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”農”と言える!?

元・食推おばさんのソムリエ日記

品川と農業が結びつかなかった 品川かぶ

2023-01-04 00:52:40 | 在来種 伝統野菜

ポトフに入れていただいた品川かぶ。

 

20~25cmくらいの細長いかぶと書かれたものが多いのですが、

私がいただいたのは10cmをちょっと超えるくらいの長さでした。

   

品川かぶ…と言われても、品川と農業が結びつかなかった・・・。

そして、この品川かぶは、私が住んでいたあの滝野川とも関係があったのです。

  

では、今日もお時間のある方はお付き合いください。

  

●品川かぶ=滝野川かぶ

この細長いかぶは、江戸から東京にかけて、主な副食が漬物であった頃のかぶです。

現在の北区滝野川付近で栽培されており、「滝野川かぶ」と呼ばれていました。

江戸の滝野川と品川は土地がよく似ており、品川でも同様のかぶが栽培されていました。

この品川で作られたものは「品川かぶ」と名付けられたのです。

 

   

そう言われても、滝野川に住んでいた者としては、

滝野川と品川の土地がよく似ていると言われてもピンとこない。(^-^;

ところが・・・。

 

    

●江戸時代の品川

品川は江戸湾に面し、港町、宿場町として栄え、

町を支える漁業や農業も盛んでした。

特に農業は、目黒川、立会川流域の低湿地帯と荏原台地に広がった畑地で、

年貢のための稲作を中心に麦や雑穀も作られていました。

野菜は荏原郡(現在の品川・目黒・大田・世田谷区)の中でも

最も早く産地として発達。

品川かぶもそのひとつで越冬用の漬物として栽培されていました。

 

  

品川は農業が盛んな地域だったのですね。

そんな品川かぶですが、明治時代以降は栽培が途絶えてしまいます。

そして時代は平成に。

 

  

●小平市で似たかぶが栽培されていた!!

東京都小平市で「東京長かぶ」というかぶが栽培されており、

それが「品川かぶ」によく似ていました。

このことに気づいたのが、北品川の青果店「マルダイ大塚好雄商店」店主の大塚好雄さん。

大塚さんは、江戸時代の農書「成形図説」に描かれていた品川かぶの絵を元に

「東京長かぶ」にたどり着いたのです。

  

 

●品川かぶの復活

「東京長かぶ」を「品川かぶ」として販売したい!!

大塚さんの熱い思いは、「成形図説」の絵が根拠となり、

「東京長かぶ」の生産者、市場、江戸野菜の研究会からも認められ、

マルダイ大塚好雄商店での仕入れ販売をするに至りました。

 

    

こうして、地元、品川の名を冠した江戸東京野菜として復活を遂げたのです。

  

品川が、かつて農業が盛んであったことも、

「品川かぶ」と「滝野川かぶ」と「東京長かぶ」が同じものだということも、

江戸東京野菜と出逢わなければ知らないままでした。

そう思うと感慨深いものがあります。

  

今日も長々とお付き合いいただき、ありがとうございました。

 

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なぜ「伝統」が付くの?伝統大蔵大根

2023-01-03 00:24:56 | 在来種 伝統野菜

ナムルかき揚げでいただいた伝統大蔵大根。

なぜ、わざわざ「伝統」と付けるのか疑問に思っていました。

 

調べてみると、これがまた大蔵大根の歴史と関係がありました。

お時間のある方、よろしかったらお付き合いください。(^-^)

  

 

大蔵大根の「大蔵」は大蔵原(現在の世田谷区大蔵付近)を指しており、

世田谷区の特産品となっていますが、ルーツは世田谷とは別の地域にありました。

  

●大蔵大根のルーツは練馬

練馬辺りで作られていた白首系早生種の「秋づまり」という大根がありました。

江戸時代に豊多摩郡(現在の杉並区付近)の源内という農民が

「秋づまり」をもとに品種改良し「源内づまり」という晩生種の大根を生み出しました。

この「源内づまり」が大蔵原に伝わったのです。

 

  

