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「対馬が良い」

2010-02-03 11:45:17 | 赤裸の心
              「対馬が良い」



 産経新聞は【対馬が危ない】というキャンペーンを去年あたりま

で張っていたが、それによると「韓国人が対馬の不動産を次々と

買収している」と云う。いずれは対馬を占領するつもりではないか

と伝えている。実際、対馬は韓国の領土だと主張する者まで現れ

ているらしい。更に、朝(雲)新聞では「2009年1月26日、対馬

市長と同市会議長は防衛省を訪問し防衛大臣宛てに対馬の自衛

隊を増強するように自衛隊誘致・増強提案書を渡した。」

 ただ、記事云々よりも「朝(雲)新聞」なる新聞社が存在するこ

とを知らなかったので笑ってしまった。ウィキペデイアによると「

防衛省・自衛隊関連のニュースを主とする」ちゃんとした「日本の

新聞」らしい。成る程それで「朝雲」なんだ、確かに「朝日」が出

るのを遮(さえぎ)っているし。中国人はこういうパクリ方を見習

わないと。笑いが逸脱を容認するんだ。「まあそんな堅い事仰らん

でもよろしいやおへんか」。今や「褒め殺し」では無く「笑い殺し」

の時代なのだ。

 そんな事よりも、普天間基地の移設問題は迷走しているが、それ

ならなぜ対馬が候補に挙がらないんだろうか?私は「対馬が良い」

と思うんだが。対馬海峡を通過する中国やロシアの艦船も捕捉し易

いし、東シナ海や日本海にも繋がっているし、(聞こえては拙いが)

中国や北朝鮮を監視出来るし、国境の防衛にもなるし、土地はある

んだし対馬にも金が落ちるだろうし、過疎も解消すだろうし、東ア

ジアの抑止力として、アメリカの海兵隊にとっても日本の防衛にと

っても対馬の現状にとっても、何よりも軍隊に苦しんできた沖縄に

とっても良いことではないのかな。これ以上は門外(感)で言えな

いけれど、なぜ対馬の市長は手を上げないのかな?私は普天間の米

軍基地を移設するのなら「対馬が良い」と思うんだけど。

                                  (おわり)

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「もどかしさ」

2010-01-31 00:56:45 | 赤裸の心
             「もどかしさ」



 過去の戦争の話しは、語る者も聞く者もある「もどかしさ」を感

ぜずにはいられない。語る者は平和な時代にその悲惨さをどう伝え

ていいのか解からない「もどかしさ」があるだろうし、聞く者も体

験のない話しにどう応えればいいのか解からない「もどかしさ」が

伴う。もちろんそれはこの国が平和であったからこそであるが、し

かし、それとは別にあの敗戦の総括についての「もどかしさ」が未

だ残されているからかもしれない。それまでこの国にも数多の武勇

伝が語られ、大概は眉唾だが、それでも聞く者は拳を硬くして相槌

を打ったものだが、降伏を受け入れない限り負けることは無かった

筈のあの敗戦から、悲惨な体験を語ることすら「自虐」的だと非難

され、その事実さえ半世紀を越えても「あった」「なかった」と揉

めているのを見ると、「もどかしさ」から面倒臭くなってしまう。

果たして省みて過ちを改める心算があるのだろうかと訝しく思う。

批判が国体に及び体制が改められることに危惧の念を抱いてのこと

だろうが、そんな「もどかしさ」の中から日本人の誇りが生まれて

来るとは思えない。事実を曖昧にして「もどかしさ」だけが残り、

再び権力者が同じ過ちを、国民に玉砕を強い、生きる意味に悩む若

者を自爆へと追い遣った「自爆史観」だけは、他国の自爆テロを非

難するのであれば決して許してはならない。純粋故に国家の為に殉

じようと逸る(はや)る若者達を諭す事も出来ず、ただ感涙に咽び

ながら見送った大人達の安っぽい美学こそ非難されるべきだ。人は

死ぬ為に生まれてくるのではない、生きることは本能である。「是

非など無い」のだ。まして若者に逡巡がない筈が無い。この国の親

達は自分の過ちを我が子の命で償わせてきたのだ。敢えて言うなら、

子供は親の為に生まれて来るのではない。若者が自分を殺さなけれ

ば生きられない社会の「システム」ではないだろうか。若者達こそ

はこの国の死に腐ったデカダンス文化を破壊し、そこから新しい社

会を再生させなければならない。

 現実に目をつぶる我々の習性は、戦後の社会にも受け継がれて、

子供達の未来を質草にして毎年莫大な借金を残し、少子化を嘆きな

がら、一方で多くの適合出来ない人間を間引ている。この国では親

の手形が無ければ通行も儘ならないのだ。コネを持たない者の多く

は社会に出て直ぐに自分が間違って生まれて来たことを知る。そん

な醒めてしまった人々が自分の子供に夢を語れるわけがない。それ

でも現老院による政治は過ちを改めることなく未だに「あった」「なか

った」を繰り返して、我々はまたしても曖昧な「もどかしさ」の中で生

きなければならない。さすが先進国の日本では事実は観察する者

によって異なって現われるのだ。我々は真実を語る勇気を、「自爆」

自棄による無差別殺人の大罪を懺悔して、同じ過ちを繰り返させな

い為に事実を語ると述べた加藤被告を見習わなければならない。

                                    (おわり)

