「常ならざること」
⑤
われわれの精神は他者を認めて以来、従って社会が営まれて以来、
常に「常ならざること」を追い求めてきたと言える。それは神仏を
生み科学を生んだ。しかし、何れも部分でしかなく全体ではなかっ
た。一つの光明はそれ以外を闇にし、一つの解明は多くの疑問をも
たらした。われわれの理性は「常なること」の外に「常ならざるこ
と」を想定することが出来なかった。つまり、世界を転換すること
ができなかったのだ。すでに、われわれの精神は神仏を倦(う)み、
科学にも倦むことだろう。テーマを失った「常ならざること」はい
ずれ最後に残された「常ならざること」に手を染めるに違いない。
近代文明の発展によって、われわれの精神は本能よりも理性が重
んじられるようになり、精神から情熱が消え質実が失われ、繁る青
葉の下で契った言葉は季節の移り変わりとともに木枯らしにチギら
れた枯葉のように舞い上がり、そして地に落ちた。恋愛だけでなく、
われわれの精神は常にこの葛藤に悩まされ、本能か理性か、つまり
個人か社会か、或いは事実か本質かの間を彷徨い、その選択さえも
本能に委ねるべきか理性かで迷い、精神そのものが引き裂かれよう
としている。
しかし、精神とは情熱が欠くべからざるものである限り、それを
操るのはわれわれ個人である。理性によって冷たくなった精神を情
熱の炎で蘇らせることができるのはわれわれ自身である。理性から
精神を奪い返して生きる歓びを蘇らせること、それらの感情を生む
ものこそ本能なのだ。本能を回復させて精神を復元させなければな
らない。社会の中に投げ込まれて群衆に弄(なぶ)られた本能を蘇ら
せ、神経が麻痺してしまった感情を救い出さねばならない。「常な
らざること」は「常なること」の中にあるのだ。「常なること」を
回復させ本能に生きる歓びを取り戻さなければならない。そうでな
ければわれわれは生きる情熱を失い精神すら枯れてしまうだろう。
精神の回復とは情熱を再燃させることである。そして、情熱を生
むには身体を動かすことに尽きる。しかし、われわれの理性はそれ
とは反対に出来るだけ身体を使わないことを望んできた。合理主義
とはそういうことであるが、しかし、それではわれわれ自身はいっ
たい何に対して合理的な存在と言えるだろうか?そもそも生物が存
在することの合理性などどこにあるというのか。われわれの存在と
は不合理そのものではないか。もしも、われわれ動物が何かを残す
とすれば動くこと以外に何も出来ないではないか。ところが、文明
によって動くことさえ放棄し進んで檻の中へ入ってしまった。つま
り、われわれは家畜化しているのだ。これをニーチェ風に言うなら
「自ら望んでなった家畜」とでも言うか。家畜には意志を生む精神
などというものは無用である。端から檻を出る気などないのだから。
精々、暮らし具合の悪さを管理者に文句するばかりだ。こうしてわ
れわれは精神までも退化させて、合理的な生活を送ろうとする。お
そらく、あと何年かすればわれわれは自分の手足を使って大地を耕
すことも、それどころかテレビのチャンネルを変えるために歩くこ
とさえも厭うようになるだろう。そしてこう呟くのだ、
「われわれは合理的な生き物なんだ」
と。これがわれわれが望んだ「常ならざる生活」なのだろうか?わ
れわれが失くしたのは豊かさでも希望でもまた夢などではなく、そ
れらのものがそのように見えてくる生き方、つまり、「常なるもの」
を見失ったからではないだろうか?
* * *
「現代人には、鎌倉時代の何處かのなま女房ほどにも、無常といふ
事がわかってゐない。常なるものを見失ったからである。」
小林秀雄「無常といふ事」より
(おわり)
「あほリズム」
(170)
「味方は本能にあり!」
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