以下文は、「逝(い)きし世の面影 」平凡社ライブラリー・2005/9・渡辺 京二著、「大君の都 上―幕末日本滞在記 」(岩波文庫)等を参考に記しています。
歴史を紐解くと多くが社会のトップ等の人達の歴史が殆どですが、激動の日本の江戸~明治等の一般庶民の歴史記録を紐解くと、私達が今日忘れている大切な心の豊かさ、勇気、高貴等を知ることが出来ます。新型コロナ・ウイルス感染減少時期ですが、今後ウイルスと共生すると思いますが、生きかたを変える際の参考となるかも知れません。
当時の一般庶民はどのような心を持ち、生活をしていたであろうか興味が尽きません。西洋文明が入る前に日本を訪れ、一般庶民の生活、生き様を日本観として記した海外の人達が多くいます。これらの記事を纏(まと)めた本が、「逝(い)きし世の面影 」です。内容は来日した123名の外国人の日本観を記したもので、庶民の生活等を細部まで克明に記され、先人達の生き様に驚きと尊敬の念を抱かずにはおれません。
幕末は身分制度があり、士農工商のうち農工商の被支配階級の庶民人口比率は90%位で日本の大半を占めていました。先人の庶民達がどのような心を持ち、生活等をしていたのかの一端を知ることができます。
これらの記から言えることは、当時の一般庶民は貧しくても大和心を持ち、高貴であり、誇り高い面を垣間見る事ができます。この本は現代日本人が忘れかけているものを彷彿させます。この本に対し否定的な見方等々される方も多いと言われていますが、素直な心で読むことも必要かと思います。
この本には、以下の語句が多く出てきますが、この語句は他国では使用されることが少ない語句です。
「簡素」、「質素」、「正義」、「満足」、「健康的」、「贅沢に執着心を持たない。」、「思いやり」、「感謝」、「相互扶助」、「親切」、「温和」、「礼儀正しい。」、「安全」、「共同作業」、「協調」、「勤勉」、「創意工夫」、「技術が高い。」、「美的感覚」、「自然」、「自然の美」等々です・・・日本を訪れた多くの外国人は、上記の語句が散らばった日本社会を高く評価しています。
全てが物、金(かね)中心のように物事等が判断されるように思える現代社会、私達に本当の幸せ、生きるということは何かの一端を暗示してるようにも思います。新型コロナ・ウイルスと共生していくための大切なヒントが隠されているかも知れません。当時の一般庶民が貧しくとも大和心を持ち、誇り高い生きかたをしていた日本人・・・武士道の一部が庶民にも浸透していたようにも思います。
外国人が日本についての記録は、有名なものは中国の史書・魏志倭人伝、マルコポーロの東方見聞録ですが、これらは著者が実際に日本を訪れて書かれたものではありません。逝きし世の面影は、多くの外国人が実際に日本を訪れた正確な日本観です。以下文は一部を記します。
リュドヴィック・ ボーヴォワル(フランス人、明治9年来日、大学教員)は、日本を訪れる前にオーストラリア、ジャワ、シャム、中国を歴訪しています。
平和で争いのない日本の人々は、礼譲と優雅に満ちた気品ある民であった。
街ゆく人々はだれかれとなく互いに挨拶を交わし、深々と身をかがめながら口元に微笑を絶やさない。
田園を行けば、茶屋の娘も田圃の中の農夫もすれ違う旅人も、皆心から挨拶の言葉を掛けてくれる。
その住民全ての丁重さと愛想のよさにどんなに驚かされ、地球上最も礼儀正しい民族であることは確かだ。
エドワード・ シルヴェスター・モース(アメリカの動物学者)
自分の国で人道の名において、道徳的教訓の重荷になっている善徳や品性を、日本人は生まれながらに持っている。
しかも恵まれた階級の人々ばかりでなく、最も貧しい人々も持っている特質である。
挙動の礼儀正しさ、他人の感情についての思いやりは、日本人の生まれながらの善徳であると思われた。
一見簡素な日本家屋の部分部分に、指物師の工夫と芸術心が働いていることに驚嘆した。
