「人工知能(AI)と人間」のつづき
以前に、出勤時の車の中で聴いていたラジオで、武田鉄矢がパー
ソナリティーを務める番組で、不確かだが、AIに関する本を取り
上げて、いや、まな板の上に載せて三枚に下ろしていて、そこでA
Iが苦手なのは哲学と芸術であると言った。それを聴いて、私の頭
を過ったのは、ハイデガーがニーチェについて書いた本の中で、ニ
ーチェは「われわれは真理によって没落することがないようにする
ために芸術をもっている」と記していて、そしてハイデガーによる
と、「(ニーチェがここで)(芸術について語る時)芸術とは、生を聖
化して、いっそう高い可能性の中へ的確に転移させるあらゆる形式
を表す名称として用いられている。この意味では、哲学も《芸術》
なのである。」そして、「ニーチェにとって最高の価値は芸術であ
ると主張するときには、この言明は芸術を形而上学的に把握する場
合にのみ意味と正当性をもつのであ」る。つまり、芸術を哲学的に
捉える場合にのみ最高の価値をもつ、とすれば近代の形而《下》学
的な商業芸術はとても芸術とは呼べないことになる。いまや「アー
ティスト」という肩書は全ての人間に当て嵌まるのだ。
こうして、哲学と芸術についてのニーチェの認識とAIが苦手と
する分野が見事に一致したことに驚いた。哲学と芸術に共通する観
念は創造性だが、過去のデータを基にして未来を予測するAIが過
去には存在しない新しいものを創造することは出来ない。
ここで改めて真理とAI( artificial人工 intelligence知能)につい
て言及すると、どちらも「理性」が関わる事柄であるが、理性と知
性の違いは、理性は真理を問うことができるが、知性は真理を《知
ること》ができても問うことができないところである。だとすれば、
その違いは創造性の有無ということになる。そして創造性をもたら
したのは間違いなく宗教だった。こうして、AI(人工知能)はいか
に進化したとしても「真理を問うこと」、つまり哲学はできないと
いうことである。また創造性こそが求められる作為とは芸術にほか
ならない。つまり、AIは創造力が求められる哲学と芸術は苦手な
のだ。
(つづく)
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