極東アジアの真実 Truth in Far East Asia

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隣国で最も嫌われる日本人

2019-09-14 13:15:03 | 日韓

以下文は豊臣秀吉の朝鮮出兵従軍記者の見聞録(近世日本国民史)、天正少年使節団記、北國新聞(2002年7月9日)、ウィキペデア、ピクシブ辞典等々を主に参考としています。一部、可笑しな解釈文がるかも知れません。素人が書いたまとまりの無い文となってしまいましたので雑記とします。

 

韓国人が最も嫌いな日本人の一人は、16世紀に朝鮮へ出兵した豊臣秀吉と言われています。2014年7月30日公開の豊臣秀吉軍を海戦で打ち破った民族の英雄・李舜臣を描く映画・鳴梁(ミョンリャン)が大ヒットしています。

 

朝鮮出兵参加大名

肥前(佐賀県)唐津に前線基地として名護屋城を築城、宇喜多秀家(総大将)、小西行長、宗義智、松浦鎮信、有馬晴信、加藤清正、鍋島直茂、黒田長政、島津義弘、福島正則、長宗我部元親、小早川隆景、立花宗茂、安国寺恵瓊、毛利輝元、細川忠興、九鬼嘉隆、藤堂高虎、石田三成、大谷吉継、豊臣秀勝など名立たる武将が参戦しています。総兵員158000人(現在名護屋城跡は史跡となり、県立名護屋城博物館も併設等整備されています。)

韓国の歴史教科書は、豊臣秀吉の朝鮮出兵に関しては徹底的に悪事を記しているといも言われていますが、元寇襲来・・・高麗が元をそそのかした結果、元寇の日本進攻となった経緯、元寇・高麗軍の九州北部での残虐行為は記していないとも言われています。これらの過去の日本への加害は歴史から消し去り、自分達の被害だけを強調した歴史教育を行っていると言われています。昨今の日韓問題を機に豊臣秀吉に対する韓国の論に対しても、私達は自分なりの正しい対論をユーチューブ等々でも発信すべきだと思います。可笑しな相手にとって一番恐れることは、正しい論、孫子の兵法で反論された場合です!今、日韓は激変しようとしていると思います。

 

豊臣秀吉(安土・桃山時代の武将・1537年~1598年・61歳没)と言うと、戦後の歪曲された朝鮮出兵論が持ち出され、韓国では悪の代表みたいに言われ、日本人の中にも悪人と思う方もいますが豊臣秀吉はキリスト教布教の裏に隠された真実、本質、人身売買等の事実を知っており、これらに対し諸策を行っています。豊臣秀吉は当時の時代に己を信じ、日本・日本人を守り抜いた名武将と言えそうです。

豊臣秀吉の朝鮮出兵は、当時のアジア情勢が大きく影響しており、内外の事情を細かく日本側が理解していたからこそ、関東以北等の大名達も秀吉の朝鮮出兵に自ら協力しています。この時代に世界の強国スペイン等に征服されていなかった国はアジアでは明と日本等のみで、朝鮮は歴史的にもシナの属国で日本統治・日本敗戦以降始めて国の形が出来たようです。

スペインの伝道地占領策は、まず宣教師を派遣、キリシタンが増えると次は軍隊を送り、信者に内応(見方を裏切ってひそかに敵と通じさせること、内通)させ、その伝道地国土を征服、世界中の多くの領土を難なく占領しています。

文禄5年(1596年)スペインの貨物船、サン・フェリーペ号が遭難、土佐の浦戸に漂着、救助した船員達に対し、秀吉の五奉行の一人である増田長盛(豊臣秀吉に仕えた武将で甲賀忍者でもあり、現在の諜報活動等により内外の情報を得ていたとも言われています。)が取り調べた結果、スペインの対日策等々、驚くべき事実を掴んでいます。

これらの事実等が朝鮮出兵(最終目的は明を制すること。明制圧前の経路途上の戦いになってしまったようです。朝鮮は明の属国で日本は明へ行くには朝鮮を縦断する必要があり、日本側は無害通過を求めたが朝鮮は属国であるが故、無害通過等と出来ないと返答、いつの間にか対朝鮮戦となったと思います。)のきっかけとなったと思います。

