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”農”と言える!?

元・食推おばさんのソムリエ日記

食べ繋いで守ってほしい 大和在来野菜「チシャ」

2023-04-21 00:03:16 | 在来種 伝統野菜

ブログのお友達で奈良県にお住いのmirapapaさんが、ブログの中で

「チシャとたけのこの味噌和え」というお料理を紹介されていました。

こちらです。

  

ここで、問題にぶつかります。

私は「チシャ」と言ったら、レタスの和名であり、

レタスの総称だとずっと思っていました。

例えば、おなじみの玉レタス。

これは、「玉チシャ」とも言われます。

 

 

しかし、mirapapaさんのブログを拝見しても、どれがレタスなのかわからなかった…。

そこで、「チシャ」で検索してみると、

サニーレタスのことを方言で「チシャ」と呼ぶ地域があることが判明。

でも、どう見てもサニーレタスらしきものの姿はありません。

  

 

思い切って、mirapapaさんにお尋ねしてみると、

「サニーレタスとは別物で、もっとアクが強く、えぐみもあります。

 ずっと田舎で食べられてきた野菜だと思います。

 食べられるようにするまでにも手間がかかるし、

 スーパーで売っているのを見たことがありません。」

と、教えてくださり、

こちらの記事にそのチシャのお写真まで載せてくださいました。

  

       【畑のチシャ mirapapaさんのブログより画像お借りしました】

  

 

こうなると、ますます「チシャ」が気になります。

 

mirapapaさんのお言葉から推測すると、ひょっとして奈良県の在来野菜では!?

そう思って調べてみると、「大和の伝統野菜」や「大和のこだわり野菜」のように、

奈良県が認定したものではありませんが、

「大和在来野菜」の中に「チシャ」の名前を発見!!

下から葉を掻き取って食べるレタスの一種と書かれています。

  

              

【大和在来野菜チシャ 画像お借りしました】【直売所で売られているチシャ 画像お借りしました】

 

  

こうなったら、レタスが日本に伝来したあたりから調べ直さなくては!!

 

で、レタスの来歴を読み返してみたのですよ。

 

●レタスの生まれ故郷は

レタスの野生種は、地中海沿岸から西アジアに広く分布しています。

そして、エジプトでは紀元前4500年頃から用いられ、

古代ギリシャやローマでも健康と安眠をもたらす野菜として

紀元前から食べられていましたが、

当時のレタスは結球していないタイプのものでした。

 

  

●中国へ伝来

7世紀頃に中国に伝来し、茎チシャが生まれます。

   【茎チシャの画像お借りしました】

  

 

●日本への伝来

日本には中国から奈良時代に「チシャ」として伝わりました。

平安時代に編纂された日本最古の薬物図鑑「本草和名」に

「白苣・知佐(両方ともチサと読みます)記載されていることからも

それは明らかです。

しかし、当時のチシャは、結球しておらず、

下の方から掻き取りながら食べる「掻きチシャ」というものでした。

   ↑

奈良時代に伝わった「掻きチシャ」!!

これは、まさに今、奈良県で食べられている「チシャ」と同じ形状ではありませんか!!

  

 

日本に伝わった当時と、今、奈良県で食べられている「チシャ」が

全く同じものかどうかはわかりません。

(長い年月の間に、少しずつ変化があったかもしれません。)

でも、mirapapaさんのブログを通じて知った大和在来野菜「チシャ」が、

こんなに歴史のあるものだったとは!!

  

 

そして、中国から伝わった「掻きチシャ」は、

日本では茹でてごま和えや酢味噌和えで、早春の野菜の少ない時期に食べていました。

 

また、大和では「チシャとたけのこはあいくち(相性が良い)」と言って、

郷土料理に「チシャとたけのこのおあえ(ごま味噌和え)」「チシャとたけのこの木の芽和え」

をはじめ、「チシャのはりはり」「チシャ寿司」などがあり、

古くから親しまれてきた野菜である・・・との記述も。

 

たけのことの組み合わせは、まさにmirapapaさんが紹介されていたお料理です。

  

私は、このチシャを食べたこともなく、実物も見たことはありませんが、

こうやって調べることで、ものすごく身近に感じられました。

  

