくる。ビールも売っている。 演奏が始まると、「Do you Smoke ?」と言ってたばこを売りに来る。私はタバコは吸わないので断っていたが後で聞くとマリファナだったようである。
ある時、音響系が壊れてマイクが機能しなくなった。するとボーカルの人がマイク無しで歌い始めた。マイク無しで、屋外でも十分に聞こえるだけの声量である。黒人の大柄な人だったが、「やはり違うな」と思ったものである。
夜はときどきヴィレッジのジャズクラブに行っていた。たいてい2部構成で、1回目が10時ころに終わり、2回目は12時過ぎに終わる。夜中に帰るのは心配なので最初のうちは第1部のほうを聞いていたのだが、あるとき「第2部のほうがずっと良い」と聞いて第2部を聞いてみたことがある。確かに第2部のほうが本物のジャズという感じがした。
10月頃だったと思うがCool Jazz Festivalというのがあった。これは全米の有名なジャズプレーヤーが集まって、あちこちのコンサートホールで演奏会を開くイベントである。このときに聞いたカーネギーホールでのオスカー・ピーターソンの演奏は忘れられない。
オスカー・ピーターソンは当時すでにかなりの高齢でステージに上がってくるときはよたよたしたおじいさんという感じである。しかし、彼がピアノを弾き始めるともう美しい音の洪水という感じである。しっとりと弾く感じではなく次から次へとアップテンポで音が流れてゆく。そしてそれが心地良い流れになるという感じだった。
当時の留学生仲間に富士銀行から来ていた古荘さんという人がいた。25歳前後だったがすでに直木賞作家であり、彼がジャズが好きだったのでよくあちこち一緒に聞きに行ったものである。
今は変わっているかもしれないが、ニューヨークはモダンジャズでは最高のメッカといえると思う。
ニューヨークにはありとあらゆるものがあるという感じだが、その中でも私はジャズが好きなのでよく聞いていた。
まず、印象的だったのはJazz Mobileである。 Jazz Mobileとはニューヨーク市が貧しい人たちのためにやっている活動で、トラックに機材を積んで、公園でジャズのライブを行うものである。日本だと2千円以上のレコード(当時はLPレコードだった)を発売しているような有名なプレーヤーがこれで回ってくる。ジャズの演奏家は黒人が多いので彼らもほとんどボランティアなのかもしれない。
コロンビア大学は貧しい地域にあったので私は良く公園に聞きに行っていた。広場で演奏して周りの階段などに皆好き好きに座って聞く。もちろん無料である。演奏の時間が近づいて観客が集まってくるとシシケバブ(日本でいえば焼き鳥)の屋台などが建っていい匂いがしてくる。ビールも売っている。 演奏が始まると、「Do you Smoke ?」と言ってたばこを売りに来る。私はタバコは吸わないので断っていたが後で聞くとマリファナだったようである。
ある時、音響系が壊れてマイクが機能しなくなった。するとボーカルの人がマイク無しで歌い始めた。マイク無しで、屋外でも十分に聞こえるだけの声量である。黒人の大柄な人だったが、「やはり違うな」と思ったものである。
夜はときどきヴィレッジのジャズクラブに行っていた。たいてい2部構成で、1回目が10時ころに終わり、2回目は12時過ぎに終わる。夜中に帰るのは心配なので最初のうちは第1部のほうを聞いていたのだが、あるとき「第2部のほうがずっと良い」と聞いて第2部を聞いてみたことがある。確かに第2部のほうが本物のジャズという感じがした。
10月頃だったと思うがCool Jazz Festivalというのがあった。これは全米の有名なジャズプレーヤーが集まって、あちこちのコンサートホールで演奏会を開くイベントである。このときに聞いたカーネギーホールでのオスカー・ピーターソンの演奏は忘れられない。
