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ウィトラのつぶやき

コンサルタントのウィトラが日頃感じたことを書いていきます

結婚、長子誕生、課長試験

2010-05-14 22:20:29 | 昔話

1986年から1987年にかけては私の私生活上も大きな変化があった。

私は35歳で結婚した。かなり晩婚のほうである。相手は同じ研究所で
秘書(当時NECでは書記と読んでいた)女性で、組織は別で毎日顔を合わせていたわけではないが、まあ、職場結婚といえるだろう。以前書いたように一緒に山登りに行くようになったのがきっかけである。相手は4歳下なので双方とも晩婚のほうに入ると思う。

翌年、結婚してほぼ1年後に長子が誕生した。結婚は6月だったが妊娠が分かって家内は年末に退職した。女の子が生まれた。結婚した時にアパートも宿川原からあざみ野に引っ越したのだが、結婚した時よりも
子供が生まれたときのほうが生活にははるかに大きなインパクトがあった。生活のパタンがかなり子供中心になったことは否定できない。しかし、赤ちゃんは可愛く、私は生活を楽しんでいた。

その年の終わりには課長試験を受けるように推薦された。当時、富士通の課長試験の様子がテレビで放映され、NECも似たようなものだったので、「大変だね」と色々な人から言われた。しかし、私自身はそれまで知らなかった経理や人事の話を勉強することは新鮮味があって苦にはならなかった。しかし、ある程度理解してしまうと、受験勉強特有の点数を稼ぐために細かいことを覚える作業が入り、これはつまらなかった。

もうひとつ重要だったのは、自分の仕事の将来ビジョンに関する論文を書くことで、これは上司や先輩に何度も直されたのだが、視野を広げる上で役に立ったと思っている。他の人に比べるとかなり勉強量が少なかったようで家内は「落ちると思った」と言っていたが、なんとか合格することができた。

この1-2年は技術的には私が初めてGSMに触れた時期であり、技術的にも、個人的にも大きな転換点になった。


私の登山歴

2010-05-06 09:04:30 | 昔話
登山歴というほどのものでもないが、私は若い頃には山に行くのが好きだった。学生時代には一人用のテントを買ってキャンプ場にテントを張って寝たこともある。北海道の江差のキャンプ場の印象は今でも鮮明に覚えている。学生時代は比叡山、会社に入ってからは、丹沢の山や東北の栗駒山などに登った。

キャンプも登山もいつも単独行だった。山ではテントを張るのは不安で、いつも日帰り登山で、その日のうちに近くの温泉地などに降りられるところに限定して行っていた。食料を担いで重い荷物を持っていくのは嫌だったし、山小屋に泊まるのも、泊まれなかったらどうしようというような心配をして、不安だった。

会社に入社して5年ほど経ってドクターで入ってきた人が、山小屋泊まりの登山に行こうと誘ってくれた。泊まれないことはないし、食事も出るから大丈夫、ということだった。

研究所の中の男女合わせて6人くらいのパーティで近くの丹沢で練習をしてから北アルプスの表銀座と呼ばれるコースで槍ヶ岳に登った。私にとって最初の山小屋の経験は大天井(おてんしょ)ヒュッテだったが、中ではジャズが流れていて食事もまずまず、ホテルのような感じで山小屋に対するイメージが大きく変わった。

景色も素晴らしく、私はすっかり山歩きが好きになった。その後同じようなメンバーで富士山や、南アルプスの北岳に登った。日帰りの登山にも何度か行った。この山登りのメンバーの中に現在の私の妻が含まれていた。

若い頃の十二指腸潰瘍

2010-05-05 08:45:01 | 昔話
入社して2年ほどして私は十二指腸潰瘍にかかった。ストレスが原因だそうである。ソフトの開発(シミュレーション)を始め、大雑把な性格の私は緻密なソフトのデバッグという作業になじめなかったという印象がある。

私は旅行などでも最初から綿密な計画を立てるよりも、とりあえずどこかへ行って、そこで明日はどうしよう、と考えるような対応型が好きである。ソフト開発ではこれまでの自分の物事の進め方を変えて、まず全体を見通してアーキテクチャを考え、かつ具体面では几帳面に進める必要がある。この几帳面が私の苦手だった。知らず知らずのうちにストレスがたまっていたのだろう。親からは「コンピュータにやられたな」と言われた。

仕事の内容にはストレスを感じておらずむしろ面白いと思っていただけに、医者から「ストレスがかからないように」といわれたのは残念だった。手術はしなかったのだが薬を飲み続ける状態が
3
年ほど続いた。しかし、この間に自分は大きく成長したと思う。用心深くなったし、一つ一つ積み上げていく仕事のやり方を覚えた。

今でも思うのだが過度ではないストレスは成長のためには欠かせないのではないかと思う。肉体でいえばストレスをかけると筋肉痛になる。この筋肉痛になる程度のストレスは体を強化するには必要なのだと思う。しかし、やりすぎると肉離れのような大きな問題を起こす。自分の体がどこまで耐えられるかを知るためにもある程度のストレスはかけるべきだと思う。

今でも自分に適度のストレスをかけて、ストレスを楽しめるようにしたいと思っている

若い頃の学会活動

2010-04-13 15:15:30 | 昔話
先日に続いて若い頃の私の学会活動の話である。

学界デビューをして2-3年もすると私は次第に「良く質問する人」として知られるようになってきた。今でもそうかもしれないが、当時の学会は発表者が発表しても何も質問が出ず、座長が助け船のような感じで質問をして、終わり、次の人に移る、というパタンが多かった。

私の職場の先輩はそういう状況に不満を感じていて、もっと問題点を指摘して議論を巻き上げるとそのプロセスで他の人も理解も深まる、という意見だった。自分では「こんな初歩的なことを聞いても良いのか?」と感じるようなことでも、質問をするとたいてい半分くらいの人は分かっていないものだ、とも言っていた。

実際に他の人の発表を聞いていると、質疑の時点で理解がぐっと深まる感じがしたので、できるだけ質問をするようにした。その際に、自分が研究しているテーマだけでなく、関係のないテーマに対しても、疑問に思ったら質問するようにしたので、「目立って質問する人」ということになった。

この行動パタンは自分にとっても非常に役に立った。まず、他の会社の人に知られるようになった。特に当時のNTT(後のドコモ)の研究者と仲良くなれたことは大きかった。日本人だけではなく海外の大学教授などとも親しくなったし、エリクソンの研究者などとも仲良くなった。

ある程度(10年くらい)学会で活動していると「座長をやらないか」という声が学会からかかるようになる。座長は視界のようなものだが、セッション全体を仕切るという意味で、ほぼすべての発表に対して何か質問を用意しておくことが多い。最初は準備していったものだが、しばらくすると、特に下準備をしていなくても、簡単に質問を見つけるようになった。

私が座長のときには「問題点を厳しく指摘する」と評判で、よその会社の上司は渡しが座長だと知ると、入念に発表準備をさせた、という話を聞いたことがある。

今でも日本の学会の会員であるが全く学会には行っていない。1995年頃から始めた「標準化」が学会と似た性格があるが、学会よりも10倍くらい面白い、と感じているからである。

はじめての国際学会

2010-04-07 08:20:37 | 昔話
少し時代が戻るが、今回は研究所にいた頃の学会活動について書こう。

日本の学会へのデビューは電子情報通信学会の全国大会への手書きの原稿だったことは既に書いた。国際学会へのデビューはイタリアのジェノアで行われた衛星通信関係の学会だった。衛星通信の仕事をしていたから留学前の1980年頃だったと思う。この時は、2件投稿して一人で2件発表した。NECからの参加者は私一人だった。

初めての国際学会だったし初めての海外出張だったので大変緊張した。発表する原稿を書いてそれを丸暗記して出かけたものである。しかし、スライドを使って説明をし始めると、ストーリーだけを覚えていて言葉は図を見ながら出てくるようになった。

発表が終わって席に戻ると隣の人が「なかなか良かったよ。でも緊張していたんだろう、最初は声が震えていた」と言われた。2件目の発表は声が震えることもなくできた。

当時の研究所は学会が終わってもすぐ帰国しなくても良く、他の会社を訪問して情報交換してくることを勧めていた。そのアレンジも自分には良い経験だった。

ジェノアのホテルは一泊$18の安いホテルで朝食も付いていなかったが部屋は奇麗で快適だった。朝食は近くのカフェで食べたのだが、クロワッサンとかカプチーノとかをとても美味しく感じたのを覚えている。

