12月初めに妻と二人で出雲大社へ行った。
出雲大社は大国主命を祀り縁結びの御利益があることで有名である。梅原猛によると出雲大社は大国主命の怨霊を封じ込めていて、出雲の地は大和の神々を流し幽閉する流竄(るざん)の地なのだそうである。毎年10月は八百万の神々が出雲に参集するので全国的に神無月となるが、出雲では逆に神在月と呼ばれる。
出雲大社には大学1年の夏の一人旅と1989年11月末に家族で訪れていて今回が三度目である。学生の時は徳島から岡山・山口を通り萩に出て鳥取に向かう途中で立ち寄った。国鉄の周遊券を使い、1990年に廃線になった国鉄大社線を通り同じく廃駅になった大社駅(下写真:今の大社廃駅)で降り大きな松並木が続く参道を歩いて出雲大社へ行った。
1989年の時は2,5,8歳の子供3人と妻をカローラに乗せて広島から大社を訪れ、日御碕の国民宿舎に泊まり帰りは三瓶山に立ち寄った。日御碕の国民宿舎も今はもうない。
古文書に、古代出雲大社の高さは大昔32丈(96m)、鎌倉時代は16丈(48m、15階建てのビルに相当)あったという記録が残っているそうだが、現在は24mである。2002年に境内で直径1.3mの柱を3本束ねた柱遺構が発見され、平安から鎌倉時代は16丈の高さであったことは確実となった。さらに高い96mは木造建築技術からは不可能という試算もあるということだが、アメリカにあるジャイアントセコイアの樹高は80mを超えているので建設不可能ということはないはずだ。史書にある鄭和の長さ125m幅50mの船が、100年後のコロンブスのサンタマリア号の長さ18mと比べあまりに大きいので白髪三千丈のような中国流の誇大記載という意見が歴史家の間で支配的であったのが、近年11mの舵軸が発見されて史書の記述が正確であったことが確認(船のサイズを矮小化する意見もまだある)されたように、出雲大社でも今後もっと古い遺構が発見されるかもしれないので、現在の常識で過去を判断するのは辞めたほうがいい---と、梅原猛も言っている。
梅原猛の”赤人の諦観”を読んだばかりだが、内容の理解が今一つだったのは別著”水底の歌”を読んでいないからだと思う。その柿本人麻呂が死んだ石見の海は出雲の西である。柿本神社は最西端の益田にある。明石の柿本神社には1987年神戸で明石海峡大橋の仕事をしていた時に行った。
天離る 夷の長通ゆ 恋ひ来れば 明石の門より 大和島見ゆ
梅原によると、これは人麻呂が流罪を解かれ都に帰ってくるときに詠んだ歌としたほうがより理解が深まるそうだ。ついでに人麻呂の歌3首。
御津の崎波を恐(かしこ)み隠江(こもりえ)の船寄せかねつ野島の崎に
玉藻刈る敏馬(みぬめ)を過ぎ夏草の野島の崎に舟近づきぬ
淡路の野島の崎の浜風に妹が結べる紐吹き返す
ここに出てくる”野島”は淡路島北端近くの地名だが、万葉集よりも1995年の阪神・淡路大震災のときに地表が大きく横ずれし、その断層の名前として有名になった。野島断層はこの地から北東に延び、明石海峡大橋の真ん中を通って神戸に達している。断層は地震時に1~2m横ずれを起こし、そのとき建設中だった明石海峡大橋は主塔間が1m程拡がってしまった。構造物に損傷は発生しなかったので図らずもこの地震によって橋の耐震性能は万全であることが証明された。また、世界最長の主塔間隔1990mに対し1mのずれは、わずかで問題にはならない。
1987年、明石海峡大橋建設前の最後の地質調査のため約半年神戸垂水にいた。神戸側の主塔(2P)は明石層という厚い砂礫層に、淡路側主塔(3P)は神戸層という軟らかい泥岩に基礎を置く。同年、7月19日に調査報告書を書きあげ、翌20日駆け付けた仙台で長男が生まれた。明石にちなんだ名前をつけようかとも考えたが結局中国故事からの名前とした。