昨日、みたか、みんなの広場「第11回リレートーク」に呼ばれ、わが作品「レロレロ姫の警告」についてお話しさせていただきました。
認知症家族支援の会や科学こども遊びなどの代表をされるI先生のご紹介で、みたか、みんなの広場を運営されるNさんに呼ばれたのです。
79歳にして初めてわが作品を出版できたのはまさに奇跡でした。
その経緯を今回は語らせていただきました。
その始まりは戦後間もないころ、ボクが小学6年生の時でした。
脚に病を得て、当時の医学では右脚を固定して直すしか方法がありませんでした。
闘病生活のため、二年遅れで金沢の中学校に入学しました。
その間、気をかけてくれた叔父からいただいた本をむさぼり読むしかありませんでした。
中谷宇吉郎や、寺田寅彦などの難しい科学のことを読みやすく書いた本が多かったようです。
中学では松葉杖をついた少年でしたが、学力でみんなの評価を得ることが出来ました。
地方から優秀な生徒を集めた有名高校に入学。
大学も東京の有名私立に入学できました。
就職も日本電電公社(今のNTT)の幹部候補生の枠に入りましたが、身体の不具合が理由で東京営業所採用に回されました。
そのことを快しとせず、ぼくは敢えて小さな貿易会社に入りました。
ところがその会社は大商社に子会社化されるという不運が待ち受けていました。
しかし、たまたま大学生時代家庭教師をしていた縁で、社員70人余りの機械工具商社の社長さんから誘われ転職しました。
これがボクの新たな運を開くことになるのです。
高度経済成長時代で、輸入商品に目をつけていた社長さんに英語力を買われたのでしょう。
入社したころは日夜を問わず体を張って営業することで、日立、日産、いずずなどの大企業から仕事がバイバイゲームで得られる時代でした。
もっとも、その中で脚の悪いボクは異色の存在で、いろいろと悩んだ時もありました。
たまたま当時時代の先端を行く切削工具のパイオニア、スエーデンのS社の担当となったボクはその商品を核に、在庫管理機、自動格納装置などを採用、従来の直販だけでなく、卸売販売の商売を立ち上げることが出来、役員になることも出来ました。
社長に付いてスエーデン、ドイツ、アメリカなどの先進国を訪問、アメリカの工具商からは通販の手法を学び、帰国後日本でもまだ一般的ではなかった通販のためのカタログも作成させました。
ところが、日本の高度成長経済時代は終焉を迎え、このアメリカから得た通販事業は日の目を見ることはできませんでした。
お世話になった社長が急死されたこともあり、ボクは早々に見切りをつけ退社しました。
そしてわずかな退職金を元手に株取引に手を出しました。
一時は儲かり、富士山の麓、青木が原樹海の近くに山荘も作ることができました。
しかし、バブルは崩壊し時代の趨勢に逆らうことはできず、結局ボクは財産をすべて失くしました。
もはや年金の範囲内で生活するしかありません。
家庭内粗大ゴミにならないよう、同窓会活動に入会しました。
そして「今どきのシニアは隠居なんかもってのほか、ただならぬシニアを目指せ」と叱咤するH氏に誘われシニアSOHO普及サロン・三鷹に入り、シニアにパソコンを馴染ませるにはシニアの好きな囲碁を活用しようと考え、世界的な囲碁ネット<パンダネット>に働きかけ、市にも働きかけ、当時新設された三鷹市産業プラザのIカフェを使用できるようにしました。
大型インタビュー集「幸福な定年後」に<インターネット囲碁>の代理店となる、と紹介されました。
囲碁愛好家に家のパソコンを活用するよう働きかけると彼らの使用料の10%が自動的に我々の収入になるのです。
夢は大きく広がりましたが、Iカフェが囲碁愛好者に独占されているとクレームが付きこの活動も頓挫してしまいました。
どうも、お金儲けの話はボクには無縁のようです。
たまたまブログという手法でわが思いを、エッセイや小説で多くの人に伝える方法があることを知り、ほぼ毎日UPする楽しみにのめり込みました。
最初は中学の同級生で東京近辺に住んでいる連中の5,6人のアクセスからついには何百人という、つまり見知らぬ人たちからもアクセスを受けるようになりました。
意を強くしたボクは小説を新潮社とか幻冬舎とか文芸社などに売り込みに行きました。
しかし、「いいと思うけど、取りあえず自費出版してみたら」という反応でした。
費用は3~4百万円。とてもそんなお金はありません。
しかし、なんと中学校時代の仲間がカンパしてあげようか?と声をかけてくれたのです。
そしてタイミングよく、文芸社セレクションという企画で、「安くするからいかがですか?」と「レロレロ姫の警告」に声がかかったのです。
そして、79歳という人生の最終章で、念願の出版がかないました。
まさに<奇跡>です。
振り返ってみればまさにわが人生は、不運も多かったけど、最後に運がついてきた気がします。
今回の会でも、孫たちに読ませようと、3冊も買って下さった方がいます。
何が起きるか分かりません。
まだまだ期待して、さらに新たに生み出す努力もしなければ!