日本の大工は仕事が優秀であるばかりでなく、創意工夫にたけた能力を持っているという点でも優秀だ。
日本の大工はアメリカの大工よりも技術的に上だった。アメリカの大工が高価な機械をそろえているのに対し、日本の大工道具一式がかなり原始的なのを考慮すると、問題は頭と眼識なのだと考えずにはおれなかった。
すべての職人的技術において、問題なしに非常な優秀さに達している。
タウゼント・ハリス(貿易商)
インド、東南アジア、中国を6年にわたって経巡ってきた後、1856年初代アメリカ総領事官として来日
1856(安政3)年8月に着任したばかりのハリスは、下田近郊の姉崎を訪れ次のような印象を記しています。
姉崎は小さくて貧寒な漁村であるが、住民の身なりはさっぱりしていて、態度は丁寧である。
世界のあらゆる国で貧乏にいつも付き物になっている不潔さというものが少しも見られない。
彼らの家屋は必要なだけの清潔さを保っている。
10月23日の日記、5マイルばかり散歩した。ここの田園は大変美しい。
いくつかの険しい火山椎(つい)があるが、できる限りの場所が全部段畑になっていて、肥沃地と同様によく開墾されている。これらの段畑を作るために除岩作業に用いられた労働はけだし驚くべきものがある。
更に10月27,28日には10マイル歩き須崎村を訪れて次のように記しています。
神社や人家や菜園を上に構えている多数の石段から判断するに、非常に古い土地柄である。これに用いられた労働の総量は実に大きい。しかもそれは全部500か600の人口しかない村で成されたのである。
下田地方の全般的な印象として下田の人々は、楽しく暮らしており、食べたいだけは食べ、着物にも困ってはいない。
家屋は清潔で、日当たりも良くて気持ちが良い。
世界のいかなる地方においても、労働者の社会で下田におけるよりも良い生活を送っているところはあるまい。
翌年、下田の南西方面に足を運んだ時も私はこれまで、容貌に貧窮をあらわしている人間を一人も見たことがない。
子供たちの顔はみな満月のように丸々と肥えているし、男女ともすこぶる肉づきが良い。彼らが十分に食べていないと想像することはいささかも出来ない。
ヴィットリオ・アルミニヨン(イタリア海軍中佐)
1866(慶応2)年通商条約締結の任を帯びて来日、下層の人々が日本ほど満足そうにしている国は他にない、日本の暮らしでは、貧困が暗く悲惨な形であらわになることはあまりない。
人々は親切で、進んで人を助けるから、飢えに苦しむのは、どんな階層にも属さず、名も知れず、世間の同情にも値しないような人間だけである。
メアリー(ヒュー・フレイザー駐日英国公使の妻)
1890(明治23)年鎌倉の海浜で見た網漁の様子をこう記しています。
美しい眺めです。
青色の綿布をよじって腰にまきつけた褐色の男たちが海中に立ち、銀色の魚がいっぱい踊る網を伸ばしている。
その後ろに夕日の海が、前にはビロードの砂浜があるのです。
さてこれからが子供たちの収穫の時です。そして子供ばかりでなく、漁に出る男のいない哀れな後家も、息子をなくした老人たちも、漁師たちの周りに集まり、彼らがくれるものを入れる小さな鉢や籠を差し出すのです。
そして食用にふさわしくとも市場に出すほど良くない魚はすべて、この人達に渡るのです。
物乞いの人に対して決してひどい言葉が言われないことは、見ていて良いものです。そして物乞いたちも、砂丘の灰色の雑草のごとく貧しいとはいえ、絶望や汚穢や不幸の様相はないのです。
ハリス(欧米外交代表)
1857(安政4)年11月、オランダ以外の欧米外交代表として初めての江戸入りを果たすべく、下田の領事館を発った。
東海道の神奈川宿を過ぎると、見物人が増えてきた。その日の日記に彼らはみなよく肥え、身なりも良く、幸福そうである。一見したところ、富者も貧者もない。
これがおそらく人民の本当の幸福の姿というものだろう。
