「原因と結果」

2010-04-13 07:47:41 | 赤裸の心
                  「原因と結果」


 他人の文章をコピペして、然(さ)も自分の認識であるように衒

(てら)うのは厳に慎むべきだと諌めながら、再びニーチェの言葉

を掲載します。ニーチェは、人々の共感とか同感といったものにこ

そ埋めることの出来ない決定的な隙間が存在する、と言ってた様に

思います。以下は「悦ばしき知識」第三章(一一二)からですが、

後の私の感想はニーチェが同意した訳ではありません。



           (一一二)

「原因と結果。――認識や学問の昔の段階に対し、現在のわれわれ

のそれを際立たしているもの、それをわれわれは「説明」と呼んで

いるが、実はそれは「記述」なのだ。われわれは以前より記述にか

けては上達した――だが説明にかけては昔の人々みなと同様ほとん

どなすところがない。昔の文化の素朴な人々や研究者が「原因」と

「結果」という二様のものをしか見なかったところに、われわれは

多種多様の継起の連鎖を見つけだした。われわれは生成の表象を完

全なものに仕上げはしたが、その表象を超えて、その表象の背後に

達することはなかった。「諸原因」の系列は、どんな場合にも、以

前に比べてはるかに完全にわれわれに明かになっている。われわれ

は推論する、あのことが結果として起こるためにはまずこれこれの

ことが先行しなければならない、と。――だがそれでわれわれは何

ひとつ把握したわけではない。質、たとえばあらゆる化学上の変化

における定性のような質は、今もってなお一個の「不可思議」のよ

うに見える。そうしたことはすべての移行運動においても同様に見

られるものである。つまり、誰ひとりその推進力そのものを、「説

明」するわけにはゆかない。われわれとてもどうして説明などでき

よう!われわれは、線とか平面とか物体とか原子とか可分的時間と

か可分的空間とかいった、実のところ在りもしないものばかりを借

りて操作する、――われわれが一切をまずもって表象に、われわれ

の観念像に化してしまうかぎりはどうして説明などが可能となろう

ぞ!科学をば事物の可能なかぎりそっくりそのままの人間化と見る

だけで、ことすむわけだ。われわれは事物とその継起を記述するこ

とによって、いよいよ精確にわれわれ自身を記述することを習得す

る。原因と結果、といったような二元性は、おそらくありはしない

のだ――実際そこにあるのは一つの継続態なのであり、その若干の

部分をわれわれが分離させるのだ。それは、われわれが運動という

ものをいつも分離した多くの点としてだけ知覚し、したがって実は

運動を見るのではなく、これを推論しているのと、同様である。多

くの結果が突然にはっきりとあらわれてくるその突発性が、われわ

れを誤らすのだ。だからとてそれはわれわれにとっての突発性であ

るだけのことだ。われわれには捉えかねるこの突発性の刹那のうち

には、無量無限の経過がふくまれている。原因と結果を、われわれ

流儀にべつべつばらばらの分割態と見るのでなしに、これを一つの

継続態として見るような知性、つまり出来事の流れを見るような知

性が、もしあるとすれば、――それは原因と結果といった概念をは

ねつけ、一切の被制約態を否認するだろう。」

        「悦ばしき知識」ニーチェ全集⑧ちくま学芸文庫
                 ニーチェ(著)信太正三(訳)

 我々は、――私がこの「われわれ」という言葉を使い過ぎるきら

いがあるのは多分彼の影響と思われるが、それでも、――我々は、

木を見て森全体を認識できないし、森を見て一本一本の木の違いを

認識することもできない。原因と結果による認識とは一本の木を見

ているに過ぎない。「われわれには捉えかねるこの突発性の刹那の

うちには、無量無限の経過がふくまれている」のだ。一本の木が倒

れた結果はたった一つの原因からではない。そこには無量無限の経

過がふくまれているのだ。原因から結果が導き出せると考えるのは

人間が納得する為の表象化された記述にすぎない。恐らくは分析に

頼る学問について言っているのだと想われるが、そうは言っても「

出来事の流れを見るような知性」などという超能力のようなものは

誰も持ち合わせていない。カエルはカエルの目で、カエサルのもの

はカエサルへ返さず、あっ!ちがう、カエサルはカエサルの目でも

のを見るしかない。(プロバイダーが「ぷらら」なんでちょっと宣伝)

つまり、我々は我々の能力を超えて認識することなどできない。

 彼は「線とか平面とか物体とか原子」までも「実のところ在りも

しないもの」とまで言う。そんなものは人間が観念化した表象にす

ぎない。そもそも点とか線というのは我々が事物から取り出した概

念である。そして平面でさえ重力がなければ簡単にイメージされな

い概念である。無重力空間で浮遊する者は平面の概念など浮かば

ない。そして我々もそもそも重力が無ければ存在しないのだけど、

我々は「重力の魔」に閉じ込められた身体性の中で世界を想像して

記述してるのだ。魚が水面下から水上を覗き上げて水の無い空間を

「水中の世界に例えて」語るようなものだ。それらは恐らく誤りであろう。

それではどうすればそんな知性、我々の身体性を超えた能力、を獲

得することができるのだろうか。どうすれば事物の「不可思議な」「推

進力」を記述でなく説明することができるのだろうか。神に預ければ

簡単だが、神を殺した彼の認識はもはや神に縋るわけにはいかない。

然りとて認識は同じ道をグルグル回るばかりで何れペシミズムに陥る。

まさに「前門の虎、後門のオオカミ」ならぬ、「前門のカミ、後門

の『虚』無」に阻まれて、彼は超人となって空を飛ぶしか逃れる道

がなかった。彼の「超人」思想とは、認識によって神を否定しペシ

ミズムを避けたが、それに代わるものを見つけられず、追い込まれ

た状況で生まれた、のかもしれない。だって超人なんて人間の否定

以外の何物でもないし、結局彼は認識による「推進力」の説明を超

人に預けてしまい、遂には人間まで否定した。それは、サルトルの

「実存は本質に先行する」という諦めにも近い言葉にも近い。本質

を追い求める哲学が本質を追い求めても実存に至らなかった、って

ことだよね。それって一つの結論かもしれないが哲学の敗北宣言じ

ゃないか。だからボク的に言うと、「本質は認識に先行する」。つ

まり、認識では世界は解けない、って、これも敗北宣言だけどね。

結論を言えば、あまりニーチェに心酔するととんでもない人生にな

っちゃうよ、ってこと。何しろ彼が言う「超人」思想とは、人間の

破滅に他ならないからだ。

 最後に、ニーチェのこんなアフォリズム、

 「ひとは、答えの見つけられる問いだけに耳をかすものだ。」

              (一九六)『われわれの聴覚の限界。』
                          同書より

                           (おわり)
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