オスカー・ピーターソンは当時すでにかなりの高齢でステージに上がってくるときはよたよたしたおじいさんという感じである。しかし、彼がピアノを弾き始めるともう美しい音の洪水という感じである。しっとりと弾く感じではなく次から次へとアップテンポで音が流れてゆく。そしてそれが心地良い流れになるという感じだった。
当時の留学生仲間に富士銀行から来ていた古荘さんという人がいた。25歳前後だったがすでに直木賞作家であり、彼がジャズが好きだったのでよくあちこち一緒に聞きに行ったものである。
今は変わっているかもしれないが、ニューヨークはモダンジャズでは最高のメッカといえると思う。
コロンビア大学に留学していた頃のニューヨークの風景を書いておこう。1982年の風景なので今は相当に代わっていると思う。
ニューヨーク、マンハッタン島は南北に細長い島であるが、コロンビア大学はセントラルパークの北西の角辺りにあり、その北側は「ハーレム」と呼ばれる黒人街だった。当時日本の旅行会社などはこの地域に足を踏み入れないように、と旅行者に注意していたが、私は何度か中を歩いたが特に危険は感じなかった。しかし、裏道に入ると気持ちが悪かったということは以前書いた。
有名なブロードウェイという大通りが南北に走っており、コロンビア大学のすぐ前まで来ていたのだが、私はこの道を南に歩いて南の端、「サウスフェリー」まで歩くのが好きで何度か歩いたものである。約3時間でサウスフェリーまで到着する。
大学のすぐ南のあたりは、メキシコやカリブ海などラテンアメリカから来た人たちの住む地域で貧しい感じがする。しばらく歩くとジョン・レノンの家などの高級住宅地に来る。そこをさらに歩くとセントラルパークの南端あたりにリンカーンセンターというオペラやクラシックなどのコンサートホールがある。
この辺りから南が商業地域になる。 5番街やエンパイヤーステートビルなどの有名地を東に見ながらいわゆる「ブロードウェイミュージカル」の劇場などの前を通ってしばらく行くと、また貧しい地域になり、「ビレッジ」と呼ばれる地域に入る。この辺りは「ビレッジ・バンガード」というような有名なジャズのライブハウスがあり、私もよく通った。私はSweet Basilという店がお好みだった。
そこを東に行くとチャイナタウン、リトルイタリアといった味のある町がある。更に南に行くとウォール街があり、サウス・フェリーに到着する。サウス・フェリーからはStaten Islandに行くフェリーが出ており、片道25セントで30分くらいで着く。
このフェリーからのマンハッタンの眺めが素晴らしく、私は大好きだった。今は無くなった貿易センタービルをはじめとする高層ビル群が見え、左側には自由の女神が見える。いかにもニューヨークらしい風景だと感じていた。
ニューヨークの町を歩いていると人種も服装も本当に様々である。大金持ちも貧乏人も混ざっており、どんな人がいてもおかしくない感じがする。「人種のるつぼ」というのをまざまざと感じる。
人種だけでなく世界のトップアーチストもいて、泥棒もいて、あるとあらゆる人がいるような感じがする。 生活する上で緊張感もあるが、刺激もある、面白い街である。
ニューヨーク、マンハッタン島は南北に細長い島であるが、コロンビア大学はセントラルパークの北西の角辺りにあり、その北側は「ハーレム」と呼ばれる黒人街だった。当時日本の旅行会社などはこの地域に足を踏み入れないように、と旅行者に注意していたが、私は何度か中を歩いたが特に危険は感じなかった。しかし、裏道に入ると気持ちが悪かったということは以前書いた。
有名なブロードウェイという大通りが南北に走っており、コロンビア大学のすぐ前まで来ていたのだが、私はこの道を南に歩いて南の端、「サウスフェリー」まで歩くのが好きで何度か歩いたものである。約3時間でサウスフェリーまで到着する。
大学のすぐ南のあたりは、メキシコやカリブ海などラテンアメリカから来た人たちの住む地域で貧しい感じがする。しばらく歩くとジョン・レノンの家などの高級住宅地に来る。そこをさらに歩くとセントラルパークの南端あたりにリンカーンセンターというオペラやクラシックなどのコンサートホールがある。
