「パソコンを持って街を棄てろ!」(二十一)

2012-07-11 17:23:57 | 「パソコンを持って街を棄てろ!」(二十一

             (二十一)

 

 

 人間は本能と理性で生きている。いや、それ以外にもあるのかも

しれないが。本能とはすべての生き物の中心にあって生きる力であ

る。本能は生きることの是非を問わず、ただひたすら生きようとす

るが、予期せぬ危機に直面して死の恐怖が芽生え、この恐怖が記憶

され、再び繰り返されない様に強迫され認識が育まれる。この記憶

と認識が繰り返されて理性が進化する。やがて理性は本能に従って

、生きることを脅かす様々な危機に対処して本能を死の恐怖から遠

ざける。我々の理性はこの様にして「生きようとする」本能が死の

恐怖から受けた記憶と認識から派生した。やがて理性は社会で共有

され高められ、本能から離れ自在性を得た理性は世界を認識し、宇

宙を認識して、意志を持つ。しかし、いかに認識を高めても存在を

超えたもの、つまり「生きる意味」については語る言葉を持たない

。それは我々の理性が、ひたすら「生きようとする」本能から派生

したからに違いない。そこで理性が生きることの是非を問うことは

驕りであり「生きようとする」本能への背信である。何故なら、理

性には「生きようとする」本能を否定することが出来たとしても、

それに代わる「生きる意味」を見つけ出せないからだ。自殺とは、

「生きる意味」を見出せない理性が、ただひたすら生きようとす

る本能に背く行為である。理性はあくまでも本能が「生きる」ため

の手段であり目的ではない。自殺とは、手段である武器を目的を見

失った自分に向けることであり、手段と目的が倒錯した本末転倒の

論理である。そもそも本能は生きることに意味など求めない。つま

りサルトル風に言うなら、「生きようとする」本能は「意味がない

という」理性に先行するのだ。私はホームレスになって東京の街を

彷徨いながら、生きていくことが憂ざくなって何度も自殺を考えた

。それは私にも予知能力が備わっているのかもしれないと思ったく

らい、私の「嫌な予感」は見事に的中した。奈落の淵を臨みながら

、どうしても避けなければならないと判っていながら、そこに落ち

ていく自分を他人事のように見ていた。そういうことを繰り返して

いると、始めのうちは、恐らく、もう私の人生には私が望むような

幸福は訪れないだろうと落ち込んだが、それは身近だった世間が引

き映像のように遠退いて行く感じ、ところが、生きてさえいれば多

少の辛さはあっても、自分が思っていたほどの崖っぷちではなかっ

たり、冷静になって周りを見渡せば這って上がれる程度のものだっ

た。それに表向きは幸せそうに見える他人の暮らしにも、口にはし

ないが色々と悩み事があって、何も自分だけが辛い思いをしている

訳じゃないんだと気付いた時に、孤独に苛なまれた思いもむしろ柵

(しがらみ)のない身軽さに感謝してもいいのかもしれないとさえ思

うようになった。人は思い込みや雰囲気に流されて、時としてどう

しようもない絶望に見舞われることがあるが、幸不幸の基準ほど当

てにならないものはない。それからは不遇ではあったが、自分の境

遇を世間に照らして悲観したり絶望したりすることは止めようと思

った。私の幸せは世間に決めてもらうものじゃない、世間体だけの

ためにまた面白くも無い会社の奴隷に戻る気はなかった。もう絶壁

の崖に立たされても恐くはなかった。降り掛かる困難を楽しもうと

さえ思った。私は理性を頼りに生きることの是非を問うことを止め

て、「生きようとする」本能に縋って意味なくただひたすら生きよ

うと決意した。すると世間の浮き沈みが、たとえば満員電車に乗っ

て周りを気にせず座席に座る者と、周りを気遣いながら立っている

者の違いくらいにしか思えなかった。つまりみんな同じ電車に乗っ

て同じところに行こうとしているのだ。つまり、電車の中で楽をし

たいとは思わなくなった。そしてそう思うと何故か幸せな気分にも

なった。私はそれを絶対幸福と呼んだ。

                       (つづく)



最新の画像もっと見る

コメントを投稿