(八十九)
私は状況が読めなかった。そしてもう一度部屋の中を眺めた。
部屋の中には多くの書物や生活品が置かれていて、新しく借りた
部屋では無かった。あっ!玄関前のフックに掛かったハット帽は
紛れも無く老先生のものだ。この部屋は老先生が東京で滞在
する為に借りている部屋に間違いない。もしかすると老先生が居
るかもしれない。そう思って私は更に部屋の中を探ったが、他に
は誰も居なかった。しかし、今ドアが開いて戻ってくるかもしれな
い。そう為ると老先生はこの状況に有らぬ疑いを懐くに違いない
。繰り返すが、私は女社長に対して異性としての徒(ただ)ならぬ
思いを持っていた。だから彼女が今シャワーを浴びていることにも
さもしい魚心が疼いた。老先生への深い尊敬から生じる忠誠心と
、彼女への生臭い魚心を秤に掛けて、忍び難いが、この部屋に
留まることはマズイと思った。私はバスルームのドア越しに、
「どうもご迷惑をお掛けしました。酔いが醒めましたのでここで
失礼致します。」
と、シャワーの音に負けない様に大きな声で叫んで、部屋を立
ち去ろうとした。すると、
「ちょっと待って!」
と言って、しばらくすると彼女がドアを開け、バスタオルを巻いた
だけの格好で私の前に現れた。そして、
「はい、お水。」
彼女は手にしたコップを差し出した。私は何も言えなくて、彼女
を見ないようにしてそれを受け取り、横を向いて一機に水を飲み
干した。
「先生は居ないからそんなに慌てなくていいわよ。」
彼女は私の狼狽えた所作を見てそう言った。そして胸元のバスタ
オルの端を両手で直した。
「先生は居ないんだ!」
私の頭の中にある天秤が片方の重しを失って激しく傾いた。そして
、やはり横を向いたまま彼女にコップを返した。
「ありがとうございます。」
ところが彼女はそれを受け取ろうとしなかった。私は「あれ?」
と思って彼女を見た時、彼女は私の手を引っ張った。私は全く予
期しなかったので彼女にぶつかって、持っていたコップと、そし
て彼女を隠していたバスタオルが同時に落ちた。彼女は気にもせ
ず裸のまま私に抱きついた。私の鼓動は一気に高まり、頚動脈を
上る血流の激しさが耳の奥にまで届いた。その血流に促がされて
、私は裸の彼女を包むように大きく抱き返した。
子供の頃、ペニスは小便をする為にあると思っていた。その他
にも役割があるなどつゆぞ知らなかった。随分大きくなってから
、とは言ってもまだ勃起はしなかったが、友達が自慢気に教えて
くれた。恐らく彼もそれを知ったばかりだったのか、まるで汚ら
わしい事の様に言った。
「子供はどうやって生まれるのか知ってるか?女のオシッコする
の穴にチンチン入れるんやど!」
私は全くそんな事を考えたことが無かったので、
「ウソや!」
と言った。もしも、これまで生きて来た中で、無知故に恥かしい
思い出を一つだけ消去出来るとしたら、私は迷わず友達に言い返
したこの「ウソや!」を選ぶだろう。それほど恥を掻いた。その
後、動物達の交尾を見ては「ホントかもしれん」と思うようにな
ったが、ただ自分を生んだ両親の性行為がどうしても頭に浮かば
なかった。恐らく私は、人から教えられなかったら、一生勃起し
たペニスの正しい使い方を知らぬままで終っただろう。ある時、
テレビのトーク番組で、伝統芸能の役者が、物心が付いた時から
そんなことは知っていた、と語ったのを聞いて驚いた。と言うの
は、子供と謂えども曲がりなりにも社会の正しいことや悪いこと
を考えているのだ。私も私なりに、大人達はどうして争いの無い
世界を創れないのかと心を痛めていた。例えば食欲は、食べ物が
余っている国の人々が、飢えに苦しむ国の人々に余った食べ物を
与えることで共生できるではないか。ところがだ!この性欲とい
う快楽は余りもしないし分け与える訳にもいかないのだ。つまり、
性欲こそが人間の共生を阻む本能なのだ。私はそんな欲望がある
事も知らないで、争いのない理想の世界を構築できると確信して
いたのだ。私の世界観は重大なファクターを知らずに構築されて
いた。私の理想世界は欲情する性器によって穢された。この世界
に争いや対立や差別や偏見や独善や不正や見得や嫉妬や虐待や殺
人や自殺があるのは、性本能から派生した社会的欲望によるでは
ないか。私は絶望の余り、このまま生きるべきか、死ぬべきか、
それとも尼寺へ行くべきか、やがて、不埒にも勃起したペニスに
悩まされながら考えていた。そもそも種を繋ぐ生殖の機能が排泄
と同じ器官で行われる事に、神の悪戯なのか、深い意味が隠され
ていると思った。まるで、愛すべきことは忌むべきことと共に在るかの
ようで、ラ・ロシュフコーの次の言葉を思い出す。
「われわれの美徳は,ほとんどの場合,偽装した悪徳に過ぎない」
私と女社長は老先生の部屋で愛し合った。それ以上のあからさ
まな描写は話しを在らぬ方へ導きかねないので慎むが、極めて普
通だった。ただ、普通というのがどういうことを言うのか全く解
らないが。付け加えるなら、彼女によると、老先生の器官は二つ
有る役割の一つを失って久しいとの事だった。それ故に女社長も
久しく女性で在ることを失っていた。更に付け加えるなら、私も
バットを磨くばかりで久しく打席に立つことがなかったので、私と
女社長はベットの上で、眠ることを忘れて朝を迎えた。それから、
彼女は前夫との子供を学校へ行かせなければならないので帰る
と言った。私はさすがにこの部屋に一人で残れないと言って、彼
女のタクシーに同乗してホテルを出た。先に、彼女の息子が眠る
自宅に向かい、タクシーを降りる時、彼女は私にキスをした。
(つづく)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます