備忘録として

タイトルのまま

留魂録

2015-05-03 12:42:13 | 近代史

NHK大河ドラマ『花燃ゆ』吉田松陰の最期は心に響いた。

親思ふ こころにまさる親こころ けふの音づれ 何ときくらん 

伝馬町牢に幽閉された松陰が、死罪と決まったときに家族に宛てた『永訣の書』の中の歌で、子が先に逝くことを聞く親の悲しみを思いやり自責と謝罪の気持ちが伝わってくる。しかし、同じく獄中で同志に宛てた遺書『留魂録』では、自分が死んでも志を継いでくれることを願っている。死に臨んでも、猛々しい志を貫く”公”と、家族を思いやる優しい”私”を明白にわけていた人間松陰の生き方に深く共感できる。『留魂録』は松陰.comなどネットで全文を読むことができる。

身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂

十月念五日  二十一回猛士

『留魂録』はこの有名な辞世の句で始まる。旧暦安政6年10月25日(1859年11月21日)に書き始める。二十一回猛士は松陰が好んで使った号で、21回猛を奮う意味がある。松陰は最初に野山獄から出たとき、脱藩、藩主に意見書、密航と3回猛を奮ったので、あと18回だと兄の梅太郎に告げる。『留魂録』は以下につづく。

第一章 

「趙貫高を希ひ、屈平を仰ぐ」、松陰は、自分が漢の高祖・劉邦の圧力にも屈せず趙の君主に忠実であろうとして死んだ貫高や国の施政を批判して死んだ楚の屈平(屈原)の生き方を手本にしていたことは皆が知っていたとおりであると書く。貫高は趙王・張耳の息子・趙傲に仕えた大臣で『史記列伝 張耳・陳余列伝 第29』に出てくる。秦末の動乱時、張耳は漢の高祖に助力したので趙王となり、息子の趙傲は高祖の娘婿となっていた。高祖が趙を訪れたとき、乱暴で傲慢な態度をとった。主君・趙傲が侮辱されたことを恨んだ貫高は高祖を殺害する計画を立てた。しかし、密謀は露見し貫高は捕えられ拷問を受ける。主君の趙傲もその計画に加担したことを疑われたが、貫高は自分が計画したもので趙傲は関与していないことを訴えた。貫高が高潔な人物であることがわかり、趙傲の嫌疑は晴れた。同時に貫高も赦免されることになったが、貫高は「主君殺害の嫌疑をうけたものが、何の面目があって再び主君に仕えられようか」と言って自害する。屈原は楚の主君に忠を持って仕え、国を思うが故に王を諌言したが聞き入られず失脚し悲嘆のあまり汨羅に身を投げる。至誠をもってすれば幕府の役人をも動かせると思っていたが、自分の徳が至らず至誠が通じなかったことを悔いる。

第二章 取り調べの様子

第三章 

『新唐書』に出てくる唐の段秀実は人並み外れた正義感の持ち主で、反乱者である朱(しゅせい)に会いに行くが説得が聞き入れられなかったため、朱の額を笏で叩き割りその場で殺された。文天祥の『正気の歌』の第2段にある「或いは賊を撃つ笏と為り、反逆者の頭は破裂する」は、この段秀実のことを述べたものである。第1章と同様、松陰が中国史の人物の中でも特に秋霜烈日の義人を尊崇していたことがわかる。秋霜烈日は日本の検察官バッジのデザインとして有名。「要は内に省みてやましからざるなり」、すなわち、自分をかえりみてやましいことがないことが肝要で、人の価値は死んでから評価される。

第四章 取り調べの様子

第五章 自分一人が罪をかぶるので、心して今後の行動をとるようにと、同志に語りかける。

第六章 

取り調べ供述書に、自分が述べていない事実と違うことが書かれているが、「成仁の一死、区々一言の特質に非ず。今日義卿奸権の為めに死す。天地神明照鑑上にあり、何惜しむことかあらん」、すなわち、仁を成すのに言葉はどうでもよい。今日、奸権によって殺されるが、(自分の誠志は)天地神明が明らかにしてくれる(お天道さまが知っている)ので、何を惜しむことがあろうか。

第七章 

「継盛唯 當甘市戮 倉公寧 復望生還」、継盛と倉公という中国史上の人物に触れ、自分は元より死を覚悟していたと述べる。明の楊継盛は権力者を諌言したのち死を甘んじて受けた。手元の『史記列伝 扁鵠倉公列伝 第45』はなぜか省略され、倉公の事績がわからなかったが、ネット情報によると倉公・淳于意は漢初の医者で、罪を着て投獄されたとき生きて帰ることを望まなかったという。松陰は当初、生死については考えていなかったが、取り調べの過程で一度は死を覚悟し、次に、「天下の形勢を考察し、神国のこと猶為すべきものあるを悟り、初めて生を幸とするの念勃々たり」、すなわち、天下の形勢を見ると、まだ自分がすべきことがあることがわかり、生きたいと思うようになった。しかし、今は幕府が自分を死罪にしたがっていることがわかり、生を願う心はなくなった。これも平生学問をしていたおかげである。

第八章 

人間の人生には四季があり、「春種まきし、夏苗うえし、秋刈り、冬蔵する」。10歳には10歳の、20歳には20歳の、30歳には30歳の、50歳には50歳の、100歳には100歳の四季がある。一事も成すことなく死ねば悔いが残るが、自分は30歳でもすでに四季が備わり、今まさに秀実(花が咲き実り)のときを迎えている。私の志を継ぐ人があるなら、自分の蒔いた種が絶えることはない。

第九章 同志に伝馬町の牢屋にいた水戸藩士や医者の山口某と交わりをもつとともに、尊皇攘夷で大功を立てるようにと言い残す。

第十章 尊皇攘夷の思想を継承するために京に大学をつくれ

第十一章 京都で事を起こすときは小林民部と連絡をとれ

第十二章 獄中で会った高松藩士長谷川宗右衛門の言葉「むしろ玉となりて砕くるとも、瓦となりて全かるなかれ」を意に感じる。

第十三章 天下のことを成し遂げるには天下有志の士と志を通じなければならない。一度敗れたぐらいで挫折するな。「切に嘱す、切に嘱す」と松陰は繰り返し頼んでいる。

第十四章 橋本佐内は26歳で死罪になった。獄中で資治通観を読み注を作り、漢紀を読み終わった。佐内と議論したかった。

第十五章 清狂(僧月照)の護国論と吟稿、口羽(毛利藩の重臣)の詩稿を水戸藩士鮎沢に贈ることを約束したので私の代わりに誰か約束を果たしてくれ

第十六章 

同志諸友のうち、小田村(伊之助)、中谷、久保、久坂(玄瑞)、子遠(入江杉蔵)とその兄弟(野村和作)のことは、鮎沢、堀江、長谷川、小林、勝野らに話しておいた。(松下)村塾のこと、須佐、阿月のことも告げておいた。飯田(正伯)、尾寺(新之丞)、高杉(晋作)と(伊藤)利輔のことも告げて置いた。

かきつけ終わりて後

心なることの種々かき置きぬ思いのこせることなかりけり
呼びだしの声まつ外に今の世に待つべき事のなかりけるかな
討たれたる吾れをあはれと見ん人は君を崇めて夷払へよ
愚かなる吾れをも友とめづ人はわがとも友どもとめでよ人々
七たびも生きかへりつつ夷をぞ攘はんこころ吾れ忘れめや

十月二十六日黄昏書す  二十一回猛士

松陰は『留魂録』を二日がかりで書き上げ、斬首されたのはその翌日二十七日のことだった。 松陰は同じものを2部用意し、一通は死後同志の飯田正伯から萩に伝わる。別の一通は牢名主の沼崎吉五郎に託す。こちらは、沼崎がその後島流しとなり明治7年に赦免後、明治9年に神奈川県令になっていた野村靖(和作)に手渡された。原本は萩の松陰神社に残されているという。

史記、漢書、唐書などの中国の史書は儒家、老荘、国学などの書と並び幕末の人々の必読書で、「共有された知」だったことがわかる。


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