「存在とは何だ」(2)
木田元(著)「ハイデガーの思想」を読んだ。実は、ハイデガーの
「存在と時間」を読んでいないので語ることはできないのだが、ぼ
んやりとではあるがハイデガーが何を考えていたのかが窺えた。私
は若い頃、暇を持て余して東京の下町の図書館に入った時、そこで
偶々サルトルの「実存は本質に先行する」という言葉を目にし て、
それまで存在の本質を追い求めていた自分の思考を停止させられた
ことを思い出す。それは自分にとって大きな転換だった。その 頃、
ハイデガー「について」書かれた本も手に取ったが、確かその中で
ハイデガーは、サルトルのその言葉を聞いて「先行すると言ったの
か」と何度も尋ねた、と書かれてあったが、その意味がよく解った。
つまり、ハイデガーによれば、西洋形而上学はプラトン、アリスト
テレスによって存在を本質存在(イデア)と事実存在(自然)の二義的
に区別され、その優位性は時代によって何度も転換を繰り返してき
たと言うのだ。「そこで彼(ハイデガー)はサルトルのこの主張を嗤
って、『形而上学的命題を転倒しても、それは一個の形而上学的命
題にすぎない』」(同書より)、つまり、卵と鶏のジレンマと 同じこ
とだ。ただ、我々が「存在に関して『それは何であるか』と問うと
き、存在はすでに『本質存在』に限局され」(同書より)、そもそも
「本質存在と事実存在との区分の遂行とその準備とともに形而上学
としての存在の歴史が始ま」ったのだ。だから、上のサルトルの言
葉は、時代が変われば簡単に「本質は実存に先行する」ことになる
と言うのだ。ハイデガーのことばは明らかに「存在と何か」を問う
西洋形而上学の否定に他ならない。
(つづく)
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