当時日本とスペインの戦力、スペインが日本に侵攻する場合、海を渡ってきます。スペインとの直接対決はスペイン人は少数、火力、武力とも日本が圧倒的に優位、スペインが明を植民地として支配下に治めることになると話は大きく違ってきます。数多くの鉄砲を日本が保有していたとしてもスペイン支配の明兵士が、数の力で日本に攻め込んだら一大事です。この驚異を取り除く方法はスペインより先に、明を日本支配下に置くことで地政学的に日本の安全が確保、秀吉が朝鮮出兵を行なわず日本の国力をスペインに見せつけていなかったら、スペインは当然のことながら明国を植民地としての支配下に置いたでしょう。当然朝鮮半島もスペインの支配地となったでしょう。

スペインが日本に最初に渡来したのは、天文18(1549年)、宣教師フランシスコ・ザビエルです。スペインの宣教師は表向きはキリスト教の伝道、裏では軍事組織、キリスト教の伝道と見せかけ、先々の国民に受け入れられやすそうな良いことばかりを言っては改宗させ、頃合いを見計らって軍隊を送り込み、人民の殺戮や財宝の強奪、植民地占領などを行っています。

これらの豊臣秀吉の時代、奴隷として売られていた若き日本女性達・・・その数、数十万人~五十万人とも言われています。この事実を知った豊臣秀吉は激怒しています。当時、文明国と言われた欧米白人国では権力者等は自己の利益のためなら普通に行われていた有色人種の奴隷売り買い、豊臣秀吉は許しませんでした。

 

徳富蘇峰の「近世日本国民史」

徳富 蘇峰(とくとみ そほう)、明治から昭和のジャーナリスト、思想家、歴史家、評論家、國民新聞を主宰し、大著「近世日本国民史」を著したことで有名です。

1918年(大正7年)7月、55歳となった徳富 蘇峰は「近世日本国民史」の執筆に取りかかって國民新聞にこれを発表しています。

近世日本国民史は、「日本の正しい歴史を書き残しておきたい!」という一念から始まった徳富 蘇峰のライフワークでもあったようです。

当初は明治初年以降の歴史について記す予定でしたが、明治を知るには幕末、幕末を知るには江戸時代が記されなければならないとして結局、織田信長の時代以降の歴史を著したものとなっています。1952年(昭和27年)4月、全巻が完結しました。

近世日本国民史は多くの史料を駆使、織田信長の時代~西南戦争までを記述した全100巻の膨大な史書で、1918年(大正7年)の寄稿開始より34年の歳月が費やされています。戦後、この著は日本の歴史の真実を記されており、当時の米国等の戦後策には邪魔だったとも言われる方もいます。

 

近世日本国民史より

当時、豊臣秀吉は元来織田信長の政策を継承、キリスト教布教を容認、1586年(天正14年)3月には大坂城にイエズス会宣教師ガスパール・コエリョを引見、同年5月にはイエズス会に対して布教の許可証発給、しかし、九州平定後の筑前箱崎に滞在していた秀吉は長崎がイエズス会領となっていることを知らされ、驚いた秀吉は天正15年6月18日付覚を認め、翌日、ポルトガル側通商責任者(カピタン・モール)ドミンゴス・モンテイロとコエリョが長崎にて秀吉に謁見した際に、宣教師の退去と貿易の自由を宣告する文書・バテレン(伴天遠)追放令を手渡してキリスト教宣教の制限を表明

 

バテレン(伴天遠)追放令

(バテレンとは、ポルトガル語で神父の意味)

 

大意

1(自らが)キリスト教徒であることは、その者の思い次第であるべきである。

2(大名が)国郡の領地を扶持として治めさせているが、その領地内の寺や百姓などたちにその気がなかったのに、大名がキリスト教徒になることを強いるのは、道理が通らずけしからんことだ。

3 大名がその国郡を治めることについて、大名に命じているのは一時的なことなので、大名が交代することはあっても、百姓は交代するものではないので、道理が通らないことはなにかしらあることで、大名がけしからんことを言い出せば、(百姓を)その意のままにできてしまう。

4(知行地が)200町、3000貫以上の大名は、キリスト教徒になるには、朝廷や幕府に報告をし、その思し召しの通りにできることとする。

5 知行地がこれより少ない者は、八宗九宗などのような宗教上のことだから、その本人の思い次第であってよい。

6 キリスト教徒については、一向宗以上に示し合わせることがあると、そう聞いているのだが、一向宗はその国郡を寺領(寺内町)を置いて大名への年貢を納めないだけでなく、加賀国を全てを一向宗にしてしまい、大名の富樫氏を追放し、一向宗の僧侶に治めることを命じ、そればかりかさせ越前国までも取ろうとし、治天下の障害になっていることは、もう隠しようがない事実だ。

