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「日本的な、あまりにも日本的な」

2010-10-19 02:43:09 | 赤裸の心
           「日本的な、あまりにも日本的な」


 最近のことですが、私はある農業法人のアルバイトの仕事を一ヶ

月余りの約束で手伝いました。五十代のオーナーは中国人の女子研

修生を使って人件費のコスト削減を図るなどなかなかのやり手でし

たが、四人いた研修生は中国での日本企業の従業員ストが起ったの

と機を一にして、七月頃に示し合わせて賃上げ要求のストを決行し

て作業をボイコットし、それがオーナーの逆鱗に触れ四人とも解雇

され中国に帰されました。そこで人手が足りなくなって雇われたの

ですが、私が始めた九月の半ばは未だ日中は日差しが強く汗ばむほ

どで、ところが日が落ちると途端に冷気が覆うほどの寒暖の差が激

しい山間地での野良作業でした。ある日、仕事を終えると私は直ぐ

に帰宅したのですが、最近に見習社員として雇われた他の三人は帰

り際にそのオーナーに捕まって黄昏の中の立ち話で懇々と仕事の話

しを聞かされたというのです。先に言いましたように日が落ちると

急激に冷たくなる外気の中で、汗をかいたままの彼等は寒くて、オ

ーナーの話しどころではなかったが、早く終わってくれないかとば

かり願って、何と!一時間余りもそこに立ち尽くしていたと言う。

私が「どうして寒いって言わなかったの?」と聞くと、彼等は未だ

新人なので、作業中も「社長が来た!」などと言っては話しを止め

るほど気を使っていたので、熱心に語るオーナーに対して水を差す

ようなことは言えなかったらしい。次の日の朝、その中の一人が風

邪を理由に仕事を休みました。彼は二、三日前の雨の日にも雨合羽

を着ずにずぶ濡れになって作業していたこともあって、ただその日

は身体を動かしながらだったから寒さに耐えられたのですが、黄昏

の山の中での立ち話はさすがに堪えたようです。みんな震えながら

聞いていたと言ってました。その日の休憩時間に、オーナーはそん

なことなど露知らず、「雨の中で合羽も着ずに作業するからだ」と、

雨の日の出来事が原因だと信じて疑わず、風邪を引いた者と一緒に

立ち話を聞かされた男性に同意を求めました。すると、オーナーに

話し掛けられた男性は迷うことなく「そうですね」と答えて、黄昏

の立ち話のことは一切口にしませんでした。私はそれを横で聞いて

いて、何と日本的な配慮だと呆れ返ってしまいました。きっと、こん

な馬鹿げた気遣いが未だ日本の至る所で上意下達の一方通行のすれ

違いを惹き起こしているのだろう。

                          (おわり) 


