「叡知」

2012-06-22 04:10:34 | インポート



           「叡知」


 「叡知」とは、辞書によれば「すぐれた知恵。深く物事の道理に

通じる才知。」(大辞泉) とあっさり書かれているだけで、それ以上

の記述も見当たらなかった。「叡知」とは我々の知恵や理性を越え

てあるものだと思っていたが、先のブログの「親心」に載せた、コ

ウノトリの親が雛たちを日差しから守るために両翼を拡げて遮って

いる姿を見て、コウノトリには失礼だが、彼らに元々そんな知恵が

備わっているはずはないと思い、何故親鳥はそんな行動ができたの

か不思議だった。仮にそんな知恵が元から備わっていないとすれば、

親鳥は羽毛もまだ生え揃っていない雛鳥たちが直接浴びる日射に

耐えられずに衰弱していく姿を見兼ねて、居ても立ってもおれなくな

り、その親心から翼を広げて日陰にする行為を無心で行っていたの

ではないだろうか。それは、たぶん知恵からもたらされたというよりも、

雛鳥たちを何としても守りたいという一心が行為をもたらしたのでは

ないだろうか。

 とすれば、知性を越えて「叡知」が在ると考えるのは反対ではな

いかと思った。我々の知性は生命が生み出した「叡知」がもたらし

たのではないか。つまり、知性とはその「叡知」が堕落した成れの

果てではないのか。そこにはあの親鳥が見せたような雛鳥に対する

強い執着がない。ただ原理に従ってものごとを行えば思い通りにな

ると信じている。しかし、世界は知性のマニュアルによって創られ

ているのではない。だから、知性以外の「叡知」が生まれず想定外

の事態に対処できない。恐らく、問題はその関わり方ではないかと

思う。大津波による原発事故を想定外の出来事と捉えるか、しかし、

その危険を想定して警鐘を鳴らしていた人だって居たではないか。

我々は、本来備わっていたはずの「叡知」を生む生命力を失い、そ

の抜け殻の知性だけで世界を捉えているのだ。そこからは、あのコ

ウノトリの親が思い付いたような「叡知」は生まれない。その「叡

知」とは、自らを犠牲にしてまでも我が子を守りたいという強い一

念からしか生まれないのではないか。「叡知」を伴わない知性から

は新しい創造は生まれて来ないことをコウノトリは教えている。しか

し我々の知性は、それを動物的本能と片付けてしまい、原発事故

を想定外の出来事と言って退ける。だが、自らの保身から生まれ

る知性からは新しい創造をもたらす「叡知」は決して生まれて来な

いだろう。むしろ、賢しい知性が破綻して生命の根源に立ち帰らざ

るを得なくなった時にこそ「叡知」らしきものに導かれるのではない

だろうか。しかし、生存環境を失ってしまえばどうにもならないはず

だが。








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