花鳥の使ひの歌七首
天平宝字二年(758)二月に万葉集後編「宇梅乃波奈」が完成したとしますと、政治情勢からその万葉集の中でそれと判るように橘諸兄とその子の橘奈良麻呂、また丹比一族や大伴一族の関係者を、歌を詠って悼むことは出来ません。擬(なぞら)えて詠うだけです。
狭野弟上娘子への贈答歌五十六首が、擬えて丹比国人への万葉集後編「宇梅乃波奈」の編纂を引き受けた時の編纂の思いとしますと、花鳥の使ひの歌七首はその万葉集後編「宇梅乃波奈」の編纂がなった後に「寄花鳥陳思」と記すように花と鳥に何かを擬えて想いを詠う歌です。その時、擬ふ花は橘の花で、鳥は過去の時代を乞う霍公鳥(ほととぎす)です。
先の「長屋王の変」のときに大伴旅人と藤原房前の擬える相手が長屋王一族や元正上皇であるならば、「橘奈良麻呂の変」のときに花鳥の使ひの歌七首の擬える相手は橘一族と孝謙上皇ではないでしょうか。そして、万葉集です。
そんな想いで歌を私訳しています。私訳は標準的なもので、呆訳は呆れるような特異な訳です。
集歌3779 和我夜度乃 波奈多知婆奈波 伊多都良尓 知利可須具良牟 見流比等奈思尓
訓読 吾(わ)が屋戸の花橘はいたづらに散りか過ぐらむ見る人なしに
私訳 我が家の花橘は空しく散りすぎて逝くのだろうか。見る人もなくて。
呆訳 私が尊敬する万葉集と橘家の人々は空しく散っていくのだろうか、思い出す人もいなくて。
集歌3780 古非之奈婆 古非毛之祢等也 保等登藝須 毛能毛布等伎尓 伎奈吉等余牟流
訓読 恋死なば恋ひも死ねとや霍公鳥物思ふ時に来鳴き響(とよ)むる
私訳 恋が死ぬのなら慕う心も死ねと云うのか、霍公鳥は物思いするときに来鳴きてその鳴き声を響かせる
呆訳 和歌が死ぬのなら和歌を慕う気持ちも死ねと云うのか。過去を乞う霍公鳥は私が和歌を思って物思いにふけるときに、その過ぎ去った過去を求める鳴き声を響かせる。
集歌3781 多婢尓之弖 毛能毛布等吉尓 保等登藝須 毛等奈那難吉曽 安我古非麻左流
訓読 たひにして物思ふ時に霍公鳥もとなな鳴きそ吾(あ)が恋まさる
私訳 たひにして物思いするときに、霍公鳥よ、本なしに鳴くな。私の恋う気持ちがましてくる。
呆訳 多くの歌の牌の万葉集を思って物思いするときに、霍公鳥よ、頼りなくに過去を乞うて鳴くな。私の和歌を慕う気持ちが増してくる。
説明 旅の「たひ」の場合、万葉仮名では主に多比か多妣の用字を使います。それが多婢の用字です。私は「多牌」の字が欲しかったのだと想っています。また、集歌3781と集歌3783との歌の設定は、自宅の風景が目にあります。旅の宿ではありません。それに左注に「寄花鳥陳思」とあるように、娘女への贈答にはなっていません。
集歌3782 安麻其毛理 毛能母布等伎尓 保等登藝須 和我須武佐刀尓 伎奈伎等余母須
訓読 雨隠(あまごも)り物思ふ時に霍公鳥我が住む里に来鳴き響(とよ)もす
私訳 雨で家にこもって物思いするときに、霍公鳥が私の住む里に来鳴きてその鳴き声を響かせる。
呆訳 雨の日に家にこもって物思いするときに、霍公鳥が私の住む里に来鳴きて、その過去の時代を乞う鳴き声を私の心の中に響かせる。
集歌3783 多婢尓之弖 伊毛尓古布礼婆 保登等伎須 和我須武佐刀尓 許欲奈伎和多流
訓読 たひにして妹に恋ふれば霍公鳥我が住む里にこよ鳴き渡る
私訳 たひにあってあの人を恋しく思うと、霍公鳥が私の住む里にやって来て鳴き渡っていく。
呆訳 多くの歌の牌を編纂した万葉集を恋しく思うと、あの人が霍公鳥の姿に身を変えて私の住む里にやって来て過去を乞うて鳴き渡っていく。
集歌3784 許己呂奈伎 登里尓曽安利家流 保登等藝須 毛能毛布等伎尓 奈久倍吉毛能可
訓読 心なき鳥にぞありける霍公鳥物思ふ時に鳴くべきものか