生産者様も少なく、食べるまでに時間も手間もかかる大和在来野菜「チシャ」。

どうか、食べ繋ぐことで守っていってください。

 

素晴らしい野菜のことを知ることができました。

ありがとうございました。

 

コメント (9)
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最後は江戸東京野菜でお漬物

2023-01-08 10:49:06 | 在来種 伝統野菜

江戸東京野菜は、江戸から東京にかけて、主な副食が漬物であった時代に

庶民の食を支えていました。

 

 

とうことで、最後は江戸東京野菜でお漬物です。

 

  

  

滝野川大長にんじん、伝統大蔵大根、品川かぶのぬか漬け

ぬか漬けと言っても、私はぬかチューブでジッパー付きポリ袋派ですが…。

それぞれの野菜の甘みがより一層感じられました。

特に、伝統大蔵大根の硬い肉質と水分の少なさは、ぬか漬けでこそ活かされると実感!

  

  

金町こかぶの千枚漬け風とかぶの葉の即席漬け

大きなかぶで作る京都の千枚漬けにも負けていません???

そして、葉っぱの即席漬けは、胃が疲れた時、ご飯にのせて食べると

ホッとします。

  

 

今回、お漬物に使った江戸東京野菜、もう一度ご覧ください。

 

滝野川大長にんじん

  

  

伝統大蔵大根

  

  

品川かぶ

  

  

金町こかぶ

  

  

 

江戸時代、すでに人口130万人の大都市であった江戸の食を支えるために、

農家の方々は野菜づくりに取り組んできました。

これからも、東京各地の地名が付いた江戸東京野菜と出会うたびに、

その情熱が大変なものであったことを考えると思います。

それくらい、年末年始に江戸東京野菜と向き合った時間は貴重なものでした。

  

改めて、江戸東京野菜の生産者 オギプロファーム様

送ってくださったS様、

そして、毎回長いブログにお付き合いくださった皆さま、

心から感謝申し上げます。

 

 

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東京べか菜の「べか」って?

2023-01-06 15:14:56 | 在来種 伝統野菜

送っていただいた江戸東京野菜について

お正月からずっと調べていますが、これが最後になります。

 

東京べか菜

私は、昨年末、サラダにしていただきました。

 

  

●べか菜は若い山東菜

明治時代の初期に山東菜(半結球の白菜)が中国山東省から導入されました。

導入当初は、江戸川では大型の山東菜を栽培していましたが、

その中で若採りしたものをべか菜と呼んでいました。

 

  

●べか菜の「べか」って何?

べか菜の「べか」は、べか舟から来ています。

べか舟とは、のり採り舟のことで、長さ12尺(3.6m)幅2尺8寸(84cm)位の

薄板で造られていた小さな舟です。

【べか舟 浦安市公式サイトより画像お借りしました】

べか菜の「べか」は、小型の形状を意味しているのです。

  

 

●栽培の歴史

最初は、江戸川区の葉物農家が栽培していましたが、

その後、種苗会社が選抜育成したものが現在の東京べか菜となり、

東京を中心に広く栽培されています。

 

   

ずっと疑問なのは、江戸東京野菜の大半は「滝野川」とか「三河島」とか「品川」

とか限定した地名が付いているのに、

なぜこの東京べか菜は「江戸川べか菜」と呼ばれることなく、

広く「東京」と付いているのでしょうか?

 

他の江戸東京野菜に比べても、情報量が少ないのですが、

もしご存知の方がいらっしゃいましたら、教えていただけるとうれしいです。

  

江戸東京野菜のレポートにお付き合いいただき、ありがとうございました。

あと、お料理の写真を2回ほど投稿する予定でおります。

 

 

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おかめ?お多福? 亀戸大根

2023-01-06 00:06:09 | 在来種 伝統野菜

初詣に亀戸香取神社に行かれた方もいらっしゃるのでは?

