昭和のマロ

昭和に生きた世代の経験談、最近の世相への感想などを綴る。

三鷹通信(253)市民大学・「漱石から見える現代」

2018-02-17 07:15:11 | 三鷹通信
 小森陽一東京大学教授「漱石からみえる現代」
 今回は30名満席だった。
 
 ボクにとって知らなかった夏目漱石の一面を浮き上がらせていただいた。
 小説のみならず、漱石は社会時評を手がけており、しかもかなりの講演を行っていることを・・・。

 もちろん、漱石が作品のなかで「吾輩は猫である」他、鋭い文明評論を展開されていることは知っている。
 <草枕>の冒頭の文学的な一文。
 
 智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。・・・
 そして<汽車論>なる文明評論には膝を打たざるを得なかった。
「汽車ほど二十世紀の文明を代表するものはあるまい。何百という人間を同じ箱に詰めて轟と通る。情け容赦はない。詰め込まれた人間は皆同程度の速力で、同一の停車場へとまって、そうして同様に蒸気の恩沢に浴さねばならぬ。人は汽車に乗ると云う。人は汽車で行くと云う。余は運搬されると云う。汽車ほど個性を軽蔑したものはない。文明はあらゆるかぎりの方法によってこの個性を踏みつけようとする。・・・」
 
 *文明開化について語っている。

 明治になって、人々の生活の内容が変わってきている。つまり、昔の型を守ろうとする人とそれに反抗する人。<開化>というのは、積極的な勢力の消耗と消耗を出来るだけ防ごうとする消極的な活動が入り乱れて出来上がる。
 外界の刺激に反応する方法が、反応する活力をなるべく制限節約して出来るだけ使わない<活動節約の行動>方法と、自ら進んで刺激を求め、快感を得る<活力消耗の趣向>方法とがある。
 言い換えれば義務の刺激に対する反応としての<消極的な活力節約>と道楽の刺激に対する反応としての<積極的な活力消耗>
 <活力節約>は出来るだけ労働を少なくしてなるべくわずかな時間に多くの働きをしようとする。
 汽車汽船、電信電話、自動車とかの工夫だが、面倒を避けたい横着心の発達した便法だ。
 <活力消耗>は、いわば道楽根性も自由我儘の限りを尽くして発展する。
 女道楽ばかりじゃなく、絵画とか読書、学問とか・・・。
 しかるに、これほど労力が節約でき、娯楽の種類や範囲が拡大されても、有難味がわからなかったり、生活の苦痛が非常なものだったり・・・。
 これが開化の産んだ一大パラドックスだ。

 西洋の開化は<内発的>であるのに対して、日本の現代の開発は<外発的>である。
 外からおぶさった他の力でやむを得ず取る一種の形式だ。
 今後、何年も恐らく永久的に、外から押されて行かなければ、日本が日本として存在できないのでは・・・とおっしゃっているが、何と慧眼!


 *文学について。
 その概念を根本的に自力で作り上げるしかないことを、ロンドンで覚らされたそうだ。
 他人本位の、根のない浮き草ではダメだと・・・。
 甲の国民に気に入るものはきっと乙の国民にも気に入られるとは誤認だ。
 合理的で万人が同意できる<科学>と、感性的判断をする<文学>とは違う。
 それに気づいて以来、文芸に対する立脚地を新しく建設するために、社会学、心理学、ダーウイン進化論等々、文芸と関係のない書物を読み始めた。
 そして<自己本位>という言葉を手にしてからは強くなった。
 価値判断するのは<私>だと。

 *「学習院での講演>
 上流社会の子弟が集まる学習院。あなた方に一番付随しているものは<権力>、自分の個性を他人の頭の上に圧しつける道具。
 <権力>に次ぐものは<金力>、これは個性を拡張するために、他人の上に誘惑の道具として使用し得る重宝なものである。
 しかし、力があるだけに非常に危険なものでもあることを知るべし。

 *朝日新聞紙上では「点頭録」(点頭はうなずくの意)で、<軍国主義>について語っている。
 第一次大戦の特質について、「ドイツの<軍国主義>が、イギリスやフランスの培養した<自由>を破壊するもの」として喝破している。
 特にイギリスで<強制徴兵案>を議会で大差をもって議決したことを重視している。
 これこそ、現代の<自由>を踏みつけにした文明の流れを産んだものであると。