この辺りから南が商業地域になる。 5番街やエンパイヤーステートビルなどの有名地を東に見ながらいわゆる「ブロードウェイミュージカル」の劇場などの前を通ってしばらく行くと、また貧しい地域になり、「ビレッジ」と呼ばれる地域に入る。この辺りは「ビレッジ・バンガード」というような有名なジャズのライブハウスがあり、私もよく通った。私はSweet Basilという店がお好みだった。
そこを東に行くとチャイナタウン、リトルイタリアといった味のある町がある。更に南に行くとウォール街があり、サウス・フェリーに到着する。サウス・フェリーからはStaten Islandに行くフェリーが出ており、片道25セントで30分くらいで着く。
このフェリーからのマンハッタンの眺めが素晴らしく、私は大好きだった。今は無くなった貿易センタービルをはじめとする高層ビル群が見え、左側には自由の女神が見える。いかにもニューヨークらしい風景だと感じていた。
ニューヨークの町を歩いていると人種も服装も本当に様々である。大金持ちも貧乏人も混ざっており、どんな人がいてもおかしくない感じがする。「人種のるつぼ」というのをまざまざと感じる。
人種だけでなく世界のトップアーチストもいて、泥棒もいて、あるとあらゆる人がいるような感じがする。 生活する上で緊張感もあるが、刺激もある、面白い街である。
1982年、秋になると私のコロンビア大学での研究生活も本格化していった。
授業に出ることもできたのだが傍聴ではあまり身が入らず、ほとんど授業は受けなかった。むしろドクターコースの学生と一緒に研究をしていた。内容はコンピュータネットワークの性能解析の陽のことで「待ち行列理論」とシミュレーションを組み合わせるようなものだった。
私はコンピュータ・サイエンスのYeminiという准教授の下についたのだが電気工学に同じ分野をやっているシュワルツ教授のグループというのがあって、このグループとも付き合っていた。
シュワルツ教授は世界的に有名な人で当時のAT&Tのベル研究所やIBMのワトソン研究所と交流があり、講師を招いて講演会を開いたり、大学側から研究所を訪問して討論会をやったりしていた。 私はこのセミナーには欠かさず参加していた。
教授に付いてワトソン研究所にも行った。当時NECはベル研究所とは交流が深く、訪問した人もたくさんいたがIBMのワトソン研究所を訪問した人は稀だったと思う。 大学の研究者と一緒に7-8人が行くのだが、殆ど必ず、「NECからのMr.Furuyaです」といってシュワルツ教授が私を紹介してくれる。当時私は教授の親切だと思っていたが後で考えると「企業の人が入っていますよ」という警告だったのかと思う。
コンピュータサイエンスのドクターの学生が20人ほどで、この人たちとはお茶コーナーで話をしたり、一緒に食事をしたりして全員と付き合っていた。そのほかにシュワルツ教授のグループの准教授や大学院生10人くらいとも親しく付き合っていた。女子学生に日本語を教えたりもしていた。
アメリカ人が一番多かったが、アラブ人、フランス人、ギリシャ人、中国人、韓国人、インド人など様々な国の人がいてそういう面でも面白かった。
授業に出ることもできたのだが傍聴ではあまり身が入らず、ほとんど授業は受けなかった。むしろドクターコースの学生と一緒に研究をしていた。内容はコンピュータネットワークの性能解析の陽のことで「待ち行列理論」とシミュレーションを組み合わせるようなものだった。
私はコンピュータ・サイエンスのYeminiという准教授の下についたのだが電気工学に同じ分野をやっているシュワルツ教授のグループというのがあって、このグループとも付き合っていた。