●「源内づまり」の品種改良、そして「大蔵大根」の誕生

明治時代に入って、大蔵原の石井泰治郎氏が、

「秋づまり」と「源内づまり」の自然交配雑種から耐病性のあるものを選抜育成し、

「大蔵大根」を生み出しました。

この「大蔵大根」は1953(昭和28)年に名称登録され、

昭和40年代までは世田谷の至るところで栽培されていました。

  

  

●「大蔵大根」の衰退

・宅地化が進んだ。

・昭和49年 病気に強く、比較的栽培しやすい「青首大根」が登場した。

これらの理由で「大蔵大根」は衰退し、その姿を消してしまいました。

  

 

●「大蔵大根」の復活 そして「伝統大蔵大根」になる

平成になり、各地で伝統品種が見直される中、

世田谷区内の農家たちが1997(平成9)年から復活に向けて栽培を始め、

2002(平成14)年には本格的に栽培されるようになりました。

ところが現在、種苗メーカーからF1品種としての「大蔵大根」も種が販売されています。

そこで、それらとの混同を避けるため、

2011(平成23)年から「伝統大蔵大根」として出荷されるようになったのです。

   

 

大蔵大根に「伝統」という冠が付く理由がやっとわかりました。

こうなるまでには、江戸時代、明治時代に品種改良を行った農家の方、

昭和の時代に栽培に携わった農家の方々、

そして一度衰退した後、平成になって復活させた農家の方々、

皆様の努力が「伝統」の二文字に繋がっていると実感しました。

  

今日も長々とお付き合いいただき、ありがとうございました。

 

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滝野川大長にんじんの長い旅

2023-01-02 02:00:13 | 在来種 伝統野菜

昨年末から江戸東京野菜で遊ばせていただいております。

その中の滝野川大長にんじん。

 

    

江戸東京野菜には、東京各地の地名が付いたものがたくさんありますが、

地名を聞いただけで、その風景がはっきり浮かんでくるのが

滝野川大長にんじんの「滝野川」。

 

私は大学の4年間を北区滝野川で過ごしました。

私の母校は、今は府中市に移転してしまいましたが、以前は北区西ヶ原にありました。

私は西ヶ原のすぐ近くの滝野川に下宿していたのです。

 

親しみを込めて滝野川大長にんじんのことを調べましたので、

お時間のある方はご覧ください。

  

●滝野川は根が長い品種の栽培に向いていた

八代将軍・徳川吉宗が、享保年間(1716 ~ 36)に日本全国から野菜の種子を集め、

試作した中から優秀なにんじん品種として選んだものが、この長いにんじん。

それが滝野川(現在の北区滝野川)で栽培されたことから、

「滝野川にんじん」と呼ばれました。

土が深く排水が良いというこの土地は、根もの野菜の栽培に向いていました。

滝野川にんじんは晩生の夏播き専用品種で、7月上旬から種をまき、

11 月頃から収穫していたことから、冬場の貯蔵品としても好まれました。

 

  

●姿を消した滝野川にんじん

昭和 20 年頃、200 年以上続いた滝野川にんじんは姿を消してしまいます。

理由は、在来種が滅んでいくおなじみの理由です。

根の長い品種(70~100cm)は、栽培や収穫後の取り扱いにも手間がかかるため、

江戸時代後期に渡来した西洋種(15~20cm)に取って代わられたのです。

 

  

●滝野川にんじん、札幌大長にんじん、万福寺大長にんじんの関係

ところが、この滝野川にんじんを1932年(昭和7年)頃から、栽培していた地域があります。

それが、川崎市麻生区の万福寺地域です。

そして川崎市農林課が中心になって、「滝野川にんじん」と「札幌大長にんじん」を交配させ、

生み出したのが「万福寺大長にんじん」。

 

  

●江戸東京野菜の「滝野川大長にんじん」は「万福寺大長にんじん」だった!

