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ウィトラのつぶやき

コンサルタントのウィトラが日頃感じたことを書いていきます

入社後の趣味: 卓球

2009-09-02 10:05:56 | 昔話
今回は会社に入ってからの私の卓球に関する活動について書く。

私は中学、高校と卓球部だったので卓球にはそれなりの自信を持っていた。いわゆる遊びでピンポンをやっている人とは変化球に対する対応の仕方が全然違うのでまず負けることはないと思っていた。大学では囲碁部だったのだが時々高校の卓球部の合宿顔を出していて現役の高校生とも戦えていたので会社に入ってもかなり強いほうだと思っていた。

あるとき、研究所に同期で配属された人が自分も卓球が好きだから一度やろう、と声をかけてきた。当時は街のあちこちに民間の卓球場があったので仕事が終わってからそこでやった。 結果は完敗だった。相手の人は修士卒で修士に入ってからはやっていないとのことだったが、大学まで卓球部だったそうで、「格が違う」感じだった。

それでも彼は「君くらいの力があれば、社内の大会では結構いけるはずなので研究所の卓球部を作ろう」と言ってくれた。それで研究所の卓球部を作ったのだが、探してみると結構経験者がいてまともなチームになった。

当時の武蔵小杉にある玉川事業場内の事業部対抗戦などでは研究所は結構上位にいけた。 後に研究所が田園都市線の宮崎台に移ってからは、宮崎台地区代表として、全社の事業場対抗戦などにも出た。事業場対抗戦では従業員は1万人近くいる玉川事業場からも1チームというような対抗戦なので上位に食い込むことは無理で、いつも下のほうだったが最下位というわけでもなかった。

宮崎台の研究所には体育館などが無かったために食堂前の廊下の広くなっているところで練習をしたりしていた。残業をしていた人たちが見物したりしていた。強くなるというほどではなかったが弱くならない、程度の効果はあったと思う。

自分で衰えを感じたのは会社の独身寮を出てアパートで生活するようになった、30歳くらいの頃である。私の借りたアパートは川崎市の多摩高校のすぐそばだったので、散歩をしていると卓球部が練習しているのが見えた。そこでずうずうしくも「近くに住んでいるものですが一緒に練習をさせてもらえませんか」と申し込んでみた。彼らは受け入れてくれた。

高校生とやってみると反射神経の反応の速さが全然違うことに気がついた。男子とは全く勝負にならない。逆を突いたつもりでも相手は軽々と追い付いてくる。女子とやってどうかという感じだった。女子にも反射神経では及ばないのだが、やはりパワーが違うのでバランスがとれる。女子は卒業生もよく練習に来ていたが、かわいい人が多く、やっていて楽しかった。

高校生は試合運びなどは下手で試合をすると結構いい勝負になるのだが、基本的な運動能力の差は明白だった。 多摩高校では4-5回一緒にやらせてもらったが、その後私が会社の留学制度でアメリカに行くことになって、行かなくなった

入社後の趣味: 囲碁

2009-08-27 11:02:23 | 昔話
今回はNECに入社してからの趣味の活動に関して書く。

大学の囲碁部であった私は囲碁には相当に自信を持っていたので、会社の囲碁部にも入った。当時のNECの囲碁部はかなり強く、実業団大会でもトップクラスだったのだが、強い人はあちこちの事業所に分散していて、大会の時くらいしか集まることはなかった。

会社で囲碁をやったのはむしろ研究所内の囲碁の好きな人たちと出会った。当時の研究所には私と同レベルの人が一人いて、(12歳上の人だが)、その人と昼休みに良く打っていた。一日では終わらないので打ち掛けの盤面をそっと置いておいて翌日に続きをやる。囲碁はある程度のレベル以上になると石を全部片付けてしまっても翌日に復元することができる。二人とも十分にそのレベルには達していたのだが、やはりはじめから並べ直すのは面倒だったのでそのまま置いておいた。

私たち二人のほかにもアマチュア4-5段の人が研究所に何人かいて、当時は研究所はかなり囲碁が盛んだった。しかし、本当に張り合いのある相手とやろうと思うと、ある程度有名な碁会所に行かないといけなかった。新宿の強い人が集まる碁会所などに時々通っていた。

