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音楽全般について 素人臭い能書きを垂れてます
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ベルク ヴァイオリン協奏曲/シェリング,クーベリック&バイエルンRSO

2009年12月02日 23時47分04秒 | マーラー+新ウィーン
 昨夜、久しぶりに聴き入ってしまったベルクのヴァイオリン協奏曲、昨夜はグリュミオーとマルケヴィチが組んだ1967年の演奏だったけれど、今夜はシェリングがクーベリック率いるバイエルン放送響と組んだ演奏を聴いてみた。ちなみにグリュミオーの翌年、つまり1968年録音である。ベルクのヴァイオリン協奏曲はその叙情性から、新ウィーンが再評価される前から比較的取り上げられる機会の多かった作品だったとは思うけれど、60年代後半にフィリップスではグリュミオー、グラモフォンではシェリングという、当時のトップスターを起用して同曲が録音されたというのは、何か理由でもあったのだろうか。カラヤン、ラサールなどを起用して、新ウィーン楽派の音楽をまとめて取り上げられるのは、もう数年後だったような気がするのだが....。

 さて、この演奏だが、ディスクを購入したのはずいぶん昔だが、ほとんど初めて聴くようなものである。「へぇ、こんな演奏だったのねー」という感じ。グリュミオーとマルケヴィチの演奏は、甘美で艶やか、もうエレガントといいたいようなグリュミオーに対して、マルケヴィチはどろどろとした無意識を白日の下に晒したような粘着質なサウンドを展開して、普通だったら水と油になってしまいそうなところが、どういう訳だかそれが絶妙のバランスに演奏になっていたところが良かったのだけれど、シェリング+クーベリックの方は、もう少し常識的....というか、ドイツ風にザッハリッヒな演奏という印象である。冒頭から早めのテンポで進み、ベルクの淀んだようなロマン性、交響詩的な側面には必要以上にこだわらず、けっこうあっさりと進んでいく。シェリングのヴァイオリンはかなり生真面目な印象で、この曲の退廃的な美しさのようなものは今一歩という感じがしないでもない(こういう生真面目さはブラームスなんかだと、ぴったり合うんだけどなぁ)。クーベリックの指揮は、マーラーを振った時などと似たような感触で、多少角が丸まった品の良いサウンドで、良くも悪しくも常識的な演奏になっていると思う。

 そんな訳で、昨夜のグリュミオー+マルケヴィチの演奏にあった、この曲の壮絶なまでの美しさ、そしてある種の凄みみたいな点だけでいえば、ちと凡庸な線に落ち着いてしまっているかなぁ....という印象。批評家風にいえば「純音楽的な演奏」ということになるのかもしれない。その純音楽的という側面をどう受け止めるかは、もちろんリスナーの好み次第で、どちらが良い悪いという問題ではないのだろうけれど、今の自分の気分としては、この曲はグリュミオー+マルケヴィチのような演奏の方が断然楽しめるというのが、正直なところだ。ちなみに先ほどラックを探してみたら、この曲はこれの他にもシゲティ、クレメール、ムッター、渡辺、クラスなどいくつかの演奏があった。ちょっと聴き比べでもしてみようかな....などと思っている。
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ベルク ヴァイオリン協奏曲/グリュミオー、マルケヴィチ&ACO

2009年12月02日 00時20分56秒 | マーラー+新ウィーン
 ベルクは新ウィーンの3羽ガラスの中では、ミニマム指向なウェーベルンとは全く対極的に、ロマン派的に情念の極北みたいな、なにやらフロイト的な無意識を感じさせる暗い情念に満ち満ちた曲を、肥大化した管弦楽で表現したような曲が多く書いた(そういえば、師匠のシェーンベルクは両者をかなり意図的にそういう方向に導いたという話をどっか聞いたことある)。「管弦楽の為の3つの小品」や「抒情組曲」、あと歌劇「ヴォツェック」などがそうした趣のある代表作だが、このヴァイオリン協奏曲は、そうした傾向ももちろんあるのだけれど、私にとっては、なんとなく他とは別格にしたいような作品である。

 曲はまず冒頭、ヴァイオリンと薄めの管弦楽で奏でられる主題からはじまる。この主題は12音に基づいているのにもかかわらず、一度聴いたらまず忘れられないくらいに、世紀末的な妖しさと、どこか痛ましいような美しさがあってまずここに引き込まれる。また、この曲は当然のことながらヴァイオリン協奏曲なのだけれど、シェーンベルクのようなガチガチの形式感、オケ対ソロ楽器的な闘争している感じがさほどなく、全楽章を通じてヴァイオリンとオーケストラの実に自然な美しさ絡み合っているところもいい(昔からヴァイオリン協奏曲が苦手だった私が例外的にこの曲だけは馴染んでいたのはこのせいだろう)。さらにいえば、この第1楽章には民謡、第2楽章にはコラール(バッハのカンタータ第60番「おお永遠よ、汝おそろしき言葉よ」の終曲)が実に効果的な引用をされているところも、音楽的インパクトも大きい。要するに、この曲は聴いていて、時に12音であることやヴァイオリン協奏曲であるといった邪念(?)を忘れさせ、ひたすら「壮絶なまでに美しい音楽」を対峙している気にさせてくれる曲なのである。

 なお、この曲はアルマ・マーラーの娘マノン(ただしマーラーの娘ではない)が、19歳で急死した追悼に作られた事情が成立大きくかかわっているようで、wikiによれば「第1楽章は現世におけるマノンの愛すべき音楽的肖像であるが、第2楽章はマノンの闘病生活と死による浄化(昇天)が表現されている。」ということらしいから、この曲の持つロマン派的な交響詩みたいな起伏というのは、こうした作曲の経緯に由来するところが大きいのだろう。ともあれ、異様に美しい開始から、それが絶望的なドラマチックなドラマへと展開し、ラストは全てを昇華するようにコラールで終わるラストは実に感動的だ。
 ちなみに、今夜聴いた演奏はグリュミオーがマルケヴィチ率いるアムスと組んだ往年の名演だが、甘美なヴァイオリンに対し、ざっくりとしてえぐりこむようなオーケストラ・サウンドが、なぜだか絶妙に調和しているところが良かったかな。
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