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(百四)の余談

2009-12-06 13:20:54 | 赤裸の心




「余談」



 かつて東京の南端の川岸に居た時、下りの次の駅は河を跨いで隣

県になる駅ビルの本屋で、その頃熱烈に傾倒していた小林秀雄のラ

イフワークとも云うべき「本居宣長」の新刊書を、それまでは彼の

文庫本しか買ったことがなかった、平積みされたその新刊書を手に

しては、「否やっぱりこれは難しそうだ」と言っては元へ戻し、そ

れでもどうしても欲しくって戻って来ては手にして、「やっぱり高

いよ」などと思っていると、その店の店長らしき人が、恐らく新人

の店員さんを連れて私の後ろに来てこう言った。

「この本はもっと高く積まないといけないだ、二列で。うるさいん

だよ小林秀雄」

するとその新人の店員は私と同じ疑問を口にした。

「来るんですか小林秀雄」

店長らしき人は空かさず、

「しょっちゅう。こんな所まで見に来るんだよ、それで積まれてい

なかったら文句を言うんだ。家に帰る途中に立ち寄るらしいよ。ほ

ら、家、鎌倉だから」

 私はすぐ後ろで交わされた会話を一言一句覚えている。それが本

当の事なのかどうかは店長らしき人に確かめた訳では無いので何と

も言えないが、ただ、私はその後「本居宣長」の本の前で思案する

ことはなかった。もともと「本居宣長」と云う人物に興味も無かっ

たし、そもそも彼の名前を知ったのは国学者・平田篤胤が夢の中で

彼に膝まずいて対面している絵を見たことがあったからでそれ以上

の知識は無かった。それでも小林秀雄の一面をそんなかたちで知ら

されたことは随分頭から離れなかった。数年後、小林秀雄は亡くな

った。小林秀雄の本を見ると何時もあの時の本屋の店長の言葉を

思い出さずには居れない。

「うるさいんだよ、小林秀雄」

                         (おわり)

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「バッタ物(もん)のチャイナ」

2009-12-06 11:30:20 | 赤裸の心
「バッタ物(もん)のチャイナ」

                  
 「経済の豊かさ」とは「豊かな社会」がなければ成り立たない。

「豊かな社会」とは公平公正が守られた秩序のある共同体である。

共同体とは共生を図る為に存在する。競争を計る為ではない。競い

合うのになぜ共同する必要があるか。社会の中では「共生は競争に

先行する」のだ。我々は何処かで「共生」を「競争」と「言いまつ

がい」してしまったのだ。権力者が力を縦(ほしいまま)にして富

を蓄えても、その行いによって国民に不信が蔓延し社会秩序が乱れ

る。いずれ誰もが利己的になり共生が見捨てられていく。絶望に耐

え切れなくなった者は命を棄てる覚悟で、つまり「自己責任」で、

社会に対する怨嗟を晴らす。そんな社会によって裏書された「豊か

さ」は何れ価値を失うに違いない。大金を掴んで無人島に逃げても

何も役に立たないのだ。当たり前のことだが「社会は経済に先行す

る」のだ。例えば中国は経済発展の渦中にあるが、このまま進めば

経済優先の結果格差が拡がり、遂には不平等や不正が蔓延り秩序が

破綻して、すでにそうなっているが、何れ社会秩序の破綻によって

経済バブルが崩壊するだろう。泡立て器を回し過ぎてバッタ物のチ

ャイナ(陶磁器)が壊われてしまうのだ。彼らは「暮らし」を見失っ

て「豊かさ」だけを追い求めているが、秩序とは「暮らし」の中か

ら生まれてくるのだ。器がなければ泡も立たない。何れ「豊かさ」

は水泡に帰して「暮らし」は新しい器(うつわ)に移し変えられる

だろう。つまり社会体制が転換するのだ。かの著名な経済学者が予

想だにしなかった逆転換が起こるのだ。彼が予言したかどうか知ら

ないが民主主義を伴わない社会主義は成り立たないのだ。ただ、対

岸の火事で済まないのは、泡立て器を手にした中国人のバッタ屋が

この国の器(社会)を求めて大挙跳梁すること気掛かりだ。その時に、

この国の国民は「我々の社会は秩序が経済に優先する」と毅然と退

けることが出来るだろうか。それとも背に腹は代えられないと、この

瀬戸際の経済を掻き回してもらおうと、「跳梁バッタ」に進んで瀬戸物

を差し出すだろうか。圧倒的な人の量と、俄に降って湧いた「豊かさ」

によって、何れ日本を代表する企業が中国人によって買収され、東京

がチャイナタウンになり、領土の一部が(一部だといいが)合法的に占

領される日も近いのかもしれない。つまり、我々がかつて彼らに行った

ように彼らも行うのだ。     (おわり)