シュワルツ教授は世界的に有名な人で当時のAT&Tのベル研究所やIBMのワトソン研究所と交流があり、講師を招いて講演会を開いたり、大学側から研究所を訪問して討論会をやったりしていた。 私はこのセミナーには欠かさず参加していた。
教授に付いてワトソン研究所にも行った。当時NECはベル研究所とは交流が深く、訪問した人もたくさんいたがIBMのワトソン研究所を訪問した人は稀だったと思う。 大学の研究者と一緒に7-8人が行くのだが、殆ど必ず、「NECからのMr.Furuyaです」といってシュワルツ教授が私を紹介してくれる。当時私は教授の親切だと思っていたが後で考えると「企業の人が入っていますよ」という警告だったのかと思う。
コンピュータサイエンスのドクターの学生が20人ほどで、この人たちとはお茶コーナーで話をしたり、一緒に食事をしたりして全員と付き合っていた。そのほかにシュワルツ教授のグループの准教授や大学院生10人くらいとも親しく付き合っていた。女子学生に日本語を教えたりもしていた。
アメリカ人が一番多かったが、アラブ人、フランス人、ギリシャ人、中国人、韓国人、インド人など様々な国の人がいてそういう面でも面白かった。
ニューヨークのコロンビア大学も9月に入ると学期も始まり、私の研究生活も開始される。
その前の英語学校に通う間の大切なこととして9月からの住む場所を確保しなくてはならなかった。 大学院生に部屋を斡旋する不動産屋で探したのだが、なかなか難航した。私はバスタブつきの部屋を探していたのだがなかなか見つからない。そのうち9月が近づいてくると次第に学生が戻ってきて空き部屋が無くなってくる。結局、あせって、シャワーだけでトイレつき、流しなしの細長い二間の狭い部屋を契約した。
敷金、礼金はなかったと思う。ベッドは付いていた。大学の正門のすぐそばで、狭い部屋だったが一月330ドルくらいだった。 私は会社からは1000ドル/月もらっていたので、この出費は結構大きかった。一月1000ドルはずいぶん安いようだが、当時は1ドル250円くらいだったのでそう文句も言えない金額だった。しかし、台所もない部屋で部屋代はずいぶん高いと感じたものだった。
部屋が決まると電話をつけてもらわなくてはいけない。これは管轄の電話局に行くのだが、私のアパートのあたりを管轄する電話局はハーレムと呼ばれる黒人街の真ん中にあった。そのころは大分ニューヨークにも慣れていたので私は歩いて電話局まで行って申し込みをした。行きは大通りを通って行って、全く危険は感じなかった。しかし、帰りに近道を通ろうとして裏道に入るとがらりと雰囲気が変わった。筋骨たくましい黒人の若者があちこちに何をするでもなくたむろしている。無職でぶらぶらしているのは明らかだった。視線を合わせないようにしてそこを通り過ぎて再び広い道に出た時はほっとしたのを覚えている。
自炊できないので基本的に3食とも外食だった。慣れてくると一日10ドルでやりくりできた。朝食が1.5ドル、昼食が3ドル、夕食が5.5ドルくらいである。これで一月300ドル、家賃を引いても若干余るのでそれで本や衣類を買ったり、飲みに行ったりしていた。ドクターコースの学生はだいたいこんな感じの生活だったと思う。最も初期投資が色々かかるので50万円ほどは日本から送金していた。
大学内では無給の研究生だったが、当時はコンピュータサイエンス学部を立ち上げたばかりだったので部屋には余裕があり、私は教授と同じ個室を与えられた。ドクターの学生は二人で1部屋だった。大学内での環境は恵まれていた。
その前の英語学校に通う間の大切なこととして9月からの住む場所を確保しなくてはならなかった。 大学院生に部屋を斡旋する不動産屋で探したのだが、なかなか難航した。私はバスタブつきの部屋を探していたのだがなかなか見つからない。そのうち9月が近づいてくると次第に学生が戻ってきて空き部屋が無くなってくる。結局、あせって、シャワーだけでトイレつき、流しなしの細長い二間の狭い部屋を契約した。