認知症家族支援の会や科学こども遊びなどの代表をされるI先生のご紹介で、みたか、みんなの広場を運営されるNさんに呼ばれたのです。
79歳にして初めてわが作品を出版できたのはまさに奇跡でした。
その経緯を今回は語らせていただきました。
その始まりは戦後間もないころ、ボクが小学6年生の時でした。
脚に病を得て、当時の医学では右脚を固定して直すしか方法がありませんでした。
闘病生活のため、二年遅れで金沢の中学校に入学しました。
その間、気をかけてくれた叔父からいただいた本をむさぼり読むしかありませんでした。
中谷宇吉郎や、寺田寅彦などの難しい科学のことを読みやすく書いた本が多かったようです。
中学では松葉杖をついた少年でしたが、学力でみんなの評価を得ることが出来ました。
地方から優秀な生徒を集めた有名高校に入学。
大学も東京の有名私立に入学できました。
就職も日本電電公社(今のNTT)の幹部候補生の枠に入りましたが、身体の不具合が理由で東京営業所採用に回されました。
そのことを快しとせず、ぼくは敢えて小さな貿易会社に入りました。
ところがその会社は大商社に子会社化されるという不運が待ち受けていました。
しかし、たまたま大学生時代家庭教師をしていた縁で、社員70人余りの機械工具商社の社長さんから誘われ転職しました。
これがボクの新たな運を開くことになるのです。
高度経済成長時代で、輸入商品に目をつけていた社長さんに英語力を買われたのでしょう。
入社したころは日夜を問わず体を張って営業することで、日立、日産、いずずなどの大企業から仕事がバイバイゲームで得られる時代でした。
もっとも、その中で脚の悪いボクは異色の存在で、いろいろと悩んだ時もありました。
たまたま当時時代の先端を行く切削工具のパイオニア、スエーデンのS社の担当となったボクはその商品を核に、在庫管理機、自動格納装置などを採用、従来の直販だけでなく、卸売販売の商売を立ち上げることが出来、役員になることも出来ました。
社長に付いてスエーデン、ドイツ、アメリカなどの先進国を訪問、アメリカの工具商からは通販の手法を学び、帰国後日本でもまだ一般的ではなかった通販のためのカタログも作成させました。
ところが、日本の高度成長経済時代は終焉を迎え、このアメリカから得た通販事業は日の目を見ることはできませんでした。
お世話になった社長が急死されたこともあり、ボクは早々に見切りをつけ退社しました。
そしてわずかな退職金を元手に株取引に手を出しました。
一時は儲かり、富士山の麓、青木が原樹海の近くに山荘も作ることができました。
しかし、バブルは崩壊し時代の趨勢に逆らうことはできず、結局ボクは財産をすべて失くしました。
もはや年金の範囲内で生活するしかありません。
家庭内粗大ゴミにならないよう、同窓会活動に入会しました。
そして「今どきのシニアは隠居なんかもってのほか、ただならぬシニアを目指せ」と叱咤するH氏に誘われシニアSOHO普及サロン・三鷹に入り、シニアにパソコンを馴染ませるにはシニアの好きな囲碁を活用しようと考え、世界的な囲碁ネット<パンダネット>に働きかけ、市にも働きかけ、当時新設された三鷹市産業プラザのIカフェを使用できるようにしました。
大型インタビュー集「幸福な定年後」に<インターネット囲碁>の代理店となる、と紹介されました。
囲碁愛好家に家のパソコンを活用するよう働きかけると彼らの使用料の10%が自動的に我々の収入になるのです。
夢は大きく広がりましたが、Iカフェが囲碁愛好者に独占されているとクレームが付きこの活動も頓挫してしまいました。
どうも、お金儲けの話はボクには無縁のようです。
たまたまブログという手法でわが思いを、エッセイや小説で多くの人に伝える方法があることを知り、ほぼ毎日UPする楽しみにのめり込みました。
最初は中学の同級生で東京近辺に住んでいる連中の5,6人のアクセスからついには何百人という、つまり見知らぬ人たちからもアクセスを受けるようになりました。
意を強くしたボクは小説を新潮社とか幻冬舎とか文芸社などに売り込みに行きました。
しかし、「いいと思うけど、取りあえず自費出版してみたら」という反応でした。
費用は3~4百万円。とてもそんなお金はありません。
しかし、なんと中学校時代の仲間がカンパしてあげようか?と声をかけてくれたのです。
そしてタイミングよく、文芸社セレクションという企画で、「安くするからいかがですか?」と「レロレロ姫の警告」に声がかかったのです。
そして、79歳という人生の最終章で、念願の出版がかないました。
まさに<奇跡>です。
振り返ってみればまさにわが人生は、不運も多かったけど、最後に運がついてきた気がします。
今回の会でも、孫たちに読ませようと、3冊も買って下さった方がいます。
何が起きるか分かりません。
まだまだ期待して、さらに新たに生み出す努力もしなければ!