私訳 無常な鳥だよなあ、霍公鳥は。私が物思いするときに鳴くだけだろうか。
集歌3785 保登等藝須 安比太之麻思於家 奈我奈氣婆 安我毛布許己呂 伊多母須敝奈之
訓読 霍公鳥間(あひだ)しまし置け汝(な)が鳴けば吾(あ)が思(も)ふ心いたも術(すべ)なし
私訳 霍公鳥よ、しばらく鳴くのに間を置け。お前が鳴くと私が昔の人々を物思う心はどうしようもなくなってします。
右七首、中臣朝臣宅守寄花鳥陳思作歌
注訓 右の七首は、中臣朝臣宅守の花鳥に寄せ思(おもひ)を陳(の)べて作れる歌
古今和歌集の両序で紀貫之は、この「色好む家」の「寄花鳥陳思作歌」をもって和歌は時代に埋もれて逝ったとしています。歴史では、橘奈良麻呂の変(757)以降も大伴家持は二十年余りも生き続けますが、天平宝字三年(759)正月以降から彼が死ぬ延暦四年(785)まで、その間の家持の詠う和歌は万葉集にも古今和歌集にも取られていません。また、他の大中臣清麿や大原今城たちもまた沈黙を守ります。さて、和歌と竹取の翁が歌い上げた天平勝宝の時代の和歌を愛し、それを詠い挙げる心はどこへ行ったのでしょうか。
史書から、万葉集後編「宇梅乃波奈」の誕生に関わると思われる大原今城の夜叉孫にあたる大原全子が嵯峨天皇の側に入り生まれた子が源の融で、この源融は嵯峨源氏一門の祖です。ここらから、大伴家持に関わる歌集の伝承に対する普段の人の推論の例とは違い、天平宝字以降の和歌の歌々や大中臣清麿や大原今城たちの詠う歌は古今和歌集を編纂した紀貫之たちへ確かに伝わったはずですが、古今和歌集には彼らのその後の歌は一首も採られていません。紀貫之たちにとって、称徳天皇から平城天皇までの和歌は、旧歌でも古今和歌でも、そのいずれでもないのでしょうか。
つまらない粗文にお付き合いいただきありがとうございました。
天平宝字二年(758)二月に万葉集後編「宇梅乃波奈」が完成したとしますと、政治情勢からその万葉集の中でそれと判るように橘諸兄とその子の橘奈良麻呂、また丹比一族や大伴一族の関係者を、歌を詠って悼むことは出来ません。擬(なぞら)えて詠うだけです。
狭野弟上娘子への贈答歌五十六首が、擬えて丹比国人への万葉集後編「宇梅乃波奈」の編纂を引き受けた時の編纂の思いとしますと、花鳥の使ひの歌七首はその万葉集後編「宇梅乃波奈」の編纂がなった後に「寄花鳥陳思」と記すように花と鳥に何かを擬えて想いを詠う歌です。その時、擬ふ花は橘の花で、鳥は過去の時代を乞う霍公鳥(ほととぎす)です。
先の「長屋王の変」のときに大伴旅人と藤原房前の擬える相手が長屋王一族や元正上皇であるならば、「橘奈良麻呂の変」のときに花鳥の使ひの歌七首の擬える相手は橘一族と孝謙上皇ではないでしょうか。そして、万葉集です。
そんな想いで歌を私訳しています。私訳は標準的なもので、呆訳は呆れるような特異な訳です。
集歌3779 和我夜度乃 波奈多知婆奈波 伊多都良尓 知利可須具良牟 見流比等奈思尓
訓読 吾(わ)が屋戸の花橘はいたづらに散りか過ぐらむ見る人なしに
私訳 我が家の花橘は空しく散りすぎて逝くのだろうか。見る人もなくて。
呆訳 私が尊敬する万葉集と橘家の人々は空しく散っていくのだろうか、思い出す人もいなくて。
集歌3780 古非之奈婆 古非毛之祢等也 保等登藝須 毛能毛布等伎尓 伎奈吉等余牟流
訓読 恋死なば恋ひも死ねとや霍公鳥物思ふ時に来鳴き響(とよ)むる
私訳 恋が死ぬのなら慕う心も死ねと云うのか、霍公鳥は物思いするときに来鳴きてその鳴き声を響かせる
呆訳 和歌が死ぬのなら和歌を慕う気持ちも死ねと云うのか。過去を乞う霍公鳥は私が和歌を思って物思いにふけるときに、その過ぎ去った過去を求める鳴き声を響かせる。
集歌3781 多婢尓之弖 毛能毛布等吉尓 保等登藝須 毛等奈那難吉曽 安我古非麻左流