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「公務員の驕り」

2010-04-22 06:48:46 | 赤裸の心
                  「公務員の驕り」     


 我々は遠い過去に拘(こだわ)るくせにすぐ昨日のことを忘れる。

それは記憶のどこかで繋がっているのかもしれない。バブル崩壊後

の当時、金融危機は日本の経済力からすれば大した危機ではないと、

政治家或いは経済人、マスコミまでが挙って日本経済の回復を楽観

的に語っていた。しかし現実は、世界一の金持ちになった祝いのク

ス玉を、恰(あたか)もイルカが水面から飛び上がって鼻先で割った

後、そのまま水中深く沈み込むように、我々はその後の20年間に

桁外れの借金を残してしまった。

 その間には何度も構造改革が叫ばれたが、言葉どおり行政の無駄

を削っていれば、恐らくすでに日本政府は消滅しているに違いない

が、ところが未だに相も変わらず行政刷新が叫ばれ天下りに手を焼

いている。そもそも公務員の給与を民間並に扱う事自体に大きな矛

盾を感じる。民間とは何れも競争社会の中で勝った者だけが生き残

り、その背後には倒産に追い込まれた会社や利益の上がらない会社

がごまんとある。ところが、公務員はそんな淘汰される不安もなく

勝ち残った会社に伍して高給(税金)が支払われる。つまり競争もせ

ずに勝者の報酬を得ているのだ。たとえば能力に対する正当な報酬

だと言うならば、能力とは成功を収めて始めて評価されるのが世間

で、高学歴や国家資格があるからといってその能力を保証するもの

ではない。医師免許さえあれば開業できて待合室に患者が並び高額

な報酬が手に入ってくることにはならない。医者だって競争に曝されて

いて評判が悪ければ廃業せざるを得ない。そもそも競争のない公務

員の能力に対するそういった評価そのものが難しい。しかし公務員に

は破格の報酬が支払われない代わりに、倒産や解雇の不安から守ら

れているではないか。一方で能力があっても思わぬ倒産の憂き目に

逢ったり、また学歴が何の役にも立たずに解雇される民間会社の社

員はそれこそ「ろくまん」と居る。世間では一生懸命働いたからといっ

てまず報われることの方が稀なのだ。浮き沈みのない安定した公務

員を選んでおいて、そのことを忘れて、高学歴や肩書きを翳して、民

間企業の要職に並ぶ高額の報酬(税金)を求めるのは、まさに公務

員の驕りである。

                                 (おわり) 
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「原因と結果」

2010-04-13 07:47:41 | 赤裸の心
                  「原因と結果」


 他人の文章をコピペして、然(さ)も自分の認識であるように衒

(てら)うのは厳に慎むべきだと諌めながら、再びニーチェの言葉

を掲載します。ニーチェは、人々の共感とか同感といったものにこ

そ埋めることの出来ない決定的な隙間が存在する、と言ってた様に

思います。以下は「悦ばしき知識」第三章(一一二)からですが、

後の私の感想はニーチェが同意した訳ではありません。



           (一一二)