7 本願寺の僧侶には、天満の地に寺を置く(=天満本願寺)ことを許しているが、この(一向宗の)寺領のようなものは以前から許したことはない。

8 国郡や領地をもつ大名が、その家臣達をキリスト教徒にさせようとすることは、本願寺の宗徒が寺領を置くことよりもありえないことであるから、治天下の障害となるので、その常識がわからないような者には処罰ができることとする。

9 (大名などよりも)下の身分の者が思いのままにキリスト教徒になることについては八宗九宗と同じで問題にならない。

10 中国、南蛮、朝鮮半島に日本人を売ることはけしからんことである。そこで、日本では人の売買を禁止する。

11 ウシやウマを売買して食べることは、これもまたけしからんことである。

ことごとくこれらの条文で固く禁止し、もし違犯する連中があればすぐに厳罰に処する。 以上 

天正15年(1587年)6月18日

 

豊臣秀吉の朝鮮出兵従軍記者、見聞録の一部(近世日本国民史より)
キリシタン大名、小名、豪族達が火薬がほしいぱかりに女たちを南蛮船に運び、獣のごとく縛って船内に押し込むゆえに、女たちが泣き叫ぴ、わめくさま地獄のごとし。

アシュケナージ(偽ユダヤ人)・ユダヤ人であるザビエルは日本をヨーロッパの帝国主義に売り渡す役割を帯び、ユダヤ人でマラーノ(スペイン語で豚、もしくは汚らしい人を示す言葉)のアルメイダ(戦国時代末期の日本を訪れたポルトガル人、商人、医師の免許あり)は日本に火薬を売り込み、交換に日本女性を奴隷船に連れこんで海外で売りさばいた最高責任者であつたと言われています。

キリシタン大名の大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の名代として、天正少年使節団は1582年(天正10年)にローマへ派遣されました。

天正少年使節団は4名の少年を中心とした使節団で、イエズス会員アレッサンドロ・ヴァリニャーノが発案、1590年(天正18年)に帰国しました。ローマ法王のもとに行きましたが、報告書を見るとキリシタンの悪行が世界に及んでいることが証明されています。

行く先々で日本女性がどこまでいっても沢山目につき、肌白く、みめよき日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、もてあそばれ、奴隷らの国にまで転売されていくのを正視できず。
鉄の伽をはめられ、同国人をかかる遠い地に売り払う徒への憤りも、もともとなれど白人文明でありながら、何故同じ人間を奴隷にいたす。

当時のポルトガル人教会、師父が硝石(火薬の原料)と日本女性を交換しインドやアフリカまで売り飛ばしてっている。
豊臣秀吉は準管区長・コエリヨ(戦国時代の日本で活動したイエズス会司祭、宣教師、イエズス会日本支部の準管区長)に対し、次のように命じています。

「ポルトガル人が多数の日本人を奴隷として購入し、彼らの国に連行しているが、これは許しがたい行為である!」
従って伴天遠(神父の意)はインドその他の遠隔地に売られて行ったすぺての日本人を日本に連れ戻せ!」

過去、2002.7.9日付北國新聞「石川県金沢市に本社を置く株式会社北國新聞社が発行する地方紙」もバテレン追放、宣教師達による日本人女性人身売買について触れています。
豊臣秀吉のバテレン追放令・10の、日本人を南蛮に売り渡す(奴隷売買)ことを禁止したことを紹介、次のように記しています。

バテレン船で主に九州地方の女性が外国に奴隷として売られていることが分かります。秀吉の追放令は、筋の通った要求と結んでいます。

豊臣秀吉は、この奴隷狩りを止めさせるために、イエズス会の司祭、コエリュを詰問・・・

「九州に来る西洋の商人たちが日本人を多く購入し連行していることをよく知っている。いままで誘拐して売り飛ばした日本人を返せ!」

「それが無理なら、ポルトガル船に買われて、日本にいる監禁されている日本人だけでも開放しろ!」

「そんなに金が欲しいなら、代金はあとで渡す!」

 

対し、コエリュ・・・

日本人売買の禁止はかねてからのイエズス会の方針、問題なのは外国船を迎える港の領主(キリシタン大名や天草四郎)であり、厳しく日本人の売買を禁止しない日本側に責任がある。このやり取りで秀吉は激怒、以後、奴隷売買禁止令、「バテレン(伴天遠)追放令」を発しています。