 

この神社には、亀戸大根之碑が建てられており、

             【画像お借りしました。】

毎年3月初旬に亀戸大根の収穫を祝って、

来場した方々に亀戸大根を無料で配布する福分け祭りが行われています。

  

 

今日は、亀戸大根について調べてみました。

よろしかったらご覧ください。

 

   

●「亀戸大根」は最初は違う呼び方だった

亀戸大根は、長さ約30cm、重さは200g足らず。

にんじんをひと回り大きくしたような小さな大根です。

明治の頃は「おかめ大根」や「お多福大根」と呼ばれていましたが、

大正初期に産地の名をつけて「亀戸大根」と呼ばれるようになりました。

  

●栽培の始まり

江戸時代の文久年間(1861年~64年)に盛んに作られるようになりました。

栽培の中心となっていたのは、亀戸香取神社周辺です。

  

●なぜ亀戸は大根の栽培に向いていたのか?

亀戸は荒川水系によって栄養豊富な粘土質の土壌となっており、

肉質が緻密で色の白い大根作りに適していました。

 

●栽培の変遷

明治の頃は盛んに栽培されていましたが、

大正時代の終わり頃から地域の宅地化が進んだことにより、

産地が江戸川区の小岩や葛飾区高砂などに推移していきました。

現在では葛飾区では3軒が栽培を続けているとのことです。

その一方、江戸東京野菜の栽培に力を入れる小金井市でも亀戸大根は栽培されています。

(私がいただいた亀戸大根は八王子のオギプロファームで栽培されたものです。)

  

 

露地栽培しかなく早春に大根などの収穫がなかった時代に、

秋から冬にかけて種をまき、早春に収穫される亀戸大根は、

江戸市民に大変喜ばれていました。

肉質が緻密な亀戸大根は、根も葉も一緒に浅漬けやぬか味噌漬けにするとおいしく、

早春の野菜として重宝されていたようです。

 

私は、早春よりも少し早くこの亀戸大根を送っていただくことができたので、

漬物以外の食べ方を工夫してみたいと思います。

 

  

本日もお付き合いいただき、ありがとうございました。

 

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淡々と金町こかぶ

2023-01-05 00:19:01 | 在来種 伝統野菜

江戸東京野菜の金町こかぶの歴史を調べていると、

淡々とした気分になります。

 

  

●栽培の歴史には2つの説が

1. 明治末、金町(現在の葛飾区東金町)の長谷碌之助が

 下千葉中生という品種を四月に早どりできるように改良した。

2. 農商務省の三田育種場(現在の港区三田)で栽培していたフランス産のかぶの種を

 明治10年頃に譲り受けて栽培・採種しているうちに地元の蕪と自然交配してできた。

  

1の説を挙げている人が多いようです。

 

●金町こかぶの栽培が広まった理由

・春に花芽が出にくい性質をもっているため、春に栽培がしやすい。

 その特性を生かして、金町一体で盛んに生産が行われるようになり、

 さらに東京から全国に広まっていった。

・野菜が乏しい春先、霜や寒さで傷んでいない青々とした葉や、

 真っ白で光沢のあるかぶは、春を告げる野菜として大変喜ばれた。

 

冬の寒さにあたると甘味が増します。

また煮崩れしにくいという特徴から炊き合わせや煮物にも向いています。

当時、千住青物市場(現在の足立区にありました)に出荷され、

高級料亭等に高値で取り引きされていたのも、これらの理由からではないでしょうか?

   

さて、最初に「金町こかぶ」の事を調べていると淡々とした気分になる

と書きましたが、

それは金町こかぶが他の伝統野菜のように波乱万丈ではないからです。

一度は滅びて、その後人々の努力によって復活を遂げた…というような

エピソードが出てこないのです。

  

というのも、

現在、かぶの流通の大半を占めるのは、

この金町こかぶを品種改良したものだからなのです。

滅びることなく、ずっと品種改良の役に立ってきた金町こかぶ。

こんな穏やかな伝統野菜もいいなぁと思います。

 

  

そんな金町こかぶを千枚漬け風にしていただきました。

葉っぱも塩もみして、さっと熱湯を回しかけ、

おろし生姜と塩を混ぜて即席漬けに。

お正月で疲れた胃にやさしいのでは? (^-^)

  

 

今日もお付き合いいただき、ありがとうございました。

 

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