「原因と結果。――認識や学問の昔の段階に対し、現在のわれわれ

のそれを際立たしているもの、それをわれわれは「説明」と呼んで

いるが、実はそれは「記述」なのだ。われわれは以前より記述にか

けては上達した――だが説明にかけては昔の人々みなと同様ほとん

どなすところがない。昔の文化の素朴な人々や研究者が「原因」と

「結果」という二様のものをしか見なかったところに、われわれは

多種多様の継起の連鎖を見つけだした。われわれは生成の表象を完

全なものに仕上げはしたが、その表象を超えて、その表象の背後に

達することはなかった。「諸原因」の系列は、どんな場合にも、以

前に比べてはるかに完全にわれわれに明かになっている。われわれ

は推論する、あのことが結果として起こるためにはまずこれこれの

ことが先行しなければならない、と。――だがそれでわれわれは何

ひとつ把握したわけではない。質、たとえばあらゆる化学上の変化

における定性のような質は、今もってなお一個の「不可思議」のよ

うに見える。そうしたことはすべての移行運動においても同様に見

られるものである。つまり、誰ひとりその推進力そのものを、「説

明」するわけにはゆかない。われわれとてもどうして説明などでき

よう!われわれは、線とか平面とか物体とか原子とか可分的時間と

か可分的空間とかいった、実のところ在りもしないものばかりを借

りて操作する、――われわれが一切をまずもって表象に、われわれ

の観念像に化してしまうかぎりはどうして説明などが可能となろう

ぞ!科学をば事物の可能なかぎりそっくりそのままの人間化と見る

だけで、ことすむわけだ。われわれは事物とその継起を記述するこ

とによって、いよいよ精確にわれわれ自身を記述することを習得す

る。原因と結果、といったような二元性は、おそらくありはしない

のだ――実際そこにあるのは一つの継続態なのであり、その若干の

部分をわれわれが分離させるのだ。それは、われわれが運動という

ものをいつも分離した多くの点としてだけ知覚し、したがって実は

運動を見るのではなく、これを推論しているのと、同様である。多

くの結果が突然にはっきりとあらわれてくるその突発性が、われわ

れを誤らすのだ。だからとてそれはわれわれにとっての突発性であ

るだけのことだ。われわれには捉えかねるこの突発性の刹那のうち

には、無量無限の経過がふくまれている。原因と結果を、われわれ

流儀にべつべつばらばらの分割態と見るのでなしに、これを一つの

継続態として見るような知性、つまり出来事の流れを見るような知

性が、もしあるとすれば、――それは原因と結果といった概念をは

ねつけ、一切の被制約態を否認するだろう。」

        「悦ばしき知識」ニーチェ全集⑧ちくま学芸文庫
                 ニーチェ(著)信太正三(訳)

 我々は、――私がこの「われわれ」という言葉を使い過ぎるきら

いがあるのは多分彼の影響と思われるが、それでも、――我々は、

木を見て森全体を認識できないし、森を見て一本一本の木の違いを

認識することもできない。原因と結果による認識とは一本の木を見

ているに過ぎない。「われわれには捉えかねるこの突発性の刹那の

うちには、無量無限の経過がふくまれている」のだ。一本の木が倒

れた結果はたった一つの原因からではない。そこには無量無限の経

過がふくまれているのだ。原因から結果が導き出せると考えるのは

人間が納得する為の表象化された記述にすぎない。恐らくは分析に

頼る学問について言っているのだと想われるが、そうは言っても「

出来事の流れを見るような知性」などという超能力のようなものは

誰も持ち合わせていない。カエルはカエルの目で、カエサルのもの

はカエサルへ返さず、あっ!ちがう、カエサルはカエサルの目でも

のを見るしかない。(プロバイダーが「ぷらら」なんでちょっと宣伝)