私の1年前にも阪大の囲碁部だった強い人が入っていたのでNECは実業団の囲碁全国大会で時々優勝するようになった。いわゆる会社のサークル活動として優勝したことを総務部などに報告すると次第に囲碁部は全社的に認知されるようになり、会社の幹部も囲碁の強い人を意識して採用するようになった。

私が入社して10年くらいたったころにはNECの囲碁部は全盛期を迎えるようになる。その頃には日本と中国のプロ同士の対抗戦もNECが主催して、トッププロが集まるパーティーにも呼んでもらった。

囲碁の団体戦は殆ど5人一組でやるが、強い順番に並べて私はたいてい4番目か5番目であった。5人強い人をそろえられる会社はまれなので私はポイントゲッターだった。

当時、事業の上でもライバルであった富士通がやはり囲碁の強い人を集めていて、NECと富士通はアマチュアの大会の決勝で当たるというのが定番のようになっていた時期もあった

昔、お気に入りの店 カレーハウス カシミール

2009-08-14 10:05:43 | 昔話
今、ららぽーと横浜になっているあたりは以前はNECの横浜事業所といってNECの無線事業の拠点だった。 私は研究所で無線関係をやっていた関係でこの横浜事業所で何度も打ち合わせをしたし、この事業所に勤務したことも数年間ある。

この横浜事業所の最寄り駅、横浜線鴨居駅の事業所と反対側すぐのところにこの「カシミール」がある。この店を見つけたのは時代は大分下って1990年代に入ってからである。

さえない古びた2階建てのビルにあり、内装はあまり広くない喫茶店のような感じである。 経営者は日本人の人だがここのカレーはおいしい。この店を見つけてからは横浜事業所で昼ごろに打ち合わせがあるとここで昼食を食べてから行くか、打ち合わせが終わってここで食べて帰ることが多くなった。

カレーは魔法のランプのような形をしたカレーポット?に入って出てきて別にお皿にライスが出てくる、日本式の本格カレーである。ライスは普通の電気釜で炊いたご飯とはちょっと違っていて、バターをまぶしたような感じで米粒がつるつるしている。

この店には色々なメニューがあるのだが私は初めて入った時に中辛のコルマカレーを注文し、2回目以降は全てカシミールカレーを注文している。この店で一番辛いカレーということなのだが実にとろみのあるしっかりした辛さでおいしい。具はあまり入っておらず値段は880円とカレーにしてはやや高めだが、値段以上の値打ちがあるといつも思っていた。

これだけおいしいのだから他のカレーも試してみようか、と思ったことも少なからずあるのだが、横浜事業所で昼時に打ち合わせがあるのはそう多くはないのだからと思いなおして、この機会はやはり「カシミールカレー」にしようと同じものを注文する。

他の人にも何人かに紹介したが、はじめて注文する人はやはり一番辛いのは避けて無難なのにする。そして例外なく「ん、ご飯が違うね」という。

この店がららぽーとのようなファッショナブルなところにあれば有名店になると思うのだが鴨居駅前ではあるが、さえないビルにあるのでいつも空いていた。ららぽーとができてからは行っていないが、もう無くなっているかもしれない

お気に入りの店 ピザハウス ヒッコリーファーム

2009-08-08 10:55:35 | 昔話
以前好きだった店として「ヒッコリーファーム」というピザハウスがある。

登戸と宿河原の中間くらいにある店である。この店のコンセプトは「ヤングミセスのたまり場」らしく、デパートなどにある小さな子供の遊び場が店内にあり、子供を遊ばせつつ奥さんどうしはピザを食べておしゃべりをする、といった使い方をイメージしているものと思う。作りはログハウス風のおしゃれな設計である。

女性をターゲットの顧客としているためかピザの生地がサクッとしていて軽い。非常に食べやすい。私はチーズやトマトのたっぷり入った重いピザも好きなのだがこのような軽いピザも好きである。他ではなかなか食べられないピザ生地の味だと思う。

