備忘録として

タイトルのまま

写楽と水上飛行機

2017-08-26 15:41:35 | 徳島

 お盆は仙台ののち徳島に行った。もちろん車ではなく飛行機の旅だ。実家で読んだ徳島新聞記事の写楽と空港で再会した吉野川の水上飛行機について書いておきたい。

『徳島の写楽』

 下は鳴門の渦潮と写楽についての8月17日付徳島新聞記事である。記事にある”きのうの本紙”も読んだ。写楽は阿波の能役者・斎藤十郎兵衛を当然のこととして記事は書かれている。江戸時代の考証家・斎藤月岑が補記した『増補浮世絵類考』の短い記事が根拠となっていて、徳島の寺には怪しい写楽の墓もある。写楽について伝えられる人が少ないとし、最後、”調べても調べても分からない写楽の魅力を、つい語りたくなる。”と記事を結んでいるので、筆者は相当の写楽通であることがわかる。

 写楽についてはこのブログで様々な説について書き、当初は写楽=阿波の能役者・斎藤十郎兵衛で決まりと思っていたが、今は写楽北斎説を支持している。自分も田中英道の『写楽は北斎である』を読んでなければ、徳島県人として徳新記事に何の疑問も持たなかっただろう。今は、田中英道以上の証拠を二人の作品の中に見つけられたらと思っている。その目的のため、記事が紹介する『写楽・歌麿とその時代』という展覧会に行きたかったが、徳島滞在時間が短く断念した。

 

『吉野川の水上飛行機』

 東京へ戻る日、徳島阿波踊り空港の待合室で下の写真と水上飛行機についての記事を見つけた。幼いころ、そこで弟が溺れかけたことがあるのでその写真に出会った感慨はひとしおだった。そのとき、自分はおそらく5,6歳、一つ違いの弟は4,5歳だったので、昭和35,6年のことになる。その日、オートバイ(バイク)を運転する父親の背に弟と二人でしがみつき、吉野川橋近くの水上飛行機の発着場まで連れてこられた。そのころ親父が熱中していた釣りのためである。自分と弟は釣りよりも遊びに夢中で、浮き桟橋でできた発着場と岸を結ぶ橋で遊んでいるうちに弟が川に落ちたのである。橋の欄干の外を渡り始めた私を真似て渡るうちに、弟は足を踏み外したか、手すりをつかみ損ねたかして川に落ちたのだ。釣りに熱中していた親父を大声で呼ぶと、親父は駆け寄ってきて着の身着のまま川に飛び込み弟を救い出した。親父が後に語ったところでは、親父が駆け付けたとき弟は頭まで水没し流されていたということだった。弟が水中に沈み流される光景は記憶の中で鮮明なのだが、それが実際に見た光景だったのか、親父が語ったことが心象風景として脳裏に焼き付けられたのかは判然としない。

 写真とともに掲載された記事によると、大阪と徳島を結ぶ飛行便がこの場所に開港したのは、昭和32年6月20日で、当初は5人乗りの水上飛行機が就航し、のち12人乗りの水陸両用飛行機に代わっている。写真の飛行機は12人乗りのように見える。昭和38年にはコンベア社CV-240型40人乗り飛行機が就航しているので、そのころ水上飛行機は廃止されたのだと思う。大阪徳島間で利用したYS-11が初めて導入されたのは昭和40年4月1日のことである。

 写真の発着場背後は吉野川橋で、今も当時のままである。当時、徳島市内から吉野川北岸に車で行くには、対向1車線のこの橋を渡るしかなかった。今は下流にふたつ大きな橋が架かっている。

吉野川南岸の水上飛行機発着場(地図上矢印)、背後は吉野川橋


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