敷金、礼金はなかったと思う。ベッドは付いていた。大学の正門のすぐそばで、狭い部屋だったが一月330ドルくらいだった。 私は会社からは1000ドル/月もらっていたので、この出費は結構大きかった。一月1000ドルはずいぶん安いようだが、当時は1ドル250円くらいだったのでそう文句も言えない金額だった。しかし、台所もない部屋で部屋代はずいぶん高いと感じたものだった。
部屋が決まると電話をつけてもらわなくてはいけない。これは管轄の電話局に行くのだが、私のアパートのあたりを管轄する電話局はハーレムと呼ばれる黒人街の真ん中にあった。そのころは大分ニューヨークにも慣れていたので私は歩いて電話局まで行って申し込みをした。行きは大通りを通って行って、全く危険は感じなかった。しかし、帰りに近道を通ろうとして裏道に入るとがらりと雰囲気が変わった。筋骨たくましい黒人の若者があちこちに何をするでもなくたむろしている。無職でぶらぶらしているのは明らかだった。視線を合わせないようにしてそこを通り過ぎて再び広い道に出た時はほっとしたのを覚えている。
自炊できないので基本的に3食とも外食だった。慣れてくると一日10ドルでやりくりできた。朝食が1.5ドル、昼食が3ドル、夕食が5.5ドルくらいである。これで一月300ドル、家賃を引いても若干余るのでそれで本や衣類を買ったり、飲みに行ったりしていた。ドクターコースの学生はだいたいこんな感じの生活だったと思う。最も初期投資が色々かかるので50万円ほどは日本から送金していた。
大学内では無給の研究生だったが、当時はコンピュータサイエンス学部を立ち上げたばかりだったので部屋には余裕があり、私は教授と同じ個室を与えられた。ドクターの学生は二人で1部屋だった。大学内での環境は恵まれていた。
1982年の8月から1年間、私はニューヨークにあるコロンビア大学のComputer Science学部に留学した。留学が決まると結婚して奥さんと一緒に行く人が多く、留学は一つの結婚の機会になるのだが、私にはまだその気はなかった。
大学の学期は9月から始まるのだがその前1ヶ月間の英会話スクールに入った。この期間は学生がいないこともあって大学構内の学生寮に寝泊まりしていた。コロンビア大学はいわゆるハーレム地区の近くにあり、危ない地域と言われていたが、大学の入り口には警備員がおり構内安全だった。
この間に9月から住むアパートを探したり、ニューヨークの生活に慣れることも目的だった。英会話のクラスは15人ほどで、日本人、イタリア人、フランス人、スイス人、韓国人、中国人と様々だった。年齢は20代から50代までと様々だった。
授業内容は、当然であるが、全て英語で、アメリカの文化や生活習慣を教えてくれるものであった。Wall Streetの株を売買しているところに見学に行ったりもした。
アジア系の学生はアメリカに来て生活している人が多く、ヨーロッパ系は夏休みを利用して観光がてら、来ている人が多かった。ヨーロッパからの人は若い女性が多かった。特にフランス人はかわいらしかった。中には中国人の50才台の詩人もいて、私が日本では学校で漢詩を習う、といって杜甫や李白の詩を書いてみせると、喜んで自作の詩を墨で書いた「書」をくれた。書も見事なものだった。
あるとき、それぞれの国の子守歌を紹介するように先生が言って、私が最初に「五木の子守歌」を歌った。「Beautiful」という言葉が周りからでて、すごく評判が良かった。「五木の子守歌」を選んだのは五木寛之の小説で外国人に受けると書かれていたからである。これがきっかけで色々な人が様々な歌を歌った。
終わりのほうではフランス人の女の子と一緒に4-5人でロングアイランドに海水浴に行った。まだインターネットが無い時代だったが、どこの海水浴場がいいとか、交通機関はどうやっていけばいいとかは、やはりヨーロッパ系の人が強く、手際良く探してきた。