学会が終わってからはパリのフランステレコムの研究所、オランダのESA(European Space Agency)の研究所、フィリップスの研究所、フランクフルト郊外のドイツテレコムの研究所を訪問して帰る予定を立てた。ドイツテレコムだけは出発まで返事が来ていなかったが、出発してから断りの返事が来た。

ジェノアからパリまでは夜行列車で移動した。いわゆる寝台列車で面白かったのだが、夜中に車掌が来て「パスポート」といって差し出すと持って行ってしまった。返してくれるか不安だったが、翌朝返してくれた。日本の列車と比べて余裕があると感じたものである。

回った中ではフィリップスが印象的だった。フィリップスでは若い研究者が移動通信のデジタル変調方式Tamed FMという方式を検討しており、これが一つの移動体通信の突破口となるのではないかと感じていたので、私は当時移動通信流行っていなかったのだが、面会に行ったものである。フィリップスは家電メーカーなので消費者重視の感覚があり印象的だった。

フィリップスの本社はオランダのアイントホーフェンという都市にあるのだが実はそこから日本へ帰るフランクフルトまでの移動方法は何も予約していなかった。そこでフィリップスに着いてから「明日フランクフルトに行くのだがどうやって行かば良いか?」と聞いたところ、研究者が「飛行機のチケットを貸せ」といって帰るときにはフランクフルトまでのチケットの予約したものを付けてくれた。お金は取られなかった。当時のヨーロッパ域内での移動は日本からの国際便のチケットがあれば自由に追加できたようである。

フランクフルトに着いたが、ドイツテレコムは断られたので行くところがない。飛行機のチケットは安いエコノミーなので変更はできない。ということで一日フランクフルトの教会などを見て回った。

初めての海外出張にしては色々なことがあり、面白くもあり、有意義だった。

日本のデジタル携帯電話PDC

2010-03-22 11:21:45 | 昔話

ヨーロッパでのGSMの議論に刺激されて日本においてもデジタル携帯電話の議論が加速した。この時期の議論の中心は無線伝送方式と音声符号化だった。

移動通信は後発のサービスだったので割り当てられていた電波の量が少なく、少ない周波数をいかにうまく使うかという周波数有効利用が最大のカギとなる。そのカギとなる技術のひとつが音声符号化である。

音声符号化とは電話の音声をデジタル化した時に圧縮して送る技術であるが、当時64Kbpsであった固定電話の音声を1/10くらいに圧縮する方法が世界中で研究され、技術コンペが行われた。当時はこの研究は他のグループで行われていたので私は直接タッチしていなかったが、ぐんぐん音質が改善するのに驚いた記憶がある。

私が担当していた無線伝送のほうは、あちこちから電波が反yさしてくる環境で、いかにして安定した伝送をするかが鍵だった。高速の伝送をしようとすれば受信のための信号処理回路が複雑になる。伝送速度が遅いと今度は変化に追従するのが、難しくなる。なかなか良い方法は見つからなかった。

結局日本は波形等化という複雑な信号処理を必要としない、低速の伝送方法を選択したのだが、アメリカはほとんど同じ方法を選択したにもかかわらず、波形等化を必須とした。これがアメリカのデジタル携帯電話の普及が遅れた一つの理由だと思っている。

当時私は研究所にいて要素技術を研究しており、標準化の会議には出席していなかった。しかし、さまざまな技術のバランスを考慮して実現可能な最先端技術を求める流れは社内からも、学会からも伝わってきてバランスを重視するという考え方の重要性はひしひしと感じた。そしてそれは私自身の目指す方向と合致していた。


GSMの誕生前: 衝撃の1986年ノルディックセミナー

2010-03-01 01:18:49 | 昔話
移動体通信の研究を始めてから3年ほどして私はストックホルムで開催されたノルディックセミナーという学会に参加した。ここではヨーロッパで検討されていたヨーロッパ統一のデジタル移動通信システムであるGSM方式の具体的な提案があった。

