(七十)
師走に入って初雪のニュースを聞く頃になると、ホームレスと
して年越しを迎えた日のことが甦ってくる。更に今年のように、
百年に一度の大恐慌だなどと脅されると、逃れられない籠に入れ
られたまま水中に浸けられるネズミのようで、不安に苛まれて寝付
けぬ夜が続く。大体、不安を煽る情報ばかりが流されて、だからこ
うして乗り越えましょう、という具体的な政策が無ければ、絶望に洗
脳された者が自暴自棄になって自殺や犯罪に向かうのではないか。
「そうだ!新しい寝袋を買っておこう。」
越冬を余儀なくされたホームレスにとって寝袋は必需品である。
もしも、部屋を追い出されて野宿でしか寝場所に恵まれなかった
としたら、数週間分の飯代を削っても寝袋だけは手に入れておく
べきだ。寝ることが確保されれば、日本ではホームレスの為に、
食料の4分の1が捨てられていると言うから、理性を棄てることが
出来れば、それを拾うことも出来る。この理性を棄てて生きること
が大事である。何故なら我々の理性は生きる為の手段にすぎな
いからだ。ところが、本能は生きることこそが目的なのだ。本能
は理性のように生きることで迷わない。ただひたすら生きようとす
る。ホームレスの様な逆境に陥ったら本能に従え!それでも理性
が退屈するなら、社会生活ではとても読んでられない飛びっきり
難解な本を宛がってやるのだ。そうすれば退屈から詰らぬ考えを
起こさなくて済む。私はニーチェを読んでいた。その時何を言って
いるのかサッパリ解らなくても、幸いなことにそのことについて考
える時間はタップリ有る。私は路上を彷徨いながら、毎日のように
「永劫回帰」のついて考えていた。しかし、何度考えても理解出来
ず、また始めに戻って読んでいると、ある時、「これこそが永劫回
帰ではないか!」と思った。こうして突然、自分なりに理解できた
りすることもあるのだ。例えば、
「生きるとはなんのことか…生きるとは…死にかけているようなも
のを、絶えず自分から突き放していくことである。」
ニーチェ 「華やかな知識」
これこそが我々の本能ではないのか。本能に「死」など存在し
ない。「死」を提案するのは万策尽きて本能に従えなくなった理
性の奴だ。「もう少し楽になりたい」と本能が告げる。すると理
性が「死ねば楽になれますが」と囁く。驚いた本能は「苦しくと
も生きよう」とする。もしも、生きることに意味が無いとすれば、
同じ理由によって死ぬことにも意味など無い。我々はあまりに
も頭だけで世界を理解してはいないだろうか?血は肉体の外
へ出されても傷口を塞ごうとする。我々の身体は血の一滴と
言えども生きる為にあるのだ。生きることに迷ったら肉体に返
れ!安楽が死の傍らに在るとすれば、苦しさこそが生きるこ
との実感ではないか。生きるとは苦しさに耐えることなのだ。
死にかけているようなものを、絶えず自分から突き放していく
ことである。それでは、
「死ぬとはなんのことか…死ぬとは…生きようとするものを、
絶えず自分から突き放していくことである。」
安らぐ場所さえ無くさまよえるホームレス諸君!君たちに
は生きる自由が在る。それは建国によって与えられた権利な
どではなく、全ての生きるものにあるものだ。縦んば(よし
んば)、空腹のあまり一斤のパンに魔が差したとしても自分
自身を見捨ててはいけない。それは仕方の無いことだ。生き
る為に理性を失ったとしても、それはどうしようもないこと
なんだ。何故なら、君には生きる自由があるんだから。
(つづく)
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