しかし、この店に行った回数は以前書いた「多摩」に比べると1/10以下である。それほど大得意というほどではないが、あのあたりに行ってちょっと何か食べたくなったら入るには良い店だと思う。

この店は今でもある(はずである

私の労働組合活動

2009-08-07 11:57:29 | 昔話
私の入社した昭和49年頃は電機労連は毎年、春闘でストを打っていた。1日か2日ストを打って賃金が数百円上がる、といったことを繰り返していた。

私が最初に労働組合活動に接したのは入社してまだ2週間ちょっとで、工場実習で旋盤を回していた頃にあった春闘のストだった。その頃はストというのがどういうものかよく分かっておらず「自宅待機ですか?」などと先輩に聞いたものである。電機労連のストは交通のストなどと違いストの途中で解決して出社するということはなく、どこかに遊びに行ってもかまわない、と言われて喜んだものである。

しかし、月末の給料をみると結構引かれているのだった。 当時の職場の労働組合関係の仕事は職場委員、支部委員代理、支部委員、執行委員と別れており、執行役員は組合専従になるので仕事に大きな影響が出るのだがそれ以外の役割は月に一度ほどの打ち合わせで決まった組合の方針を皆に伝える程度のものだった。私は執行委員以外はすべてやった。

職場委員は入社2年目くらいでやるもので組合のチラシを配る程度のものである。これは持ち回りでほぼ全員がやる。支部委員代理になると各部を代表して研究所全体の会議に出る。これは10人に一人くらいの割合で回ってくる。 当時の研究所は宮崎台にあったのだがその宮崎台地区の問題などを話し合う。大したことはできないのだが、それなりに私は発言していた。

すると次に支部委員をやってくれと依頼された。これは二月に一回くらい、研究所を代表して武蔵小杉にある玉川地区の労働組合の会議に出る。 支部委員になると選挙で誰を応援するか、といった話も出てくるし、経営者と労働組合との懇談会の議題を何にするかというような話も出てくる。この支部委員を私は4年間もやった。かなり長いほうであるが、負荷は高くない割に色々情報が入ってくるので結構楽しんでいた。

メーデーのデモ行進などにも行って川崎駅前を歩いたこともある。支部委員をやっているうちに私は労働組合(電機労連)がなぜ社会党を一貫して支持しているのか疑問に思うようになってきた。

戦後すぐのときには経営者対労働組合という対立の図式があり、経営者が利益を貯め込もうとするのを従業員に分配させるのが組合の重要な役目だった。しかし、私が支部委員になった頃には経営者も組合員の給与を適切なレベルにしないといけないことは分かっていたし、組合員側も会社が儲からなければ給料も上がらないことが分かっており、春闘でストを打つこともなくなっていた。

しかし、社会党は依然として労働者の見方という立場をとり、NECのような大企業は敵というような見方をしていた。私は対立の構図はすでに経営者対労働者ではなく、産業間でどの産業を日本として重要と考えるか、あるいは海外企業との競争を政府がどう応援してくれるか、なのだから電機労連は社会党よりもむしろ自民党を支持したほうが良いのではないか、と思うようになった。

このような意見を周りの人に言ってみたがほとんど反応はなかった。自分たちの声が電機労連の方針決定に届くことは無い、というような感触だった。

こういう下の声をくみ上げる仕組み作りも組合よりも会社側のほうが心を砕いている感じがして、私の気持ちもどんどん会社側に傾いていった

若い頃の十二指腸潰瘍

2009-08-03 11:36:50 | 昔話
今の私はインド料理店に行って「インド人もびっくり」くらいに辛いカレーを注文するくらい辛い物が好きである。しかし、入社3年目くらいから4-5年間は十二指腸潰瘍を患って辛い物が食べられなかった。

入社3年目というと私が本格的に企業人としての仕事をし始めたころである。その頃に空腹時になるとおなかがシクシク痛むようになった。食べると収まるので忘れてしまうのだが、また空腹になるとシクシク痛む。 周りの人に言うと「それは十二指腸潰瘍だから医者に行ったほうがよい」と言われて見てもらったら、案の定十二指腸潰瘍だった。

