以下文は、The Man Who Saved the World、赤いスイッチと世界を救った人間、ウィキペディア等々を参考にしています。
昨今は、日本でも周辺国の核兵器の厳しい脅威を受けていますが、世界を見渡した場合、核兵器保有国は国家としての力は極めて大きいと思います。大国に翻弄(ほんろう)されない独立国家を維持するには核兵器保有しかないと言う方も多いようです。この考えは現在の世界を見た場合、事実だと思います。
有名な毛沢東の言葉・・・大国に翻弄されない国になるためには、どんなに貧しくても、如何なる理由があろうとも核兵器だけは開発、保有しよう。
世界には米ソ冷戦が終わった今も、ロシア・7010発、アメリカ・6818発、フランス・300発、中国・260発、イギリス・215発、パキスタン・140発、インド・110発、イスラエル・80発、北朝鮮・8発(2017年・世界の軍備管理をするArms Control Association資料)、15000発の核兵器が存在しています。世界の現実は、これらの核兵器保有国は自国の核兵器を手放そうとはしませんし、自国も保有したいと言う国は後が絶ちません。
一触即発の米ソ冷戦時代、1人の旧ソ連軍人(中佐)・スタニスラフ・ペトロフ氏の判断により、核戦争即発の危機が取り除かれたと言われています。
この事件は、ソ連防空軍ミサイル防衛部隊の元司令官ユーリー・ヴォーチンツェフ大将の回顧録が1998年に出版され、初めて公になりました。以来、各種メディアで採り上げられ、ペトロフ中佐の行動は広く知られるようになりました。
2017・9月18日、米メディア、ワシントン・ポストは東西冷戦下の1983年に核戦争の勃発を防いだとされる旧ソ連軍人が今年5月、ロシアの首都モスクワ近郊、フリャジノの町で退役生活(年金額200米ドル、22000円/月)を送っていましたが死去していたと伝えました。この旧ソ連軍人(中佐)・スタニスラフ・ペトロフ氏は77才でした。
2014年、ペトロフ氏の偉業を讃えようとドキュメンタリー映画・The Man Who Saved the World(英語)デンマークで製作されています。
この映画は、1983年9月26日にソビエト連邦の戦略ロケット軍・ミサイル、OKO早期警戒システムが誤作動してソビエトへのミサイル攻撃を告げました。その時、当直将校だったスタニスラフ・ペトロフ中佐はその警報を、システムの誤作動であると判断して危機を回避しました・・・それらの一部始終と後日談を描くドキュメンタリー作品です。英語ですが、ユーチューブでも見れます。
複数の情報源によると、この決断はアメリカ合衆国に対する偶発的な報復核攻撃を未然に防ぐ上で決定的な役割を果たしたと言われています。
監視衛星の警報システムに対する調査により、システムは確かに誤動作していたことがその判明しました。これらの行為により核戦争を未然に防ぎ、世界を救った男と呼ばれています。
彼がこの警報を上層部に伝達したかどうか、またその決断が核戦争を回避する上で厳密にいかなる役割を果たしたのかは依然諸説あるとも言われています。彼の判断は処罰される可能性がありましたが、己を信じた決断により、破局を未然に防いだことは、ソ連のミサイル警報システムの致命的な欠陥を暴露してしまいソ連軍上層部を深く狼狽させたと言われています。
この報復として、彼は信頼できない将校との烙印を押され、軍歴を損なわれました。これらの事実は、ソ連の軍事機密と外交政策の関係上、ペトロフ氏の行動は1998年まで秘密とされていました。この事件は冷戦時代に戦略核兵器を扱う軍によってなされたいくつかの際どい判断の1つであると言われています。それらはしばしば最後の瞬間に、指揮系統から遠く離れた担当責任者によって下されています。
事件は米ソの外交関係が非常に悪化している時期に発生しました。先立つこと僅か3週間前、ソ連軍がソ連領空を侵犯した大韓航空007便を撃墜し、乗員乗客269名全員が死亡するという事件が起きました。多数の米国人も死亡、中には下院議員のラリー・マクドナルド氏も含まれていました。