大学まで帰ってきて夕食にしようということになったが、お昼をしっかり食べたので皆で軽くしようと言っていた。日本食は高いので中華にしようかというと、フランス人は「中華は重いのでイタリアンにしよう」という。私の感覚ではイタリアンのほうが重く、中華で少ない皿を注文して皆で分けるのが良いと思ったのだが、彼らからすると逆のようである。結局ピザ屋に入り、Samllのピザを注文したのだが、これが直径30cmくらいあり、ヨーロッパ人も驚いていた。
こうして楽しい夏を過ごして、次第にニューヨークの生活に合わせていった。
大学の学期は9月から始まるのだがその前1ヶ月間の英会話スクールに入った。この期間は学生がいないこともあって大学構内の学生寮に寝泊まりしていた。コロンビア大学はいわゆるハーレム地区の近くにあり、危ない地域と言われていたが、大学の入り口には警備員がおり構内安全だった。
この間に9月から住むアパートを探したり、ニューヨークの生活に慣れることも目的だった。英会話のクラスは15人ほどで、日本人、イタリア人、フランス人、スイス人、韓国人、中国人と様々だった。年齢は20代から50代までと様々だった。
授業内容は、当然であるが、全て英語で、アメリカの文化や生活習慣を教えてくれるものであった。Wall Streetの株を売買しているところに見学に行ったりもした。
アジア系の学生はアメリカに来て生活している人が多く、ヨーロッパ系は夏休みを利用して観光がてら、来ている人が多かった。ヨーロッパからの人は若い女性が多かった。特にフランス人はかわいらしかった。中には中国人の50才台の詩人もいて、私が日本では学校で漢詩を習う、といって杜甫や李白の詩を書いてみせると、喜んで自作の詩を墨で書いた「書」をくれた。書も見事なものだった。
あるとき、それぞれの国の子守歌を紹介するように先生が言って、私が最初に「五木の子守歌」を歌った。「Beautiful」という言葉が周りからでて、すごく評判が良かった。「五木の子守歌」を選んだのは五木寛之の小説で外国人に受けると書かれていたからである。これがきっかけで色々な人が様々な歌を歌った。
終わりのほうではフランス人の女の子と一緒に4-5人でロングアイランドに海水浴に行った。まだインターネットが無い時代だったが、どこの海水浴場がいいとか、交通機関はどうやっていけばいいとかは、やはりヨーロッパ系の人が強く、手際良く探してきた。
大学まで帰ってきて夕食にしようということになったが、お昼をしっかり食べたので皆で軽くしようと言っていた。日本食は高いので中華にしようかというと、フランス人は「中華は重いのでイタリアンにしよう」という。私の感覚ではイタリアンのほうが重く、中華で少ない皿を注文して皆で分けるのが良いと思ったのだが、彼らからすると逆のようである。結局ピザ屋に入り、Samllのピザを注文したのだが、これが直径30cmくらいあり、ヨーロッパ人も驚いていた。
こうして楽しい夏を過ごして、次第にニューヨークの生活に合わせていった。
NECには海外留学制度というのがあり、毎年何人かを留学生として海外に出していた。銀行などは入社2年目くらいの人を出すようだが、NECでは30歳前後の入社してひと仕事した人を出していた。
私もそれなりの年齢になった時に申し込んでみないか、と上司から声をかけられた。英会話などを積極的にやっていたので行きたがっていると思われたのだと思う。
申し込んで1981年の夏から1年間の留学が決まった。 留学先は自分で探して決める。修士の学生で行くのと、研究者として行くのとがある。
当時はボストンのMITやサンフランシスコのUCバークレイといった有名大学に行く人が多かったが、私は名前よりもできれば教授などを知っている人のところに行きたいと思っていた。
上司からは「せっかく仕事と離れるのだから、これまでとは少し違う分野を開拓してはどうか」と言われた。そこで、当時盛り上がってきていたコンピュータネットワークの分野をやってみようと思った。当時はゼロックスがイーサネットを提案したり、アメリカの軍から転用されたARPA-Netという大学間ネットワークが動き始めていた時期だった。インターネットという言葉はまだなかったと思う。