私は時として、日本を開国して外国の影響を受けさせることが果たしてこの人々を本当に幸福にするのかどうか、疑わしくなる。
私は質素と正直の黄金時代を、いずれの他の国におけるよりも多く日本において見出す。
オールコック(イギリス公使)
名著、大君の都―幕末日本滞在記には冷静・現実的・かつバランスの取れた目で日本に接していく姿勢が世界的に評価され、異文化対応の一つの範となっています。
1859(安政6)年日本に着任したが、熱海にしばらく滞在した。これほど簡素な生活なのに満足している住民は初めて見た。農漁業を営む千四百人の住民中、一生のうちによその土地へ行ったことのあるものは二十人といないそうだ。村民たちは自分たち自身の風習にしたがって、どこから見ても十分に幸福な生活を営んでいる。
平野だけでなく丘や山に至るまで肥沃でよく耕され、山にはすばらしい手入れの行き届いた森林があり、杉が驚くほどの高さにまで伸びている。住民は健康で、裕福で、働き者で元気が良く、そして温和である。
確かにこれほど広く一般国民が贅沢さを必要としないということは、すべての人々がごくわずかなもので生活できるということである。幸福よりも惨めさの源泉になり、しばしば破滅をもたらすような自己顕示欲に基づく競争がこの国には存在しない。
日本人は気楽な暮らしを送り、欲しいものもなければ、余分なものもない。
イザベラ・ルーシー・バード(英国の旅行家、探検家)
1878(明治11)年、当時外国人が足を踏み入れることのなかった東北や北海道地方を馬で縦断した英国女性です。
その著「日本奥地紀行」は名著と言われています。山形の手の子という村の駅舎では、家の女たちは私が暑がっているのを見てしとやかに扇を取り出し、丸々一時間も私を扇いでくれた。代金をたずねるといらないといい、何も受け取ろうとはしなかった。
私は彼らに、日本のことを覚えている限りあなたたちを忘れることはないと心から告げて、彼らの親切にひどく心を打たれながら出発した。
東北縦断の旅に際して、日光から北上して福島県の山地に入ったのであるが、山間の小村はみな貧しく不潔なたたずまいだった。
私達にとって、悲惨な種類の貧困とは通常、怠惰と酒浸りに結びついている。
しかしここの農民の間では、怠惰な人はいないし、酒を飲む人はまれである。彼らは非常に勤勉だ。安息日もなく、仕事がないときに休日をとるだけだ。彼らの鋤による農作業はその地方を一個の美しく整えられた庭園に変え、そこでは一本の雑草も見つからない。彼らはたいそう倹約家だし、あらゆるものを利用して役立たせる。
東北・北海道の旅を終えた後、関西を訪れ奈良や伊勢参りなどをしています。
ヨーロッパの国の多くや、ところによっては確かにわが英国でも、女性が外国の衣装で一人旅をすれば現実の危険はないにしても、無礼や侮辱にあったり、金をぼられたりするものだが、私は日本では、一度たりとも無礼な目に逢わなかったし、法外な料金をふっかけられた事もない」。
ディクソン(英国人、工部大学校教師)
1876(明治9)年来日し、東京の街頭風景を描写したあとで次のように述べています。
ひとつの事実がたちどころに明白になる。つまり上機嫌な様子が行き渡っているのだ。群集の間でこれほど目に付くことはない。彼らは明らかに世の中の苦労をあまり気にしていないのだ。彼らは生活の厳しい現実に対して、ヨーロッパ人ほど敏感ではないらしい。西洋の都会の群集に良く見かける心労にひしがれた顔つきなどまったく見られない。頭を丸めた老婆からキャッキャッと笑っている赤子に至るまで、彼ら群集はにこやかに満ち足りている。彼ら老若男女を見ていると、世の中に悲哀など存在しないかに思われてくる。
ルドルフ・リンダウ(1859年、スイス使節団員)
長崎近郊の農村での経験
私は、いつも農夫たちのすばらしい歓迎を受けたことを決して忘れないだろう。
