「善悪の此岸(しがん)」
無限に拡がる世界の中で、つまり、無限に在る可能性の中で、一
個の自己が或る一つを選択を決定した時、それ以外の可能性を失う。
眠っている時は動けないし、飯を食いながら排便することはできな
い、また、ひとりの女を愛しながら別の女を想うことは罪悪感を生
む。我々にとって「よい」と「わるい」が認識される以前に、我々
は無限の中から或る一つの可能性しか選べないことによって選別を
強いられる。ここに留まることは同時に他所へ行けないことであり、
一人の女を愛することは世界中の女を諦めることであり、、神を信じ
る者はその教えに背くことはできないことなのだ。生命体とは常に無
限の可能性の中から自己の判断によって或る一つの選択を迫られて
いる。それは、ニーチェの言う「人類の道徳以前の時期」である。そし
て、選択した道が「よい」か「わるい」かは結果の成功・不成功から導
かれる。つまり、「よい」「わるい」は結果によってではなく、況して、「結
果の代わりに由来をもってする」以前に、この無限の可能性の中から
ただ一つの可能性を選別しなければならないこと、この選別こそが道
徳の起源ではないか。例えば、神への信仰を選んだ時、それ以外の
可能性を求めることは許されない。このAを選択する決断とA以外の
ものを放棄しなければならないことが「よい」と「わるい」の起源なのだ。
一つしか選べない世界内存在である単独者としての自己は、無限の
可能性の中からその選択を世界によって強いられている。生きること
とは無限の可能性の中から一つの選択を強いられることであり、そし
て道徳とは、それらがもたらす結果であり、それら過去の結果の形骸
化した由来でしかない。つまり、「善悪の彼岸」の前に「善悪の此岸(し
がん)」が存在するのではないだろうか。
追記、パソコン直りました。
ケケロ脱走兵