 バッタもん・・・「ばった」は、「投げ売り」を意味する古道具商の
          隠語であった。そこから、商品を格安で売る店を
         「バッタ屋」と呼ぶようになり、正規ルートを通さず
          仕入れた商品を売る店も、「バッタ屋」と呼ぶよ
          うになった。
          さらに、「バッタ屋」で売られている物を、「バッタ
          もん」と呼ぶようになり、正規ルートの仕入れ商品
          でないことから、偽物商品や粗悪品なども「バッタ
          もん」と呼ぶようになった。
          古道具商の間で「投げ売り」を「ばった」と呼ぶよう
          になった由来は、バタバタ勢いよく落ちたりするさま
          を表す「ばたばた」「ばったばった」「ばったり」など
          の擬態語からと考えられる。
                               「語源由来典」
                    gen.official-blog.jp/about/より
         
         ちなみに関西では「パッチもん」という言い方が良く使
         われるが、その由来は諸説あってここでは省略します。
                                 ケケロ脱走兵

                                  (おわり)

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「自虐道徳」

2009-11-09 01:38:14 | 赤裸の心
   「自虐道徳」




 我々の「自虐道徳」は、目上の者に諂(へつら)い目下の者を軽

(かろ)んじ、やがて「自己本位」を失い、遂には自己を社会に委

ねてしまう「自虐文化」を育んだ。断わっておくが、私は孔子を尊

敬しその箴言は座右の銘にもしている。ただし、キリストであれ釈

迦であれ、実際は彼らは一言も残していないのだ。論語も聖書も仏

典も、彼らに随う弟子達がその後の時代に阿(おもね)って都合良

く「加上」したのだ。(『出定後語』富永仲基) つまり、この国の

儒教道徳とは武士の封建社会を守る為に作られた身分秩序で、孔子

は全く与り知らないのだ。彼が生きた春秋戦国時代はその名の通り

戦乱の時代で、彼は秩序を取り戻す為に道徳を説いたが、それは封

建的な時代の秩序で、今日の民主的な時代に当て嵌めるのは一寸違

うんじゃないかと思う。我々は、「昔は良かった」と言う時には、

より多くの悪いことは忘れてしまうのだ。そして良かったことだけ

を移すことなど出来る訳が無いのだ。儒教は、その時代の墨子でさ

え差別秩序だと批判した。そんな差別道徳の下では、目下の者は立

場を弁(わきま)えて自己主張を慎み、空気を読んで、王様が裸で

あることさえ言え無くなる。こういった「自虐道徳」を改めるには

礼儀や言葉遣いの在り方を簡素化するべきではないでしょうか。個

人を卑屈にさせる「自虐道徳」を棄て、それぞれが対等の立場で語

れる民主的な社会に改めるべきです。つまり、この社会を覆う重苦

しい空気を変えようではありませんか。そうは言っても、目下の者

に「ため口」で話されたらムカッ!とくるのは長い間に培ったアジ

ア民族の遺伝子だから仕方ない。我が国の文化とは支那を真似た冠

位十二階の古(いにしえ)より、連綿たる身分差別の文化に、犬の

ように躾けられたきたのだ。年功序列や身分差別、男尊女卑や官尊

民卑に止まず、血統書や続柄までも気に兼ける始末だ。そこで、分

別のある立場に居る方々にお願致します。つまり、あなた方こそが

遜(へりくだ)って、我々目下の者と対等の礼儀や言葉遣いを慮っ

て戴けないでしょうか?それこそ所謂日本的な「惻隠の情」に適っ

たやり方ではないでしょうか。何れ、時代掛かった手続きや大仰な

物言いにお互いがウザくなって、気兼ねなく目上の人の裸も教えら

れる様に為るのではないでしょうか。人間は言葉によって誤りを正

すのです。我々は言葉遣いから対等に正すべきではないでしょうか

。犬のような群れ社会から対等に言葉を交わせる、個人が自立した

社会を築くべきではないでしょうか。そもそも犬畜生ならいざ知ら

ず、人の道徳とは目下の者に強いるものでは無く、目上の人こそが

率先して行うべきではないでしょうか。選挙前には平身低頭してい

た人物が、地位を手にした途端、手の平を返すように威圧的な物言

いをするのを見ると、この国の似非(えせ)民主主義を目の当たり

にした思いがします。彼らは主権者の代表であることすら忘れてし

まうのです。つまり、民主主義の下で道徳を弁(わきま)えるべき

は、誠に恐縮ですが、人の上に立つ方々の方ではないのでしょうか?

 身分を弁えない出過ぎた意見ですが、どうか御配慮戴きます様、

宜しくお願い致します。

                         (おわり)

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