火を求めて農家の玄関先に立ち寄ると、直ちに男の子か女の子があわてて火鉢を持ってきてくれた。私が家の中に入るや否や、父親は私に腰掛けるように勧め、母親は丁寧に挨拶をしてお茶をだしてくれる。
いくつかの金属製のボタンを与えると、たいへん有難うと皆そろって何度も繰り返してお礼をいう。
社会の下の階層の中でそんな態度に出会ってまったく驚いた次第である。
私が遠ざかっていくと、道の外れまで見送ってくれて、ほとんど見えなくなってもまだ、さよなら、またみょうにちと私に叫んでいる、あの友情の篭った声が聞こえるのであった。
カッテンディーケ(長崎海軍伝習所、教育隊長)
2年余りを長崎で過ごし、日本の農業は完璧に近い。その高いレベルの農業から推察するに、この国の面積は非常に莫大な人口を収容することができる。
日本人の欲望は単純で、贅沢といえばただ着物に金をかけるくらいが関の山である。生活第一の必需品は安い。
上流家庭の食事とても、いたって簡素であるから、貧乏人だとて富貴の人々とさほど違った食事をしているわけではない。
日本人が他の東洋諸民族と異なる特性の一つは、華奢贅沢に執着心を持たないことであった、非常に高貴な人々の館ですら、簡素、単純きわまるものである。すなわち、大広間にも備え付けの椅子、机、書棚などの備品が一つもない。
フィッセル(オランダ東インド会社社員、 長崎出島オランダ商館勤務)
上級者と下級者との間の関係は丁寧で温和、身分の高いものが自分より下級のものと応対するときに役人風をふかすことも、はるかに少ない。
上司は下司に対して常に慇懃で穏やかな態度で話しかける、日本人は軽蔑や侮辱にきわめて敏感だが、他人を腹立たせたり、他人を気に触ることを避けるために、非常に気を遣う。
アーサー・クロウ(フランスの弁護士・法律家)
明治14年、中山道での見聞をこう記しています。
ほとんどの村には人気がない。住民は男も女も子供も泥深い田圃に出払っているからだ。
住民が鍵も掛けず、なんら防犯策も講じずに、一日中家を空けて心配しないのは、彼らの正直さを如実に物語っている。
アーノルドゲオルギ・アルノルド・エッセル(オランダの土木技術者)
この国においては、ヨーロッパのいかなる国よりも、芸術の享受・趣味が下層階級にまでいきわたっているのだ。
どんなにつつましい住居の屋根の下でも、そういうことを示すものを見出すことができる。
ヨーロッパ人にとっては、芸術は金に余裕のある裕福な人々の特権に過ぎない・・・ところが日本では、芸術は万人の所有物なのだ。
マーガレット・バラ(米国の女性宣教師)
横浜を外れたあたりではとても見事な生垣が見られます。
田園地帯のすばらしさは、おもにこうした生垣のおかげなのです。
みすぼらしい農家が素敵な生垣にすっぽり囲まれ、家そのものはわびしくても全体としてはとても美しい情景になっています。
ヒューブナー(プロシャのオイレンブルク使節団員)
日本人は自然が好きだ。
ヨーロッパでは美的感覚は教育によってのみ育成することができる。
ヨーロッパの農民たちが話すことといえば、畑の肥沃さとか、水車を動かす水量の豊かさとか、土地の値打ちとかであって、土地の絵画的魅力についてなど話題にもしない。
彼らはそうしたものに対してまったく鈍感で、彼らの感じるものといったら漠然とした満足感に過ぎず、それすらほとんど理解する能がない有様なのである。ところが日本の農民はそうではない。
西洋文明が入る前の日本人庶民は貧しくても大和心があり、誇り、勇気、高貴等であったと言うのは事実のようです。新型コロナ・ウイルス感染減少期の昨今、私達現代人は金、物質等が人生の全てのように思いがちですが・・・例え貧しくても、心までは貧しくなってはならないと先人達が訴えているように思います。この記事で多くの方々が、日本は世界から見たら凄い国であったと感じ、少しでも日本を好きになって欲しいと思う昨今です。