コンピュータネットワークといっても私はコンピュータにはそれほど詳しくなく、その分野は大変だと思っていたので待ち行列理論という理論を使ってネットワークの性能解析をする分野を選ぶことにした。
当時はUCLAの教授がこの分野で有名だったので、社内のこの分野の権威の人に紹介状を書いてもらって、出張の時に足を延ばして会いに行ったのだが「まあ、受け入れてやらないわけでもないが、ドクターくらいは持っていないと」というようなえらくお高くとまった感じだったので、私のほうで意欲が失せてしまった。
もう一つの、この分野で頭角を現しつつあったコロンビア大学のほうに行くと、その人は准教授だったのだが「どうぞどうぞ」という感じだった。
当時その人はコロンビア大学で新設されたコンピュータサイエンス学部に所属していたが、電気工学部にもコンピュータネットワークをやっているグループがあり、そことよく話をしている、との事だったので、コロンビア大学に行くことに決めた。
修士の学生で行くと私の技術バックグラウンドでは卒業が厳しそうだと思い、研究生で行くことにした。
コロンビア大学は政治・経済といった文科系の学部は有名だったが工学部などはそれほど有名ではなく、私が実質的にはじめてのNECからの留学生だった。私が行った後は「なかなかいいよ」と言って後輩に紹介したのでその後しばらく毎年誰かが行くことになった。
私もそれなりの年齢になった時に申し込んでみないか、と上司から声をかけられた。英会話などを積極的にやっていたので行きたがっていると思われたのだと思う。
申し込んで1981年の夏から1年間の留学が決まった。 留学先は自分で探して決める。修士の学生で行くのと、研究者として行くのとがある。
当時はボストンのMITやサンフランシスコのUCバークレイといった有名大学に行く人が多かったが、私は名前よりもできれば教授などを知っている人のところに行きたいと思っていた。
上司からは「せっかく仕事と離れるのだから、これまでとは少し違う分野を開拓してはどうか」と言われた。そこで、当時盛り上がってきていたコンピュータネットワークの分野をやってみようと思った。当時はゼロックスがイーサネットを提案したり、アメリカの軍から転用されたARPA-Netという大学間ネットワークが動き始めていた時期だった。インターネットという言葉はまだなかったと思う。
コンピュータネットワークといっても私はコンピュータにはそれほど詳しくなく、その分野は大変だと思っていたので待ち行列理論という理論を使ってネットワークの性能解析をする分野を選ぶことにした。
当時はUCLAの教授がこの分野で有名だったので、社内のこの分野の権威の人に紹介状を書いてもらって、出張の時に足を延ばして会いに行ったのだが「まあ、受け入れてやらないわけでもないが、ドクターくらいは持っていないと」というようなえらくお高くとまった感じだったので、私のほうで意欲が失せてしまった。
もう一つの、この分野で頭角を現しつつあったコロンビア大学のほうに行くと、その人は准教授だったのだが「どうぞどうぞ」という感じだった。
当時その人はコロンビア大学で新設されたコンピュータサイエンス学部に所属していたが、電気工学部にもコンピュータネットワークをやっているグループがあり、そことよく話をしている、との事だったので、コロンビア大学に行くことに決めた。
修士の学生で行くと私の技術バックグラウンドでは卒業が厳しそうだと思い、研究生で行くことにした。
コロンビア大学は政治・経済といった文科系の学部は有名だったが工学部などはそれほど有名ではなく、私が実質的にはじめてのNECからの留学生だった。私が行った後は「なかなかいいよ」と言って後輩に紹介したのでその後しばらく毎年誰かが行くことになった。