つまり、我々は我々の能力を超えて認識することなどできない。

 彼は「線とか平面とか物体とか原子」までも「実のところ在りも

しないもの」とまで言う。そんなものは人間が観念化した表象にす

ぎない。そもそも点とか線というのは我々が事物から取り出した概

念である。そして平面でさえ重力がなければ簡単にイメージされな

い概念である。無重力空間で浮遊する者は平面の概念など浮かば

ない。そして我々もそもそも重力が無ければ存在しないのだけど、

我々は「重力の魔」に閉じ込められた身体性の中で世界を想像して

記述してるのだ。魚が水面下から水上を覗き上げて水の無い空間を

「水中の世界に例えて」語るようなものだ。それらは恐らく誤りであろう。

それではどうすればそんな知性、我々の身体性を超えた能力、を獲

得することができるのだろうか。どうすれば事物の「不可思議な」「推

進力」を記述でなく説明することができるのだろうか。神に預ければ

簡単だが、神を殺した彼の認識はもはや神に縋るわけにはいかない。

然りとて認識は同じ道をグルグル回るばかりで何れペシミズムに陥る。

まさに「前門の虎、後門のオオカミ」ならぬ、「前門のカミ、後門

の『虚』無」に阻まれて、彼は超人となって空を飛ぶしか逃れる道

がなかった。彼の「超人」思想とは、認識によって神を否定しペシ

ミズムを避けたが、それに代わるものを見つけられず、追い込まれ

た状況で生まれた、のかもしれない。だって超人なんて人間の否定

以外の何物でもないし、結局彼は認識による「推進力」の説明を超

人に預けてしまい、遂には人間まで否定した。それは、サルトルの

「実存は本質に先行する」という諦めにも近い言葉にも近い。本質

を追い求める哲学が本質を追い求めても実存に至らなかった、って

ことだよね。それって一つの結論かもしれないが哲学の敗北宣言じ

ゃないか。だからボク的に言うと、「本質は認識に先行する」。つ

まり、認識では世界は解けない、って、これも敗北宣言だけどね。

結論を言えば、あまりニーチェに心酔するととんでもない人生にな

っちゃうよ、ってこと。何しろ彼が言う「超人」思想とは、人間の

破滅に他ならないからだ。

 最後に、ニーチェのこんなアフォリズム、

 「ひとは、答えの見つけられる問いだけに耳をかすものだ。」

              (一九六)『われわれの聴覚の限界。』
                          同書より

                           (おわり)
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「刑務所の中で」

2010-04-06 15:31:19 | 赤裸の心
           「刑務所の中で」


 私はパソコンの横に数冊のニーチェの文庫本を置いて、パソコン

に飽いた時、当てずっぽうに開いて彼の言葉を読んでいる。座席の

左側に置いているので「座右の銘」ならぬ、「座左の書」である。ただ、

何を言っているのか理解出来ないことの方が殆んどで、偶に共感を

得た時の歓びは計り知れない。

 以下は、彼の「曙光」一一七からの文章である。

「刑務所の中で。――私の眼はどれほど強かろうと弱かろうと、ほ

んのわずかしか遠くを見ない。しかもこのわずかなところで私は活

動する。この地平線は私の身近な大きな宿命や小さな宿命であり、

私はそこから脱走することができない。どんな存在のまわりにも、

中心点をもち、しかも存在に固有であるような、ひとつの同心円が

ある。同様に、耳がわれわれをひとつのちいさな空間の中に閉じこ

める。触覚も同じことである。刑務所の壁のように、われわれの感

覚がわれわれの一人一人を閉じこめるこの地平線に従って、われわ

れは今や世界を測定する。われわれは、これは近くあれは遠い、こ

れは大きくあれは小さい、これは硬くあれは柔らかい、と呼ぶ。こ

の測定をわれわれは感覚と呼ぶ。――何もかも誤謬それ自体である

!われわれにとって平均してある時点に可能である多くの体験や刺

激に従って、われわれは自分の生を、短いとか長いとか、貧しいと

か富んだとか、充実しているとか空虚であるとか、測定する。そし

て平均的な人間の生に従って、われわれはすべての他の生物の生を

測定する。――何もかも誤謬それ自体である!われわれが近い所に

対して百倍も鋭い眼をもつとすれば、人間は途方もなく高く見える

ことであろう。そればかりか、それによると人間が測定されないと

感じられるような器官を考えることができる。他方、太陽系全体が

狭まり、締めつけられて、たったひとつの細胞のように感じられる

ような性質を、器官がもつこともありうるであろう。そしてそれと

反対の組織をもった存在にとっては、人間の身体のひとつの細胞は、

運動や、構造や、調和の点で、一個の太陽系であることを示しうる

であろう。われわれの感覚器官の習慣は、われわれを感覚の欺瞞に

紡ぎこんだ。これらの感覚器官は、再びわれわれのすべての判断と

「認識」の基礎である。――現実の世界への逃走も、すりぬける道

も、抜け道も、全くない!われわれは自らの網の中にいるのだ、わ

れわれ蜘蛛は。そしてわれわれがそこで何をつかまえようとも、ま

さしくわれわれの網でつかまえられるもの以外には、何もつかまえ

ることができないのだ。」

ニーチェ全集⑦ちくま学芸文庫「曙光」一一七「刑務所の中で。」
茅野良男(訳)

 われわれ蜘蛛は、能力を超えた認識など持ち得ない。従って我々

が世界を知り得ないのは、我々がその能力を持ち合わせていないか

らだ。つまり、「実存は本質に先行する」限り、本質は実存の部分

を語れても全体は語れない。何故なら、

「一、未知の事物の認識と確実性に到達するには、認識と確実性に

おいてその未知の事物に先立つほかの事物の認識と確実性によるほ

かない。」からである。
       
スピノザ(著)「デカルトの哲学原理」畠中尚志(訳)から
岩波文庫(青615-⑧)
「幾何学的方法で証明された哲学原理」第一部(公理)より

                                   (おわり)