最初はバリウムを飲んで潰瘍が見つかり薬を飲んで治すことにした。しばらく薬を飲むと治るので、薬をやめるとまた数カ月して痛み出す。 2度目のときには「何度も再発するようだったら手術したほうがよいので胃カメラを飲んでよく調べよう」と言われて聖マリアンナ医科大学で胃カメラを飲んだ。

これは苦しかった。 結局、「切るほどではないし、十二指腸潰瘍はがんに発展することはないので薬で治そう。」ということになった。「十二指腸潰瘍はストレスからくるので、日頃、ストレスをためないように」とも言われた。

私にとってはショックだった。確かに仕事は忙しくなってきてはいたが、自分でストレスがたまっているとは思っておらず、十分に自分でマネージできる範囲だと思っていた。しかし現に症状が現れているので、あまり残業もせず、刺激物も食べないようにする生活が数年間続いた。

親には「コンピュータにやられたのだろう」と言われた。当時はコンピュータのプログラミングが主な仕事になっていた。私はアルゴリズムを考えたりするのは好きなのだが、几帳面ではないのでケアレスミスが多い。このブログでも、タイプミスなどが多々あるが、コンピュータはそういうところを理解してくれない。当然一文字でも違っていればエラーになってしまう。 こういうエラーでどこが間違っているのか分からず探すのに多くの時間を費やすのは、自分でイライラしていた。そういう意味ではコンピュータにやられた面があったと思う。

コンピュータに文句を言っても始まらないので、次第にチェックの方法に習熟していって、間違いも少なくなっていった。 考えてみると、自分で仕事に自信ができてきたあたりから十二指腸潰瘍が再発しなくなってきたと思えるので、それだけではなく自分で「おまえはちゃんと仕事をしているか」と自問しており、それに対して肯定的な答えが出せていない時にはストレスがたまっていたのかな、と思う。自分で明示的に前記のようなことを考えていたわけではないが無意識のうちにそういう意識が働いていたのかもしれないと思う。

スポーツでも、鍛えるには筋肉が痛くなるくらいまでやったほうがよい。それが肉離れまでいってしまうと、逆効果なのだが、眠れば治る程度の筋肉の痛みは強さを向上させる上では重要である。 仕事でも、自分にはどの程度まで負荷をかけられるかを知っておくことは重要だろう。私の場合、薬の助けを借りるところまでいったので行きすぎだったと思うが、それでもその後の長い人生を考えるとあの時期の十二指腸潰瘍は無駄ではなかったように感じている

初めての本格的業務

2009-07-30 10:03:40 | 昔話
入社してからの仕事のことについて今回は書こうと思う。

入社時には素人だった私も次第に通信の技術を理解してきて、与えられた初めての本格的業務がインテルサットの研究プロジェクトだった。入社して3年目くらいだったと思う。

インテルサットは国際的な衛星通信の機関でアメリカのワシントンに本部がある。当時は通信方式がアナログからデジタルに変化している時期で、この研究プロジェクトは既に打ち上げている通信衛星を使って、できるだけ多くの情報を運ぶことのできる通信方式を開発することだった。

私のいたグループでこの研究プロジェクトを受けようということになり先輩と一緒に提案書の作成の仕事にかかった。その一環として以前述べた通信シミュレータの開発があり、これが私自身のとって大変良い勉強にもなった。

幸いにして研究プロジェクトを受注することができ、現在のシステムの問題点を明らかにして改善方法を提案し、最後は試作機を作って納入する、というところまでいった。試作機を作るには多くの時間とお金がかかり、これは実際に製品を開発している事業部に依頼したが、試作に至るまでの段階の方式検討や報告書の作成は私が中心になってやることになった。確か年間数千万円のプロジェクトだったと思うが、自分の仕事が会社の役に立っているという実感を持てた、という意味でも自分にとって大きな自信になったし、営業部、事業部など研究所の外の人との接触もできてきて、自分が一人前のなるには大きなステップだったと思う。

当時の通信衛星は大変高価なものであり、その利用効率を20%も上げることができれば大変な価値があるといわれていた。そこでさまざまな方法を駆使するのだが、高価なこのであるだけに、コストをそれほど意識せずに性能改善を目指せばよかったので研究としてはやりやすい分野だった。