その内容は私にとって衝撃的だった。当時、日本ではアナログ方式の移動体通信は1チャネルあたり25KHzのFM方式から始まって、加入者がどんどん増えるので加入者数を増やすために、一人当たりの周波数を半分の12.5KHz、更に半分の6.25KHzというように減らす方向に動いていた。

そして、我々研究者はそのアナログ信号の中身をデジタル信号で置き換えることを検討していたのだが、ヨーロッパの研究内容はまったく違っていた。

ヨーロッパでは帯域2MHzの高速TDMA、帯域200KHzの中速TDMA、下りTDMA上りFDMAなどまったく概念の異なる8方式が提案されていた。それぞれの方式には長所もあるのだがその長所を引き出すために問題も生じる。その問題をお互いに指摘しあって大議論が起こっていた。

結局GSM方式は2年後にスウェーデンのエリクソンが提案していた中速TDMAに決まるのだが、この方式は200HKzで8加入者を入れるというもので、一人当たり25KHzでアナログのオリジナルの方式と変わらない。

しかし、干渉に強くなっているので同じ周波数を何度も繰り返して使えることで加入者数を増やせる、という間接的効果を狙ったものだった。この発想は私にとっては新鮮だった。

更に、200KHzという当時としては高速の伝送を行うと、受信処理のために複雑な信号処理が必要なことは明らかでそのために消費電力が大幅に増えてしまうことが眼に見えていた。そのような複雑な機能を端末に搭載することは消費電力の関係でとてもできないと思われた。

しかし、ヨーロッパ勢は半導体技術の進歩を信じて採用を決定し、結果としてそのGSM方式が現在世界を席巻している。発想の柔らかさ、技術の進歩の読みといった長期的視野の勝利だったと言える。

私のテニス経験

2010-02-21 07:43:11 | 昔話
私は会社に入ってしばらくしてからテニスを始めた。学生時代からテニスは優雅そうだし女性のミニスカート姿も良いなと思っていたのだが、周りにやる人もいなくきっかけがつかめなかった。

会社に入社して、寮を出て宿川原のアパートに住み始めた時、アパートが多摩川の堤防に近く、すぐ近くの河原に会社のテニスコートがあったので会社のテニス部に入部した。もっとも選手になって試合に出るレベルを目指すつもりはなく、人並みにでできるようになればいといった、軽い気持ちだった。

卓球の経験からストロークは比較的すぐに上達した。ボールが当たったときの手ごたえは全く違うが、手首を固定することを覚えると比較的簡単に感触をつかむことができた。卓球の経験でバックスイングでどちらの方向を狙っているかの予測ができたのでコートカバーは良かった。

その一方で、卓球にはないサーブやスマッシュなどラケットを上から降り下ろす動作はどうにも上達しない。ラケットの長さとボールの高さの感覚がどうにもつかめず、思いきるfるとスポットに当たらない。それなりに練習したのだが結局上達しなかった。

そんなわけで、ストローク中心の守備型のテニスだったが、河原のテニスコートだったのでバウンドするとボールのスピードが落ちる。私にとってはやりやすかった。しかし、都会の中の表面の固いコートは苦手だった。それでも、正式な試合に出るレベルではないが、団地などで好きな人が集まってやるようなときには十分に楽しめるレベルになったと思う。

テニスは、素人が仲間とやるときはほとんどがダブルスである。ダブルスだと自分が決めなくてもパートナーが決めてくれたりするので、楽しむことができる。卓球よりも、レベル差のある人同士でも楽しむことができるスポーツで、運動量も結構多い。メジャーなスポーツになるのももっともだという気がする。

ここ数年、やっていないが、機会があればまたやりたいと思う。

私のスキー歴

2010-02-04 09:40:56 | 昔話
ここ10年くらいは行っていないが、私は若い頃には結構スキーに行っていた。

小学校の頃は体育でスキーがあったのだが、リフトもない近くの山で滑るのでスキーは好きではなかった。しかし、子供のころに覚えたものは体に染み付くもので、大学生になって友人と行き始めると、比較的短期間で思い出した。

初めてスキー場に行ったのは、大糸線沿線の青木湖スキー場というところだった。最初の年は一番上からすべるときは恐怖感を感じたものだが、2年目に同じところに行くと、緩やかなところで「なんで去年はこんなところを怖いと思ったのだろう」と感じたものである。

