昭和のマロ

昭和に生きた世代の経験談、最近の世相への感想などを綴る。

言葉(5)村上春樹(2)

2012-03-25 04:36:37 | 言葉
 村上春樹が世界の多くの読者に受けているのは、何と言っても男と女の性的描写の巧みさにあるのだろう。

 <ノルウエイの森>で、複数の女とかかわり合う中で同級生の緑との関係を取り上げてみる。

 
 僕は緑の小さなベッドの端っこで何度も下に転げ落ちそうになりながら、ずっと彼女の体を抱いていた。緑は僕の胸に鼻を押しつけ、僕の腰に手を置いていた。僕は右手を彼女の背中にまわし、左手でベッドの枠をつかんで落っこちないように体を支えていた。性的に高揚する環境とはとてもいえない。僕の鼻先に緑の頭があって、その短くカットされた髪が時々僕の鼻をむずむずさせた。
「ねえ、ねえ、ねえ、何か言ってよ」と緑が僕の胸に顔を埋めたまま言った。
「どんなこと?」「なんだっていいわよ。私が気持良くなるようなこと」「すごく可愛いよ」「ミドリ」と彼女は言った。「名前をつけて言って」「すごく可愛いよ。ミドリ」と僕は言いなおした。「すごくってどれくらい?」「山が崩れて海が干上がるくらい可愛い」緑は顔を上げて僕を見た。「あなたって表現がユニークねえ」「君にそう言われると心が和むね」と僕は笑って言った。「もっと素敵なこと言って」「「君が大好きだよ、ミドリ」「どれくらい好き?」「春の熊くらい好きだよ」「春の熊?」と緑がまた顔を上げた。「それ何よ、春の熊って?」「春の野原を君が一人で歩いているとね、向こうからビロードみたいな毛なみの目の繰りっとした可愛い子熊がやってくるんだ。そして君にこう言うんだよ。『今日は、お嬢さん、僕と一緒に転がりっこしませんか』って言うんだ。そして君と子熊で抱きあってクローバーの茂った丘の斜面をころころと転がって一日中遊ぶんだ。そういうのって素敵だろう?」「すごく素敵」「それくらい君のことが好きだ」緑は僕の胸にしっかりと抱きついた。「最高」と彼女は言った。「そんなに好きなら私の言うことなんでも聞いてくれるわよね? 怒らないわよね?」「もちろん」「それで私のことずっと大事にしてくれるわよね」「もちろん」と僕は言った。そして彼女の短くてやわらかい小さな男の子のような髪を撫でた。「大丈夫、心配ないよ。何もかもうまくいくさ」「でも怖いのよ、私」と緑は言った。

 
 
「ねえ、どうしたのよ。ワタナベ君?」と緑は言った。「ずいぶんやせちゃったじゃない、あなた?」「そうかな?」と僕は言った。「やりすぎたんじゃない、その人妻の愛人と?」僕は笑って首を振った。「去年の十月の初めから女と寝たことなんて一度もないよ」緑はかすれた口笛を吹いた。「もう半年もあれやってないの?本当?」「そうだよ」「じゃあ、どうしてそんなにやせちゃったの?」「大人になったからだよ」と僕は言った。・・・
「ねえ、ワタナベ君、本当にもう半年もセックスしてないの?」「してないよ」と僕は言った。「じゃあ、この前私を寝かしつけてくれた時なんか本当はすごくやりたかったんじゃないの?」「まあ、そうだろうね」「でもやらなかったのね?」「君は今、僕の一番大事な友だちだし、君を失くしたくないからね」と僕は言った。「私、あのときあなたが迫ってきてもたぶん拒否できなかったわよ。あのときすごく参ってたから」「でも僕のは固くて大きいよ」彼女はにっこり笑って、僕の手首にそっと手を触れた。「私、少し前からあなたのこと信じようって決めたの。百パーセント。だからあのときだって私、安心しきってぐっすり眠っちゃったの。あなたとなら大丈夫だ。安心していいって。ぐっすり眠ったでしょう。私?」「うん、たしかに」と僕は言った。「そうしてね、もし逆にあなたが私に向かって『おい緑、俺とやろう。そうすれば何もかもうまく行くよ。だから俺とやろう』って言ったら、私たぶんやっちゃうと思うの。でもこういうこと言ったからって、私があなたのことを誘惑したとか、からかって刺激しているとかそんな風には思わないでね。私はただ自分の感じていることをそのまま正直にあなたに伝えたかっただけなのよ」「わかっているよ」と僕は言った。


 

 直子が死んでしまったあとでも、レイコさんは僕に何度も手紙を書いてきて、それは僕のせいではないし、誰のせいでもないし、それは雨ふりのように誰にもとめることのできないことなのだと言ってくれた。しかし、それに対して僕は返事を書かなかった。なんて言えばいいのだ? それにそんなことはもうどうでもいいことなのだ。直子はもうこの世界には存在せず、一握りの灰になってしまったのだ。・・・
 僕が求めていたのは知らない町でぐっすり眠ることだけだった。・・・・
 僕は一度緑に電話をかけてみた。彼女の声がたまらなく聞きたかったからだ。
「あなたね、学校はもうとっくの昔に始まってんのよ」と緑は言った。「レポート提出するやつだってけっこうあるのよ。どうするのよ、いったい? あなたこれで三週間も音信不通だったのよ。どこにいて何してるのよ?」「悪いけど、今は東京に戻れないんだ。まだ」「言うことはそれだけなの?」「だから今は何も言えないんだよ、うまく。十月になったら──」緑は何も言わずにがちゃんと電話を切った。
 
 


 僕は緑に電話をかけ、君とどうしても話がしたいんだ。話すことがいっぱいある。はなさなくちゃいけないことがいっぱいある。世界中に君以外に求めるものは何もない。君と会って話したい。何もかもを君と二人で最初から始めたい、と言った。
 緑は長いあいだ電話の向こうで黙っていた。まるで世界中の細かい雨が芝生に降っているようなそんな沈黙がつづいた。僕はそのあいだガラス窓にずっと額を押しつけて目を閉じていたそれからやがて緑が口を開いた。「あなた、今どこにいるの?」と彼女は静かな声で言った。
 僕は今どこにいるのだ?
 僕は受話器を持ったまま顔を上げ、電話ボックスのまわりをぐるりと見まわしてみた。僕はどこにいるのだ? でもそこがどこなのか僕にはわからなかった。見当もつかなかった。いったいここはどこなんだ? 僕の目にうつるのはいずこへとなく歩きすぎていく無数の人々の姿だけだった。僕はどこでもない場所のまん中から緑を呼びつづけていた。