「明けない夜」 (十)―⑩-4

2017-08-23 08:45:37 | 「明けない夜」10⑩~⑩―10

       「明けない夜」

       (十)―⑩-4

 

しばらくして彼女が言った、

「仮にモノの世界がそうだとしても私は人間なんだから人間として生き

たい」

わたしは、

「ええ尤もです」

と答えるしかなかった。すると彼女は、

「でもあなたの仰ったことが全く受け入れられない訳じゃない。それど

ころか何か救われたような気持ちがする」

その言葉は意外だった。果たして彼女にとって心とか精神が存在しない

物質への回帰が救いなのだろうか。わたしは、

「えっ、救われた?」

と聞き返した。そもそもすべての宗教はたとえ死んでも魂だけは滅ばな

いことが大前提であり、その魂の救済こそが宗教の最大の目的である。

もしも死と共に魂も消滅するとすれば宗教的救済は成り立たない。しか

し彼女は魂の消滅こそが救いだと言った。そして、

「私ね、どうしてこんなことになっちゃったんだろうってずっと悩んだ

わ。宗教の本なんかも読んだりしたけど、でも来世の救いなんていらな

い。もしも救いというものがあるなら元の体に戻してほしい」

そう言うと、テーブルの上の缶ビールを手に取ったがすでに空だったの

でそのままアルミ缶を握り潰した。そして、

「でも、あなたが言うように死んだらモノに帰るとしたら誰も死を避け

ることはできないんだから、なんて言ったらいいのかしら、つまり死の

下では誰もが平等ってことでしょ。つまり、どんなに苦しんで生きたと

しても何れは死が解放してくれる。だったらどんな辛いことだって受け

入れられるような気がするの。それなのに宗教は来世で救うという、終

わらせてくれない」

「だって魂は不滅だもん」

「さっきあなたは存在は精神に先行するって言ったでしょ。それを聞い

てハッと思ったの。どうして今までそんなことに気付かなかったのかし

ら」

「前にね時間を持て余して図書館に入ったことがあって、別に読みたい

本があった訳じゃなかったが、そして何気なくサルトルの本を手に取っ

たら、そこに『実存は本質に先行する』という一行があったんだ。その

時ぼくは今の君のようにそう思った」

「えっ、サルトル?」

「そうサルトル。フランスの有名な作家」

「ふーん」

「でもね、ハイデガーというドイツの哲学者はそれを聞いてそんなもの

はこれまでに何度も転換を繰り返してきたと嗤いながら言ったんだ」

「えっ、どういうこと?」

「つまり時代が変わればすぐに実存よりも本質が先行するって。そして

彼はそもそも哲学的問題を事実存在と本質存在に分けたとしても問題の

本質は何も変わらないと言った。つまり『何のために生きているか』と

考えた時にすでにその答えは本質存在に限定されてしまうと言うのです

。あなたはさっき人間として生きたいと言いましたよね」

「ええ」

「じゃあ人間としていったいどう生きたいと思ってます?」

「理性を失わずに生きることかしら」

「そうです!まさにハイデガーはわれわれの理性こそが事実そのものを

見失わせて本質へ向かわせると言うのです」

「あのー、本質って何んですか?」

「ああ、レーゾン・デートルって存在理由でよかったっけ、さっきあな

たは生きる意味がないと言いましたけれど簡単に言ってしまえばそうい

うことじゃないかな」

「生きる意味ってこと?」

「ええ、そもそも本能だけで生きる動物はそんなことを考えたりはしな

い。敢えて言うならただ生きるために生きている」

「なるほど」

「ところがわれわれの理性はただ生きるだけでは満足できなくなって存

在理由、つまりその本質を求めて遂には生きることを手段におとしめる

彼女はしばらくしてから、

「まあ、あなたの言うことが理解できないわけじゃないけど今の私には

ピンと来ないわ。だって理性を失くしてどうやって生きていけばいいの

、動物のように生きろと言うの?」

「いや、あくまでも理性は生きるための手段であって命を手段にしては

いけないと言っているんです、そもそも命は何かのために生まれてきた

わけじゃないんだから」

そう言うとわたしは手の中で温くなったわずかに残った缶ビールを喉に

流し込んだ。

                          (つづく)



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