当時国際通信では衛星通信に対抗する技術は海底ケーブルだった。当時の海底ケーブルは銅線でできており、これは敷設費用も高く、伝送速度は遅く、維持費は高いということで衛星通信が有力視されており、実際に通信衛星も次々と打ち上げられていたのだが、光ファイバーが発明されて、海底ケーブルのコストパフォーマンスが10000倍ほど上がり、衛星通信の効率を20%ほどあげるのではとても太刀打ちできなくなった。

衛星通信のほうは技術はかなり成熟しており、効率を2倍に上げる方式も極めて難しい(原理的に無理ではないか)というような状況だったので、国際通信は次第に海底光ケーブルに置き換わっていき、私の提案した方式も実用化されることはなかった。

研究者としてこのまま衛星通信をやっていてよいのか、と悩み始めた時期にも当たる

昔、お気に入りの店(3) 定食屋「多摩」

2009-07-21 09:15:04 | 昔話
私は寮に約5年いて宿河原のアパートに引っ越した。

南武線の宿河原の駅から7分ほど多摩川の方に行ったところに、1K(6畳+台所3畳)のアパートを借りた。家賃は1万9千円だったと思う。小さいながらも庭がありなかなか気に入っていた。

部屋で自炊することは殆ど無く、9割以上外食であった。朝食にトースト程度は焼いていたと思う。

宿河原での気に入った食堂は線路沿いにあった「多摩」という定食屋である。5席ほどのカウンターと8席ほどの畳席で、中年の夫婦二人でやっていた。メニューは肉じゃが、トンカツ、おひたし、シラス下ろし、モツ煮込み、秋刀魚と言った家庭料理が多く、私はビールとあと2-3品注文して、漫画を読みながら食べることが多かった。たいてい1000円前後だった。

ここの店はどれも味付けが大変良かった。常連がかなりいていつも顔を見る人がいたが会話をしたことは無かった。雰囲気も明るく楽しいところであった。私の晩酌の習慣はここに通っていた頃についたように思う。週に2-3回この店に通っていた。時々、娘さんが手伝いに来ていた。私が通っていた7年ほどの間に中学生から高校生、大学と進学したようである。

この頃には仕事も忙しくなってきていて夜遅くまで会社にいることも多かった。「多摩」は11時に閉まるので、それに間に合うように帰っていた記憶がある。

食事を一人で食べながら幸福感に浸るというのはめったにないことだが、この店ではよくそれを感じていたように思う。特に秋刀魚とやり烏賊が美味しかった。

後にはこの店の10倍もする高級レストランにも出入りするようになったが、この店ほど食べることの幸福感は感じなかった。多分、料理評論家が食べ比べれば、高級店のほうがよい味なのだと思うが、私にとってはそういう時は大抵は人と話すことが目的であり、「美味しいな」と感じても心は食べるほうに向かっていなかったからだと思う。

この店も今はもう無い。店をやっていたご夫婦は、今はもう70歳を過ぎているだろうから、引退していて当然である。娘さんが後は継がなかったのだな、と少しさびしく思う

昔、お気に入りの店(2) 読売ランドの手作りパン屋

2009-07-14 09:45:59 | 昔話
寮生活を始めて3年目くらいに、読売ランドの駅から寮へ行く坂の途中、ダイエーの向かいに手作りのパン屋ができた。小さな店で、27,8くらいの女性が一人で切り盛りしていた。

私は朝食は寮で出されていたし,平日は会社で食べ,昼食や休みの日は外食、という生活をしていたのであまりパンを買う必要は無かったのだが、新しい店ができたので試しに菓子パンを買ってみた。

最初はパンの味よりもむしろ店長の女性の客扱いに魅かれた。どこがどうと、具体的に説明しにくいのだが、客がどう言う格好で来ているか,歩きか自転車か,買い物袋を持っているか、などを見ておいて微妙に包み方などを変えてくれる。よく気の付く人だなあと思ったのを記憶している。 店の中にはいつもFEN(英語のラジオ放送)が流れていた。