子供のころに覚えたスキーはA地点からB地点に安全に移動することが目的なので連続ターンなどはしない。曲がるときは止まるために曲がることがほとんどである。それでゲレンデでパラレルなどをやるのはなかなかできるようにならなかったが、その割には急斜面に平気で行っていた。

やはり、子供の頃の経験からか他の人に比べて登りや歩くことが苦にならなかった。特に春の日差しが当たるときなどに汗をかきかき歩くのは好きだった。野沢のスキー場の歩くコースで「ランナーズ・ハイ」を初めて経験したのも歩くことが好きだからだろうと思う。

こういう私なので山スキーのような誰も通っていない新雪の上を滑るのは大好きである。しかし、危険が伴うのでなかなかそういう所へは行けない。これまでにたっぷり新雪の上を滑ったのは2度だけである。

一度は留学中に、MITに留学していた人と一緒にカナダのバンフにスキーに行ったときである。このときにヘリスキーというのを初めて経験した。7-8人の客にガイドがついてヘリコプターが山のてっぺんに降りる。そこからガイドについて下って行くのである。下に着いたらまたヘリで帰る。上のほうは傾斜が急で大自然を楽しむというより、どうやって降りるか、という感じだが、ある程度降りてくると、誰も滑っていないところを滑って森の中まで来るのは何とも気持がよい。

もう一度は山スキーをやる友人と米沢の天元台スキー場から山スキーのコースに行った。私は山スキーを持っていなかったのだが、一緒に行った人が山スキーを貸してくれた。リフトの一番上からさらに1時間ほど登って、尾根伝いじしばらく行って、3つほど先の駅の近くまで降りるコースである。天気も良く、自然の中を滑って誰もいない雪の広場ででお湯を沸かしたりして弁当を食べてコーヒーを飲むのは最高の気分である。

今はもうスキーに行かなくなって久しいが書いているとまた行きたくなってきた

移動体通信の黎明期

2010-01-21 17:16:24 | 昔話
私が留学から帰国して移動通信の研究を始めた1983年ころは移動体通信の始まったばかりの頃で、日本ではNTTが自動車電話サービスを開始したばかりだった。

当時の端末はまだ大きく、重くて消費電力も大きく、自動車のトランクに入れるようなものだった。自動車電話の付いている車は高級車であり、自動車電話がないのに飾りのアンテナを車につけることが流行ったりしたものだった。

そんな時期に、学会ではアメリカのモトローラ社は「我々は一人一台電話機を持てるようなシステム構築を目指す」と宣言して、私にとってはずいぶん印象的だった。しかし瞬く間にその世界は実現されて端末の大きさも急速に小さくなっていった。

私が移動体通信の分野に入って行ったときには既に最初のシステムは動き始めていたので、技術の基本は出来上がっていた。当時の技術課題は後発サービスであった移動体通信には周波数が十分に割り当てられていなかったことがあり、与えられた周波数をいかにうまく使って多くに人にサービスを提供するか、という点であった。

この周波数の有効利用を実現しつつ、当時通信の世界で起こっていたデジタル化をどうやって実現するかが大きな研究課題だった。当時のシステムはアナログFM方式であったのだが、技術の流れと合わせてデジタル化は世界の研究者の課題だった。

移動体通信の世界に入って私がまず感じたのは、非常にシンプルな技術が使われている、ということだった。それまで私は衛星通信やマイクロ波通信の研究をやっていたのだが、これらの分野では高度な理論を駆使したデジタル技術が使われており、わずかな改善のために激しい競争がなされていた。

これに対して移動体通信では使われている技術は非常にシンプルで、「まず動くものを作る」という点に力点が置かれていた。 これは、電池で動作させる、という端末の制約と、動き回って使う、という使い方の特性から従来の技術では使えないものが多かったからである。特に当時使われ始めていたプロセッサは消費電力が大きく、これが大きな制約となっていた。

しかし、そのような制約が大きくて高度な技術が使えない、という環境は研究者にとっては研究の種がいっぱいあるということであり、アイデアも出しやすい状況である。この時期あたりから私は特許を量産するようになっていった。