「無題」
(六)
車道の山側に道祖神が祀られそこから一本の岐道が山の奥へと向
かっていた。私の足は迷わず車道を外れた。
そして、山路を登りながら、こう考えた。
山々の谷間を流れて田畑を潤す恵みの雨も、或いはビルの谷間に
落ちて人々を憂れさせる怨みの雨も、いずれは河川を流れ下って共
に大海へと還っていくように、誰もがいずれは死へと還る。生きる
ことが如何に不平等であっても死の下では誰もが平等である。死は
等しく訪れる。たとえ他人よりも荒れ果てた道を歩んだとしても、或い
は思わぬ近道に出くわして安楽に歩き終えても、結局人生のゴール
は同じ死ではないか。死に至ることが生きることの結果であるとすれ
ば、果たして安楽に生きて何も為さず死ぬことなど望むだろうか。全
ての生き物は生まれながらにしてすでに生きる目的を叶えているのだ。
つまり、生きることが生きるものの目的なのだ。だとすれば、何を好き
好んで先人の後を追わなくてはならないのか。まず自分の意志で自分
の道を歩むことがより生きたことになるではないか。
ビッグバーンを始原として宇宙は無限へと膨張し続け、すべての
存在は宇宙の膨張とともに変化することから逃れられない。大分省
略するが、やがて地球が形作られそこに生命体が現れた。私とは、
変化によって生まれやがて変化によって消えていくひとつの現象で
ある。誕生も死も宇宙の変化によってもたらされた現象の変化である。
それは私という現象に所与された前提なのだ。
(つづく)