以下文はJJ太郎さんのココログ“かつて日本人は清らかで美しかった。かつて日本人は親切で心豊かだった。”の一部コピー文です。ウィキペデア、文春新書「韓国併合への道」呉善花(著)等々を参考に記しています。可笑しな解釈が多々あるかも知れませんので、日々の思い日記とします。
金・玉均(きん・ぎょくきん)と聞いて、多くの人は?と思うでしょう。李氏朝鮮後期の政治家で朝鮮独立党の指導者で、一口で言えば3日間と言う短い期間ですが、夢であった支那の1000年に及ぶ朝鮮支配を断ち切り、朝鮮、独立国家政権を樹立した政治家です。
1851年2月、朝鮮・忠清南道公州に生まれ、1872年に科挙(隋から清の時代まで、約1300年間にわたって行われた官僚登用試験)文科に合格、開化派である朴珪寿(パク・キュス)、呉慶錫(オ・ギョンソク)等の影響で開化思想を抱いていたと言われています。
開化思想・・・19世紀中頃、通商修交反対論の中で開化思想家が現れています。これらの人達は北学思想(清朝等を肯定的に捉えた思想等)と中国と往来し見聞きした世界情勢によって新しい認識を持った人達で、日本の明治維新前の士達に似ています。自主的に門戸開放、西洋文物や制度を受け入れようと主張、西欧の通商要求を無条件拒否は悲劇的な状況が起こると判断したためとも言われています。開化派代表者は朴珪寿(パク・キュス)と中人訳官の呉慶錫(オ・ギョンソク)、医師の劉鴻基(ユ・ホンギ)等でした。
自分達が持つ志を実現させるためには、最も厄介な両班(朝鮮、高麗の特権支配階級、朝鮮王朝 (李朝)時代の上位身分)子弟の育成が必要と考えています。1870年頃に朴珪寿家に集合したのは金玉均、朴泳孝、洪英植、金弘集、金允植でした。彼らは北学思想、西欧文物を学び世界情勢の急変を知りました。これらの人達は1880年代、政界に進出、開化政策を先頭に推し進めていました。
明治12年当時、朝鮮半島には閔(びん)氏(朝鮮の氏族の一つで中国系、始祖は 高麗の閔称道、孔子の弟子である閔子騫の末裔と称し、驪興付近に土着していた家門)一族の清国傀儡の朝鮮政権がありました。
当時の朝鮮内には、清国に従属して開化を進めていこうとする事大派と独立・近代化を主張する独立党がありました。独立党のモデルは日本の明治維新、日本の支援を期待していました。このリーダーが金・玉均です。
明治15年、金・玉均は、福澤諭吉の支援を受け来日、慶應義塾等に寄食、福沢諭吉の独立の気力、(学問のススメ第三章・・・わが日本国人も今より学問に志し気力を慥かにして、まず一身の独立を謀り、したがって一国の富強を致すことあらば、なんぞ西洋人の力を恐るるに足らん。道理あるものはこれに交わり、道理なきものはこれを打ち払わんのみ。一身独立して一国独立するとはこのことなり。)に大変感銘を受けたと言われています。
自らは積極的に日本の議会、裁判所、学校、電信施設、練兵場、印刷所、建設会社等を見学、更に福沢諭吉の邸宅を拠点にさまざまな人物と会い、意見交換、必死で日本から多くのものを吸収しようとしていました。
日本の明治維新を模範とした清朝からの独立、朝鮮の近代化を目指しました。
1883年には借款交渉のため日本へ渡り、翌1884年4月に帰国、清がベトナムを巡ってフランスと清仏戦争を開始したのを好機と見て、12月には日本公使・竹添進一郎の協力も得て閔氏政権打倒のクーデター(甲申事変)を起こしていますが、当時の国王・高宗(コジュン)は暗黙のうちに金のクーデター計画を承諾していたと言われていますが、国王・高宗は民の幸せ、独立国家を目指すなんか微塵も考えてなく、裏切って清国の出兵に同意、清国の袁世凱が1300人の軍で王宮を攻撃してしまいます。事件は清の介入で失敗し、わずか3日間の政権で終了しました。
このクーデターは清国とフランスが交戦中に実施する予定でしたが清国が敗退、清国は威信をかけて朝鮮半島を平定しに来ました。
当時の日本軍の守備隊は150人と少数、数の上では少ない日本兵の練度は高く善戦しましたが、日本の竹添公使は弱気で撤収を決めてしまい仁川港から撤退してしまいました。ここで日本が強く支援し安定した朝鮮政府が確立していたら、以後、朝鮮半島の歴史は大きく変わっていた可能性があります。
独立党の指導者達は日本に亡命してしまいます。井上角五郎(日本の実業家、政治家)らの助けで日本に亡命、日本亡命中は岩田秋作と名乗っていたそうです。
現地の日本公使館は焼き討ち、多数の日本人が惨殺されてしまいました。
日本に逃れた金・玉均は明治27年、同志の裏切りに会い上海に連れ出され、清国傀儡政権の閔氏が差し向けた刺客によって1894年3月28日(43才)暗殺されてしまいます。死体は朝鮮に送られ、六支の刑(頭、手足をバラバラにする極刑)に処せられ朝鮮各地にさらされました。父は処刑、母は自殺、弟は獄死、妻子は行方不明になり日本は探偵を送ってその捜索を行い同年12月偶然発見して保護しました。
福澤諭吉は上海で暗殺された金玉均の供養のために法名をつけることを真浄寺の住職である寺田福寿に依頼、福寿はただちに諭吉の要請に応え、古筠院釈温香という法名を付け、法要は東京朝鮮公使付通官山崎英夫や朴泳孝などを諭吉邸に招いて営まれています。
遺髪と衣服の一部は金玉均の護衛であった日本人和田延次郎が密かに日本に持ち帰り、宮崎滔天たちによって浅草本願寺で葬儀が営まれています。葬儀は浅草本願寺で営まれましたが、妻は丁度再婚・・・お墓は本郷の真浄寺に、青山の外人墓地にも墓があり墓碑にはこう刻まれています。
嗚呼、抱非常之才、遇非常之時、無非常之功、有非常之死・・・
「ああ 大変な時期に たぐいまれなる才を抱き 大きな功績を残せず 無情の死・・・」
金玉均は清国に支配されない、真の朝鮮の独立を目指し属国政府等と戦いました、3日間の短い政権でしたが、千年にわたるシナの支配に終止符打ち、近代朝鮮の英雄でその魂は朝鮮の歴史に生きていると思います。金・玉均が建国した短い3日間の朝鮮独立国家は朝鮮歴史上初めてです。
朝鮮の真の愛国者は安・重根(あん じゅうこん)では有りません。
伊藤博文・暗殺事件裁判等の文献等を読むと、安重根は反日思想ではなく、平和を望んだクリスチャンで、日本や明治天皇に敬意と感謝の念を持っていたようです。
安重根は暗殺事件裁判で日本が大韓帝国の皇太子、李垠(イ・ウン)の教育に尽力したことに触れ、国民が感謝していると述べていますし、日清・日露戦争を通じて日本が朝鮮半島を含む東洋の平和を守ったことも評価しています。明治天皇が韓国の独立をはかり、平和の維持に努めたことも理解していたようです。
金・玉均の生き様は朝鮮半島で、本来の国のあり方、民の幸せを願う心は今も消えていないように思います。