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 「アタラクシア」改稿

2010-03-06 00:10:22 | 赤裸の心
        「アタラクシア」改稿

 


 フランスの思想家ジャン・ジャック・ルソー(1712~78)

は「人々の間における不平等の起源と基礎に関する論文」の第二部

の冒頭に以下の記述を残している。

「ある土地に囲いをして『これはおれのものだ』と宣言することを

思いつき、それをそのまま信ずるほどおめでたい人々を見つけた最

初の者が、政治社会〔国家〕の真の創立者であった。杭を引き抜き

あるいは溝を埋めながら、『こんないかさま師の言うことなんか聞

かないように気をつけろ。果実は万人のものであり、土地はだれの

ものでもないことを忘れるなら、それこそ君たちの身の破滅だぞ!』

とその同胞たちにむかって叫んだ者がかりにあったとしたら、その

人は、いかに多くの犯罪と戦争と殺人とを、またいかに多くの悲惨

と恐怖とを人類に免(まぬが)れさせてやれたことであろう?」

(岩波文庫「人間不平等起源論」本田喜代治・平岡昇訳)

 ルソーは晩年その著作によって迫害され不遇のうちに一生を終え

たが、彼の思想は後の人々を啓蒙して市民革命が起こり民主主義の

実現に大きな影響を与えた。更に、近代社会はその根本に於いて彼

の人権思想が色濃く反映され、今では彼が迫害を逃れて孤独な散歩

者として夢想した道はジャン・ジャック・ルソー通りと名付けられ

ている。私は、近代を見直すに当たってはルソーから始めるべきだ

と思って上の本を読んだ。ただ告白すれば、時間が無くて彼の全て

の本を読んでいないので恐る々々言うのだが、我々はルソーの思想

を克服せずに西欧の近代社会を真似たことがそもそもの間違いだっ

たのではないだろうか?つまり、我々は社会を語る前にまず人間そ

のものを知るべきなのだ。同じ著作の中でルソーは、未開のカライ

ブ(カリブ)人と文明人を比較して、文明人を、

「世の中の人々が自分をどう見ているかということを相当に重んじ、

自分自身よりもむしろ他人の立証に基づいて幸福になり、自分に満

足することのできるような種類の人間」だと言い、「社会に生きる

人は常に自分の外にあり、他人の意見のなかでしか生きられない。

そしていわばただ他人の判断だけから、彼は自分の存在の感情を引

き出しているのである」

 さらに、ちょっと文脈がおかしいが、

「このような傾向から、あんなに立派な道徳論がいくつもあるにも

かかわらず、どうして善悪に対するこれほどの無関心が生まれてく

るか、また、どうして、あらゆるものが外観だけのものになってし

まったために、名誉も、友情も、美徳も、そしてしばしば悪徳まで

もついにはそれを誇りとする秘訣を見いだすようになり、それらす

べてが人工的で演技的になってしまったのか、要するに、あんなに

多くの哲学や人間愛や礼節や、崇高な格言のさ中にいながら、どう

してわれわれは何であるかという問いを始終他人にむかって問いつ

づけ、しかも、けっしてそれをわれわれ自身にむかっては問おうと

しないで、われわれは偽瞞的で軽薄な外面、つまり徳なき名誉、知

恵なき理性、幸福なき快楽だけをもつことになったのか」

と批判したが、何と!これは将に我々の社会のことではないか。栄

盛の至りには国の異なりを問わず等しく枯衰の末路を辿る運命なの

か。

 私は、常々日本人から社会を奪えば日本人は消滅するだろうと信

じて疑わないが、つまり孤独な日本人など存在しない、否、喩え居

たとしてもそれは社会から逸(はぐ)れただけに過ぎない。我々は

社会に生まれ、社会の為に生き、社会を惜しんで死んでいく。我々

の成功とは社会的成功を言い、我々の正義とは社会正義であり、我

々の真実とは社会的真実だけである。我々にとって社会こそが生き