 

茶の開祖でもある、有名な「利休」

利休はこのキリシタン問題に深く々関与している一面が見え隠れします。

利休は畿内キリシタンの主導者、高山右近(戦国時代~江戸時代初期の武将、大名で代表的なキリシタン大名として知られています。カトリック教会の福音者、 父は摂津国人・高山友照、母は洗礼名マリア、同じく摂津国人の中川清秀は従兄弟です。)とは極めて親密だったようで、海外の宣教師達と会っていたのは間違いないでしょうし、若き日本女性が奴隷として海外に売られていたことを知っていたと考えるのが自然だと思います。

千利休の別名は、聖・利休(セイント・リキュウ)、リキュウはヘブライ語でルカ、ルカとは新約聖書のルカによる福音書、使徒行伝の著者でも知られる聖人、この聖人ルカを日本語にすると千利休、茶道では、茶碗を手のひらに乗せて回しますが、同じように英国でもティー・カップを回します。

キリスト教の聖餐式(せいさんしき)は、パンと水またはブドウ酒が使用されます。日本では和菓子と茶が用いられるます。和菓子=パン、お茶=水またはブドウ酒

茶道を行う部屋に入るためには、普通の茶会では使用する機会が少ないですが、大変狭い躙り口(にじりぐち)という狭い出入り口があり、ここをくぐって茶の部屋に入ります、これは侘と寂(わびとさび)となり、日本人の美意識の1つで贅沢は禁止、質素にすると言う意味があるそうで、全てキリストの教えのようです。このように日本と聖書は切っても切れない関係であることが分かります。

 

当時、豊臣秀吉は茶道をキリスト教の教えなどとは全く知らず、茶の儀式だと思い込み受け入れてしまったようです。豊臣秀吉は、自ら茶道をたくさん開き全国に広めました。

豊臣秀吉は途中、茶道がキリスト教の教えだといくことに気づき、利休に騙されたことを後から知ったでしょう。キリスト教を日本で布教することを禁じたはずの豊臣秀吉が自ら日本中にキリスト教を広める結果となってしまったようです。

豊臣秀吉から、利休は切腹を命じられたことは自然でもあると思います。近代の歴史では、利休の切腹理由は闇の中とされているようです。

 

教科書に出てくる有名なキリシタンの天草四郎、彼らは最新鋭の鉄砲で武装できたのも奴隷商売等での豊富な資金があったと考えるのが自然です。教科書のような絵、小説、ドラマに描かれているような貧しいムシロ旗、竹槍の武装は有り得ないと見るべきで、「作り話」と見るべきで、最新銃で武装した強力なキリシタン武士達です。戦前までは、このような内容は普通に知られていたと言われていますし、当然、天草四郎は悪魔等として記されていたようです。

16世紀に行われていた、日本人女性奴隷売買は遣欧使節他、 多くの歴史史料に記載されており、間違いない史実です。このような歴史の事実が、徳川・江戸幕府鎖国体制の要因の一つになったとしても自然に思います。鎖国体制は正しい判断だったと思います。

 

戦後、これらの日本の近代史は呆れたことに、日本人が悪でキリスト宣教師等は善で日本人の迫害のみが教科書に記載され、迫害を受けた真相が明らかにされていません。これらの観光地では一方的にに説明されているように思います。

奴隷貿易で、何の罪も無く、多く連行されたのは若き日本人女性達です。戦後教育は日本人=悪、欧米白人=善と教えているように思います。。

*天正少年使節団が報告した日本人女性奴隷の数々

*数十万~50万人が奴隷として売買されていた事実

*火薬一樽で50人の若き娘が売られていった事実

豊臣秀吉の国、民を想う気持ち、日本にとって正当性があった鎖国体制等は時代が変ろうと語り継がれるべきです。豊臣秀吉の朝鮮出兵も何故、明、朝鮮へ兵を向けたか・・・日本国、民を守るためだったと思います。朝鮮出兵の目的地は朝鮮ではなく、明を目指す経由地にしか過ぎなかったと思います。

私達は可笑しなメディア、知識人と称する人達に惑わされることなく、歴史を継承することは夢を持てる未来の日本のためにも必要不可欠だと思います。世界から見たら善が多い日本の歴史等にもっと誇りを持つべきです。

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