パンの味はそこそこおいしいと感じていた。 あるとき、出来立てのクロワッサンをその店で買ってきて、まだ暖かいのを食べたときに、パンに対するイメージが変わったように思う。正直、「パンとはこんなにおいしいものとは知らなかった」という感想を持った。それ以後は時々昼食にパンを食べるようになった。

昭和50年代の始めなので手作りのパン屋ができ始めた頃ではないかと思う。その後いろいろな手作りパン屋で買っているが、あの店のクロワッサンを超えるものはなかったように思う。

私は店長さんを気に入っていたが、話をしたことは無く、パンを自分で選んでお金を払い、「ありがとうございました」といつも言われていただけである。ところが、寮を出て数年振りに読売ランドを通りかかったので、件のパン屋に行くと、やはり同じ店長がいて「久しぶりですね。このごろお見かけしませんでしたが、引越しされたのですか?」と声をかけてきた。私を覚えていてくれたのはうれしかった。

この店も今はもうなくなっている

昔、お気に入りの店(1) 喫茶室オレンジ

2009-07-08 09:37:09 | 昔話
私は会社の独身寮に5年間いて、それからはアパート暮らしだった。結婚したのは35歳のときだったので独身時代が長く、いくつか行きつけの店ができた。 その中で3店をこれから紹介しようと思う。ただし、どの店も今は存在しない。

入社して5年ほどは、私は小田急読売ランド駅から読売ランド方向に歩いて(坂を登って)15分ほどのところにある会社の寮に入っていた。最初の2年ほどは6畳ほどの部屋に二人で暮らしていた。

部屋の相棒のH君は実家が埼玉のほうで、土曜、日曜毎に帰っていたが、私は当時実家が大阪にあったこともあって、殆ど帰らなかった。土曜日に溜まっていた洗濯と部屋の片づけを終えると寮から外に出てぶらぶらするのが通例であった。特に最初の一年ほどは殆ど毎日のように土曜,日曜共に出歩いていたように思う。

特に用事も無いのに外に出ることが目的で出歩いたことがかなりあったように記憶している。 その中で良く通ったのが(2週に一度程度)、読売ランド駅前にあった「喫茶室オレンジ」という喫茶店である。

ここで、ホットドッグセットか何かを注文して、置いてある「少年マガジン、少年サンデー、ビッグコミック」などを読んで1時間から1時間半くらいは過ごしていたように思う。どうしてここが気にいったかというと、いくつかの理由がある。

まず、小さな店であまり客がおらず、(客は私一人のことも多かった)静かだったことである。店は料理を作る(喫茶店の料理であるが)マスターと若い女性のウェイトレスが一人で、席は全部で10席ほどであった。

また、これが一番大きい理由だったと思うが、ウェイトレスの感じがとても良かったことである。食べ終わっても漫画を読んでなかなか出て行かない客はあまり好ましくない客だと思うのだが、全くいやな顔をせずに、食べ終わって水を飲みながら漫画を見ているとコップに水のなくなったのを見て「失礼します」といってコップに水を継ぎ足してくれる。これでこちらはまだ出て行かなくても良いと考えて、粘ることに負い目を感じなかったのである。運動の後などは何杯も水を飲んだが、こちらが注文しなくてもコップに無くなるとそれを見て向こうから「失礼します」と言って注いでくれた。

この店には何年も通ってその間にはウェイトレスも変わったが、人が変わっても態度は変わらなかったので、マスターの教育が行き届いていたのであろう。

また、いつもバックグラウンドにカントリー・アンド・ウエスタンの趣味の良い音楽が流れていたのも良かった。ジャズ喫茶のように音楽を売りにしているわけではないので、音は控えめで、特にどう言う演奏家のものを流しているかと言う説明も無かったが、なんとなく聴いていて心地よいものが多かった。この店で「ハンク・ウイリアムズ」と言うカントリーの歌手が大変味のある歌手であることを知った。

今は、喫茶店に入ることはまれになったし時間をつぶすということもなくなった。単身赴任でもすればまたこういうところを探すかもしれない