当時、米国とその同盟国は軍事演習、エイブル・アーチャー83(第3次世界戦争を予想した机上演習)を実施している最中であり、これが米ソ間の緊張を著しく高めていました。KGBは西側に配置していた活動員に緊急通信を送り、核戦争の勃発を想定して準備するよう警告していたと言われています。
スタニスラフ・ペトロフ氏は戦略ロケット軍の中佐であり、1983年9月26日、モスクワはセルプコフ-15・バンカーの当直将校でした。
ペトロフ中佐の担当任務には、核攻撃に対する人工衛星による早期警戒網を監視し、ソ連への核ミサイル攻撃を認めた場合これを上官に通報することが含まれていました。
そのような攻撃を受けた場合のソ連の対応は相互確証破壊戦略(核先制攻撃を受けたとしても,残存する戦略攻撃力などにより、ロシアに対する損害を局限するという戦略等構想)に基づいており、即時反応による米国への核攻撃を行うこととされていました。
00時40分、バンカーのコンピュータは米国からソ連に向けて飛来する1発のミサイルを識別しました。ペトロフ中佐はこれをコンピュータのエラーだと考えました。何故なら、理論上、米国からの先制核攻撃は、何千発とは言わずとも何百発ものミサイルの同時発射によるソ連側反撃力の殲滅を含むはずだからです。人工衛星システムの信頼性にも以前から疑問がありました。ペトロフ中佐はこれを誤警報として退けましたが、コンピュータによる検知が誤りで米国はミサイルを発射していないと結論した後で、上官に通報したか、否かについては諸説があると言われています。
この後、コンピュータは空中にあるミサイルをさらに4発(1発目と合わせて計5発)識別し、いずれもソ連に向けて飛来していました。再びペトロフ中佐はコンピュータシステムの誤動作と断定しましたが、彼の判断を裏付ける情報源は実は何一つありませんでした。
ソ連のレーダーには地平線の向こうに隠れたミサイルを探知する能力はなかったので、それらが脅威を探知するまで待ったとすると、ソ連が事態に対処できる余裕は僅か数分間に限られてしまいます。もしペトロフ中佐が誤って本物の攻撃を誤報と考えたのだとしたら、ソ連は何発かの核ミサイルに直撃されていたでしょう。
米国のミサイルが飛来中だと通報していたならば、上層部は敵に対する破滅的な攻撃を発動し、対応して米国からの報復核攻撃を招いていたかも知れません。
ペトロフ中佐は自身の直観を信じ、システムの表示は誤警報であると判断しました。彼の直観は後に正しかったことが明らかになりました。飛来してくるミサイルなどは存在せず、コンピュータの探知システムは誤動作していました。
後日、高高度の雲に掛かった日光が監視衛星のモルニヤ軌道と一列に並ぶというまれな条件が原因だったことが判明しました。以後、このエラーは追加配備された静止衛星との照合によって回避されるようになりました。
ペトロフ中佐の重大な決断は、次のような事柄を根拠にしていたと言われています。
1 米国の攻撃があるとすれば、それは総攻撃になるはずだと告げられていたこと。
2 5発のミサイルというのは先制としては非論理的に思われた。発射検知システムはまだ新しく、彼から見て未だ完全には信頼するに足りなかったこと。
3 地上レーダーはその後何分間かが経過しても何ら追加証拠を拾わなかったこと。
あわや核惨事に至るところをコンピュータシステムの警告を無視して防いだにもかかわらず、ペトロフ中佐は彼が核の脅威に対処したやり方を巡って抗命と軍規違反の咎で告発されました。
以後、彼は上層部から厳しい審問にさらされ、結果として信頼出来ない将校との評価を受けました。ペトロフ中佐の司令官らは事件後の審理で彼を非難し、事件の責任を負わせました。
ペトロフ中佐の行動はソ連の軍事機構の欠陥を暴露し、上層部をまずい立場に立たせました。