る目的である。しかし、果たしてそうだろうか?人間は自らを生き

ることこそが目的であって社会とはその為の手段に過ぎないのでは

ないだろうか?ジャン・ジャック・ルソーは、社会的な身分や生い

立ちと言った素性を生む以前の、人々が助け合うということがその

場限りのことであった、従って義務や責任などが生まれる暇のない

時代の自然人にまで遡(さかのぼ)って、如何にして社会が形成さ

れたかを記述している。彼は人間を個人として捉えその本質を「非」

社会性に求めた。つまり、社会とは個人を補う為のものではないか。

それでは自然人とはいったい何の為に生きていたのか?彼は「自然

がもしわれわれを健康であるように運命づけたのなら、私はほとん

どこう断言してもいい、思索の状態は自然に反する状態であり、瞑

想する人間は堕落した動物であると」まで言っている。つまり、意

識や感情に「道徳」とか「愛」とか言葉をつけて思索する様になっ

たのは即ち人間が堕落したからである。人間が堕落した動物か進化

した動物かはまあ同じようなことだが、ただ思索とは社会的な行為

なのだ。そしてその社会的な思索によって得られる結果は当然の如

く社会的な結論に帰着する。だから「何の為に生きるか?」という

懐疑こそが社会的な瞑想なのだ。何故なら自然人は存在することに

懐疑など抱かない。コギト(cogito ergo sum)は堕落した人間の

瞑想である。

 社会こそが生きる目的である我々日本人もまた、自分が人間か蛙

(かわず)か知らないまま一生を終え「自分とは何か?」などと問

わない。我々が哲学と信じる儒教などは所詮処世訓に過ぎない。そ

れは我々が在るがままに生きる自然人を経ずに先ず国が存在したか

らだ。「この土地に囲いをして『これはおれのものだ』と宣言する

ことを思いつき、それをそのまま信ずるほどおめでたい人々を見つ

けた最初の者」によってこの国が創られた。ところが、この国には

残念なことに、杭を引き抜きあるいは溝を埋めながら、「こんない

かさま師の言うことなんか聞かないように気をつけろ。果実は万人

のものであり、土地はだれのものでもないことを忘れるなら、それ

こそ君たちの身の破滅だぞ!」とその同胞たちにむかって叫ぶ者は

現れなかった。その結果、自分自身を知る前に社会を知り、孤独を

怖れて社会が絶対となった。ただ、日本にもルソーに比する思想家

が存在したが「おめでたい」人々はすでに聞く耳を持たなかった。

つまり、我々の歴史はルソーの言う堕落した動物から始まってしま

ったのだ。

 そして今や我々の精神のミッションにはニュートラルが存在せず、

常に力の強い方にオートマチックにシフトチェンジする自動制動装

置まで付いている。我々は孤独を怖れるあまり易々と社会に阿(お

もね)って、そしてそれが更に自分自身を見失う原因となってしま

った。そもそも意思のある生物は孤独な存在である、否、孤独こそ

が意思を生むのだ。寧ろ社会との連帯を求めるから孤独に耐えられ

ないのだ。自分自身と共に在れば孤独ほど他人に邪魔されずに自由

で幸福な時間はない。自分を自身以外の一切から切り離し、自らの

存在そのものを快く楽しむ。エピクロスの言う「アタラクシア(平

静な心)」こそが孤独の快楽である。悟りを求める、従って瞑想す

る「禅」とは違う。自らの手によって感覚をニュートラルにチェン

ジして、自分自身を感覚する楽しみ「アタラクシア」を取り戻そう。

と言うのはルソー曰く、自分自身との一体感は自然人にとっては当

たり前のことだからだ。すると孤独の不安が薄れ自分だけの世界が

広がり、社会が遠くに去っても自分自身を見失うことがなく、やが

て「井の中」だけが世の中ではないと気付くのではないだろうか。

                                (おわり)

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