(九十四)

2012-07-11 08:47:57 | 「パソコンを持って街を棄てろ!」(九十一
                  (九十四)



 老先生との対談が載った雑誌が送られてきた。対談が短すぎて

ページが埋まらず、断わり無く顔写真を載せた旨のメモが入って

いた。早速ページを開いたら、記事の表紙に私の笑った口から剥

き出しになった、「ついでにとんちんかん」の抜作先生の様な、

スキッ歯が惜しげもなく写真に映っていた。私は、人の意見を信

用するかどうかと云う時に、必ずその人の顔つきを見て判断した

。それは恐らくマンガを描いていたからだと思うが、つまりキャ

ラクターが言動を生むのだ。ところが、この雑誌に載った抜作先

生の様なスキッ歯の私の顔を見て、読者が私の美術論を信じる訳

が無い。言ってる事と風貌が合っていない、つまり言「貌」不一

致なのだ。メディアの発達によって言論さえもキャラクターを無

視できなくなった。例えば、容貌が直ぐに浮かんでくる作家の恋

愛小説は、作家のキャラクターが邪魔をしてイメージが拡がらな

い事がある。もちろんその逆もあるだろうが、言論を第一に思う

者は決して自らを暴露してはいけない。そうでないと読者が、思

いを書き残したいという馬鹿げた事件の犯人を読む前に知ってし

まうからだ。

 老先生は早朝の散歩を日課にしていた。それは掛かり付けの医

者から歩くことを強く勧められたからだ。始めのうちは街の様子

や公園の景色も目新しく映って気も晴れたが、しばらくすると飽

きてしまい、遂に雨が続いた朝に億劫になって止めてしまった。

そしてホテルに在るフィットネスクラブのウォーキングマシンの

上を前に進むこと無く歩いたが、それも結局馬鹿らしくなって、

また退屈な散歩へ戻した。

「用も無いのに歩く様に為ったら人間は終いだよ。」

そう言いながらも、用がある時は決して歩かずに、近くてもタク

シーを使った。つまり、目的の無い時に歩いても、目的がある時

には歩こうとはしなかった。それでも今では、

「健康の為だ。」

そう言い聞かして毎日の歩数を数えていた。かつて歩くことは手

段だったが、今では目的に為ってしまった。健康の為には歩くこ

とが大事と解っていても、

「ただ歩く為に歩くのは実に虚しい。」

と言った。私はその話しを聞きながら「歩く」を「生きる」に置

き換えて考えた。それは目的を見失った今の時代を象徴している

ように思えた。

 目的も無くただ歩く者にとって東京は味気ない街だ。マンショ

ンの壁やガードレールに仕切られた歩道の先を見渡しても、これ

といった興味を引くものの何も無い、工場で大量生産された直線

と平面だけで出来た街だ。それらは合理的ではあるが我々は合理

的な存在では無い。我々自身の合理性を証す合理的な視点など無

いはずだ。合理性だけを高めようとする社会に疑いを感じた者は

、つまり人間性を取り戻した者は、気が付けば直線や平面に囲ま

れて逃げ場を失い、便器に落ちた蟻のように這い上がれないまま

、レバーを下げられて処理場へ流される。ホームレスになって彷

徨っている時も、まるで電子回路の中に迷い込んだキリギリスの

様に、自慢だった後ろ足は全く役に立たなかった。ひしめく華や

かなショップも、枯葉を札束に変える術を習得しなかった、ただ

の狸にとっては遠目から恨めしく眺めるしか無かった。それは、

コントロールされた食欲とコントロールする必要が無くなった性

欲を恨めしく思いながら、健康の為にただ歩くだけの老先生と思

いが通ずるところがある。しばらくして、例の出版社が中国の現

代アートの特集をするので、老先生に中国行きの話しを持ち掛け

て来た。老先生は中国なら散歩しても厭きないだろうと、健康上

の理由から同意した。老先生が腰に万歩計をぶら下げて中国の景

勝地をブラブラしている頃、

 「先生は居ないからそんなに慌てなくていいわよ。」

私は、女社長の粘膜から発せられた甘い誘惑に、交尾の後に命を

終える生き物の覚悟に似た決断で、心の奥底に隠していた彼女へ

の思いに動かされ、欲情を超えた抑えることの出来ない愛しさか

ら彼女を抱いた。

 恋愛は、愛を確かめ合ってから始まる。想いが通じたからとい

って想いが解消した訳ではなかった。今日が終わると明日が始ま

る様に、眠りから目覚めると新たな想いが芽生えていた。否それ

どころか更に想いが募って遂には耐えられなくなった。頭の中で

次々と記憶を甦らせて、彼女の言動に隠された本心を読み解こう

としていた。つまり、彼女は私と同じように私のことを想ってい

るのだろうか?それは自分勝手な妄想かもしれないが、確かめず

には居れなく為って電話をした。しかし、彼女の何とも冷たい応

対は、私の逆上せ上がった想いを鎮めさせるのに充分だった。私

は、もしかしてあの夜の記憶は幻想だったかもしれないと思った

ほどだった。人は言葉遣いや顔付きでも意志を伝える。彼女は、

仕事中はその表情に微塵も女性らしさを見せなかった。電話の声

はまさにその時の声だった。もしかして私は最終の実技審査で落

選したのかもしれない。男には常にその不安が過ぎる。私は自分

勝手な欲望を充たすばかりで、彼女の偽らざる想いなど知る術も

なかった。聞いても恐らく本音を語る訳などないだろう。男はこ

うして勘違いに気付かないまま、距離を置く女性に苛立つのだ。

女性は多くの襞を持つ。男は暗黙の審査に耐えなければならない

。帰るという彼女を朝まで引き止めたのは自分だった。今度は自

分の身勝手な言動が甦ってきて、果てしなく落ち込んだ。私は冷

静に考えて辛いことだが一夜限りの事と忘れようと思った。する

とそれまで見えなかった周りの事が見え始めた。彼女には子供が

居て、画廊の社長という仕事もあった。さらに老先生という公私

に亘るパートナーがいた。私はと謂えばマスコミに取り上げられ

て幸運にも絵が売れたが、それは決して認められた訳ではなかっ

た。この国ではマスコミが取り上げたらバカでも人気になるのだ

。私は自分の思い上がりに気付き、彼女への想いをまた心の奥底

へ封じ込めようと思った。気を紛らわす心算で、墨の濃淡だけで

抽象画を描いた。それは以前から考えていた試みだった。書から

文字の意味を無くせば画として伝わるのではないか?無心に取り

組んでいるうちに次第に彼女のことは忘れかけていた。

 そして三日後に、女社長から電話が来た。

「会いたい。」

それは社長の声ではなかった、女の声だった。

                     (つづく)  


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