軍務での書類上のミスを口実に懲戒処分を受け、前途洋洋としていた彼の軍歴は恒久的に損なわれました。彼は重要度の低い部署に左遷、やがて早期退役して神経衰弱に陥ってしまいました。
2004年5月21日、 サンフランシスコに本拠を置く平和市民協会は、ペトロフ氏が世界的な破滅を防ぐ上で果たした役割を称え、世界市民賞と副賞のトロフィー、賞金1000米ドル、110000円を贈呈しました。
2006年1月には、ペトロフ氏はアメリカ合衆国を訪問、ニューヨーク市における国際連合の会合で表彰されました。
その際、平和市民協会は改めて2つ目の特別世界市民賞を彼に贈りました。
翌日、ペトロフ氏はニューヨークにあるCBSの社屋で米国人ジャーナリストウォルター・クロンカイトによる取材に応じました。
このインタビュー内容は、ペトロフ氏の米国旅行におけるハイライトの様子と共にドキュメンタリー映画、「赤いスイッチと世界を救った人間」に収録されています。
2013年2月17日には、紛争や暴力を停止させた人物を表彰する国際ドレスデン賞を授与されました。
ニューヨークの国連でペトロフ氏が表彰された同日、ロシア駐米大使館はプレスリリースを発表し次のように反論しました。
1個人が核戦争を起こしたり防いだりするのは無理で、特に核兵器を用いるという決断がただ1つの情報源やシステムに依存して下されるような事態は、米国であれソ連(ロシア)であれ起こり得ず想定もできない。そのためには複数のシステムによる確認を要する。例えば地上レーダー、早期警戒衛星、諜報報告等々
冷戦に関する評論家の中には、スタニスラフ・ペトロフ氏が関わったようなミサイル攻撃警報のケースでもこのような規定が厳密に遵守されたか疑問を呈する向きもあります。
1933年当時のソ連首脳部の心理状態と、同じく当時の緊張を高めるばかりの諜報報告のために、ソ連首脳部は米国からの核ミサイルによる奇襲攻撃が現実になるかも知れないと深刻に懸念しているように見えます。
冷戦時代の核戦略に関する専門家で現在ワシントンDCにある、World Security Instituteの代表を務めるブルース・ブレア氏は、次のように述べている。
米ソ関係は、極めて悪化しており、システムとしてのソ連全体、つまり単にクレムリンやアンドロポフやKGBというのではなく、システム全体が攻撃を予期し迅速に反撃する態勢に移行していた。それは一触即発の警戒態勢でした。非常に神経質なあまり誤りや事故を起こしやすい状況でした。ペトロフ中佐が当直だった際に生じた誤警報は、米ソ関係上これ以上ないほど最悪のタイミングで起きました。
全米視聴インタビューでブレアが述べたところによると、ロシア人から見ると、米国政府は先制攻撃を準備しており、また実際にそれを命令し得る大統領によって率いられていました。ペトロフ中佐の事件は、我々が偶発的核戦争に最も近づいた瞬間だと思います。
KGBの元対外防諜責任者で当時のソ連最高指導者ユーリ・アンドロポフをよく知っていたオレグ・カルーギン氏は、アンドロポフの米国指導者に対する不信は深刻だったと述べています。もしペトロフ中佐が衛星の警報を本物と宣言していたら、誤った通報でもソ連指導部を好戦論に追いやったことは考えられます。カルーギン氏によると、危険はソ連指導部の考え方にあった。米国は攻撃するかもしれないから、いっそ我々が先制するべきだ・・・
ペトロフ氏自身が、それらはその日の任務で自分を英雄とは思っていないと述べています。
ドキュメンタリー映像「The Red Button and the Man Who Saved the World」収録のインタビューでペトロフ氏曰く、起きたことは全て私にとってどうということはなかった、それが私の仕事でした。
私は単に自分の仕事をしていただけで、たまたま私がその時そこにいるべき人間だったまでです。当時10年連れ添っていた妻はそれについて何も知りませんでした・・・で、あなたは何をしたの?と彼女は聞きました。私は何もしなかったよ。