「無題」
(八)―⑥
辞表を叩きつけて、「ここは北朝鮮か!」とは吐かないまでも、
すぐにも会社を後にしたかったが、妻や子どもたちのことを思い出
してそれを懐に仕舞った。それでも、一時もここには居たくないの
に居なければならいストレスから治まっていた胃痛が始まり、血の
気が引いていくのがわかった。私は、課長のところへ行って「躰の
具合がおかしいので帰らしてくれ」と言うと、私の顔色を見て、よ
ほど血色が悪かったのか何も言わずに認めてくれた。
その日以来、わが身を会社に奉ることはなかった。もちろん、妻
にもありのままを話して、さすがに彼女も「身を惜しまず働け」と
は言わなかったので納得してくれた。そして、話しはこれからどう
するかということになったが、私は、これからのことはこれから考
えるしかないとしか答えられなかった。ただ、私の頭の中に浮かん
でいるのは、どれほどあくせく働いても今や時代は逆風の中にあっ
て思い通りには飛ぶことができない。それは、自分は風に逆らって
反対側に行こうとしているからではないか。順風に乗って飛ぼうと
思えばまず自分の行き先を諦めることだ。突然、神風が吹いて風向
きが変わり日本が再びかつてのような成長をするなどとは到底思え
なかった。それどろかますます衰退していく可能性の方が現実では
ないか。私は、彼女がどんな夢を思い描いているのか知らないが、
「豊かな老後」は諦めなくてならないと説得できるほど、風任せの
今後の生き方に自信を持っているわけではなかった。ただ、残され
た人生を他人に迷わされず自己を失わずに生きていこう、今ならま
だ間に合う。それは、あの山路を歩きながら思い到った「死線」か
らの生き方に繋がっていた。常に頭の中に去来するのは、自分は地
球内存在であるという意識だった。つまり、地球を凌駕した人類の
欲望は叶わない、ということである。すでに、「人々が望む豊かな
生活X 七十億万人 X t (時間)≧ E (地球) 」 なのだ。我々
は今の豊かさを望む限り他人の権利を奪い取るほかないのだ。
事務の女性は来年の春まで留まっていれば色んなことで得をする
ので考え直すように説得した。私は、その話は前に聞いてはいたが
すっかり忘れてしまっていた。ああ、それで今まで辞めるのを思い
留まっていたのか、とその時気付いたが、もう躊躇わなかった。そ
の金を手にするためにどれほど自分自身を犠牲にしなければならな
いか、失われた時間がそれに見合うとは思えなくなった。大袈裟に
言えば、私は自分の価値判断を転換させたのだ。ただ、妻が、私の
自分勝手な転換を受け入れてくれるかどうかが唯一の不安だった。
(つづく)
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