訓読 たひにして物思ふ時に霍公鳥もとなな鳴きそ吾(あ)が恋まさる
私訳 たひにして物思いするときに、霍公鳥よ、本なしに鳴くな。私の恋う気持ちがましてくる。
呆訳 多くの歌の牌の万葉集を思って物思いするときに、霍公鳥よ、頼りなくに過去を乞うて鳴くな。私の和歌を慕う気持ちが増してくる。
説明 旅の「たひ」の場合、万葉仮名では主に多比か多妣の用字を使います。それが多婢の用字です。私は「多牌」の字が欲しかったのだと想っています。また、集歌3781と集歌3783との歌の設定は、自宅の風景が目にあります。旅の宿ではありません。それに左注に「寄花鳥陳思」とあるように、娘女への贈答にはなっていません。
集歌3782 安麻其毛理 毛能母布等伎尓 保等登藝須 和我須武佐刀尓 伎奈伎等余母須
訓読 雨隠(あまごも)り物思ふ時に霍公鳥我が住む里に来鳴き響(とよ)もす
私訳 雨で家にこもって物思いするときに、霍公鳥が私の住む里に来鳴きてその鳴き声を響かせる。
呆訳 雨の日に家にこもって物思いするときに、霍公鳥が私の住む里に来鳴きて、その過去の時代を乞う鳴き声を私の心の中に響かせる。
集歌3783 多婢尓之弖 伊毛尓古布礼婆 保登等伎須 和我須武佐刀尓 許欲奈伎和多流
訓読 たひにして妹に恋ふれば霍公鳥我が住む里にこよ鳴き渡る
私訳 たひにあってあの人を恋しく思うと、霍公鳥が私の住む里にやって来て鳴き渡っていく。
呆訳 多くの歌の牌を編纂した万葉集を恋しく思うと、あの人が霍公鳥の姿に身を変えて私の住む里にやって来て過去を乞うて鳴き渡っていく。
集歌3784 許己呂奈伎 登里尓曽安利家流 保登等藝須 毛能毛布等伎尓 奈久倍吉毛能可
訓読 心なき鳥にぞありける霍公鳥物思ふ時に鳴くべきものか
私訳 無常な鳥だよなあ、霍公鳥は。私が物思いするときに鳴くだけだろうか。
集歌3785 保登等藝須 安比太之麻思於家 奈我奈氣婆 安我毛布許己呂 伊多母須敝奈之
訓読 霍公鳥間(あひだ)しまし置け汝(な)が鳴けば吾(あ)が思(も)ふ心いたも術(すべ)なし
私訳 霍公鳥よ、しばらく鳴くのに間を置け。お前が鳴くと私が昔の人々を物思う心はどうしようもなくなってします。
右七首、中臣朝臣宅守寄花鳥陳思作歌
注訓 右の七首は、中臣朝臣宅守の花鳥に寄せ思(おもひ)を陳(の)べて作れる歌
古今和歌集の両序で紀貫之は、この「色好む家」の「寄花鳥陳思作歌」をもって和歌は時代に埋もれて逝ったとしています。歴史では、橘奈良麻呂の変(757)以降も大伴家持は二十年余りも生き続けますが、天平宝字三年(759)正月以降から彼が死ぬ延暦四年(785)まで、その間の家持の詠う和歌は万葉集にも古今和歌集にも取られていません。また、他の大中臣清麿や大原今城たちもまた沈黙を守ります。さて、和歌と竹取の翁が歌い上げた天平勝宝の時代の和歌を愛し、それを詠い挙げる心はどこへ行ったのでしょうか。
史書から、万葉集後編「宇梅乃波奈」の誕生に関わると思われる大原今城の夜叉孫にあたる大原全子が嵯峨天皇の側に入り生まれた子が源の融で、この源融は嵯峨源氏一門の祖です。ここらから、大伴家持に関わる歌集の伝承に対する普段の人の推論の例とは違い、天平宝字以降の和歌の歌々や大中臣清麿や大原今城たちの詠う歌は古今和歌集を編纂した紀貫之たちへ確かに伝わったはずですが、古今和歌集には彼らのその後の歌は一首も採られていません。紀貫之たちにとって、称徳天皇から平城天皇までの和歌は、旧歌でも古今和歌でも、そのいずれでもないのでしょうか。
つまらない粗文にお付き合いいただきありがとうございました。
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