万福寺大長にんじん=滝野川にんじん×札幌大長にんじん

ということから、

「万福寺大長にんじん」には「滝野川にんじん」の遺伝子が残されています。

そこで、「万福寺大長にんじん」の販売元である日本農林社の了解を得て、

「滝野川大長にんじん」として江戸東京野菜に認定された…

といういきさつがありました。

 

  

江戸時代に栽培が始まって、昭和20年に姿を消し、

2015年に江戸東京野菜に認定されるまでの「長いにんじん」の長い旅、

個人的な興味でしたが、調べてよかった!!

長い記事にお付き合いいただき、ありがとうございました。

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お正月の準備をしながら江戸東京野菜と遊ぶ

2022-12-31 00:12:14 | 在来種 伝統野菜

おせち料理を作りながら、江戸東京野菜でご飯を作りました。

 

晩ご飯はこんな感じでした。

  

  

今回、使った江戸東京野菜は、

 

品川かぶ

10cmくらいの細長いかぶです。

  

  

東京べか菜

結球していない白菜 山東菜の一種です。

  

 

滝野川大長にんじん

 

  

   

お料理は

●江戸東京野菜と根菜のポトフ

品川かぶと滝野川大長にんじんと東京べか菜が入っています。

東京べか菜は、茹でたものを巻いています。

一番手前にある品川かぶは、少しほろ苦いところがあり、心地よい野趣を感じます。

滝野川大長にんじんは、煮込むと甘さが増します。

  

  

●東京べか菜とディルとはな粉のサラダ

東京べか菜は、ザルに並べて熱湯を回しかけ、冷ましてから使いました。

茹でたものとは違って、シャキシャキ感があります。

味付けは、塩、レモン汁、ごま油、黒コショウです。

ディルの香りとはな粉のうまみがあるので、余分な味付けが要りません。(^-^)

  

  

●品川かぶとドライトマトのバターライス

ポトフで使った品川かぶの葉っぱを使っています。

スープで炊いたご飯に、刻んだ葉とドライトマトを混ぜ、

最後にバターを加えます。

  

 

傍らでおせち料理の準備をしながら…というのは疲れますが、

江戸東京野菜と遊ぶのは楽しい。

野菜の来歴を調べるのは、もっと楽しい。

 

 

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青茎三河島菜の三河島って?

2022-12-30 21:01:08 | 在来種 伝統野菜

昨日の記事に登場した 江戸東京野菜の青茎三河島菜。

  

 

私が何か引っかかっていたのは「三河島」という地名です。

これでも、学生時代とその後、社会人になってからも東京に住んでいたのですが、

三河島がどこにあるのか全く知りませんでした。

そこで、この「三河島」を探ることから始まって、

青茎三河島菜が復活するまでの道のりを調べてみました。

 

●三河島ってどこ?  

調べてみると、常磐線に「三河島駅」という駅があり、荒川区であることがわかりました。

かつて、三河島駅の一帯は「三河島町」という地名でしたが、

現在では「三河島」という住所はなく、

三河島駅の住所は「東京都荒川区西日暮里1丁目」となっています。

でも、だいたいの場所はわかりました。

  

●江戸時代の三河島と三河島菜

江戸時代の三河島は江戸近郊の農村地帯でした。

そこで栽培されたのが三河島菜でした。

塩漬けにして冬場の貴重な葉物野菜として食され、

代表的な漬け菜として江戸の食文化を支えてきました。 

 

●三河島菜の衰退

しかし、白菜が普及してくると、市場での扱いが激減していき、

いつしか生産が途絶えてしまいました。

   

●三河島菜復活と仙台芭蕉菜

白菜の登場により、絶滅したと考えられていた三河島菜でしたが、

江戸時代に仙台藩の足軽が参勤交代の際に江戸から地元に持ち帰っていました。

それが現在でも宮城県内で栽培され、「仙台芭蕉菜」として販売されていることが

平成22年(2010)に判明。

このことがきっかけで、里帰り復活を遂げることになりました。

 

  

在来種というのは、人によって広がっていき、その土地に根付いていきます。

全国には多数の漬け菜が存在しますが、

それも、この三河島菜のように誰かが運び、根付いていったものだと思うと、

在来種の持つ「物語」に惹かれます。

 

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