万葉集後編 宇梅乃波奈の誕生日
万葉集前編 奈弖之故(なでしこ)は、舒明天皇の国見の歌から元明天皇の平城京への遷都までの八代の御世の歌々を集めた歌集で、その中心は柿本人麻呂です。その万葉集前編「奈弖之故」は、孝謙天皇の橘諸兄への御下問により事業が始まり丹比国人を中心に編纂が行われれ、天平勝宝七年(755)五月十一日に完成のお披露目が橘諸兄の屋敷で行われています。
元明天皇の平城京への遷都までの万葉集前編「奈弖之故」の上梓以降も、丹比国人の手による和歌の編纂作業は続いていたようですが、その最中の天平勝宝九年(757)七月に橘奈良麻呂の変が起きます。これに関連して丹比国人は遠江国守から召還され罪有りとされて、そのまま伊豆国への流刑に処されています。ほぼ、この段階で万葉集後編となる「宇梅乃波奈」の編纂作業は中断したでしょう。
しかし、ここで見たように「宇梅乃波奈」は天平宝字二年(758)二月にお披露目が中臣清麿の屋敷でなされていますから、誰かが丹比国人の手による原「宇梅乃波奈」の編纂作業を引き継ぎ、その形を整えたのではないでしょうか。その誰かの筆頭は、私の感覚では中臣宅守が筆頭になりますが。ただ、この風景からは万葉集の基本的な編纂作業は丹比国人の手によるものでしょうから、丹比国人の伊豆国への流刑以降は新規の編纂作業は行われなくなったでしょうし、万葉集後編の「宇梅乃波奈」は中途半端な形を取らざるを得ないと思われます。それが、万葉集前編「奈弖之故」の対比として、万葉集後編の「宇梅乃波奈」が元明天皇の奈良遷都から聖武天皇の難波遷都までの形で終わっているのに、巻十七以降に大伴家持の日記が加わり歌集としての収拾が付かなくなった理由ではないでしょうか。
結果、万葉集を編纂した丹比国人は柿本人麻呂と大伴旅人を二つの和歌の高峰と称しましたが、現在に至るまで万葉集を凌駕する和歌集が無いとすると、万葉集の編集長である丹比国人もまた和歌の高峰ではないでしょうか。丹比国人の後、百五十年待って紀貫之が古今和歌集を編纂するまで見るべきものはありません。そして、その紀貫之は古今和歌集歌番号1002の「ふるうたたてまつりし時のもくろくの、そのながうた」で示すように、丹比国人の巨大な姿を常に意識して古今和歌集を編纂しています。
ここで、この章の題にあるように少し万葉集の誕生日の日付にこだわると、万葉集前編の「奈弖之故」が上梓されたのが、天平勝宝七年五月十一日です。本来の和暦表示の日付は、天平勝宝七歳五月己未朔己已と記します。この日は養蚕掃立の吉日で十二直の建(たつ)、二十八宿の弖(てい)に中ります。養蚕掃立の吉日・十二直の建・二十八宿の弖と、すべて根本に関わる物事の開始に相応しい吉日です。これは、暦での吉凶占いを行い十分に計画されたお披露目の日程です。
すると、万葉集後編の「宇梅乃波奈」が同じ視線で暦での吉凶占いを行い十分に計画された上梓のお披露目があったとすると、暦の吉凶からの上梓が行われた一番の可能性は、天平宝字二年二月癸卯朔丁已がもっとも相応しい日に中ります。この日は、養蚕掃立の吉日で十二直の満(みつ)、二十八宿の角(かく)に中り、その暦の吉凶からの日付の由来そのものが万葉集の完成を示します。逆に、万葉集が「満」とすると、この日で万葉集の編纂作業は終わりです。
ここから、私は万葉集後編の「宇梅乃波奈」の誕生日を天平宝字二年(758)二月癸卯朔丁已(十五日)とします。
万葉集前編 奈弖之故(なでしこ)は、舒明天皇の国見の歌から元明天皇の平城京への遷都までの八代の御世の歌々を集めた歌集で、その中心は柿本人麻呂です。その万葉集前編「奈弖之故」は、孝謙天皇の橘諸兄への御下問により事業が始まり丹比国人を中心に編纂が行われれ、天平勝宝七年(755)五月十一日に完成のお披露目が橘諸兄の屋敷で行われています。
元明天皇の平城京への遷都までの万葉集前編「奈弖之故」の上梓以降も、丹比国人の手による和歌の編纂作業は続いていたようですが、その最中の天平勝宝九年(757)七月に橘奈良麻呂の変が起きます。これに関連して丹比国人は遠江国守から召還され罪有りとされて、そのまま伊豆国への流刑に処されています。ほぼ、この段階で万葉集後編となる「宇梅乃波奈」の編纂作業は中断したでしょう。
しかし、ここで見たように「宇梅乃波奈」は天平宝字二年(758)二月にお披露目が中臣清麿の屋敷でなされていますから、誰かが丹比国人の手による原「宇梅乃波奈」の編纂作業を引き継ぎ、その形を整えたのではないでしょうか。その誰かの筆頭は、私の感覚では中臣宅守が筆頭になりますが。ただ、この風景からは万葉集の基本的な編纂作業は丹比国人の手によるものでしょうから、丹比国人の伊豆国への流刑以降は新規の編纂作業は行われなくなったでしょうし、万葉集後編の「宇梅乃波奈」は中途半端な形を取らざるを得ないと思われます。それが、万葉集前編「奈弖之故」の対比として、万葉集後編の「宇梅乃波奈」が元明天皇の奈良遷都から聖武天皇の難波遷都までの形で終わっているのに、巻十七以降に大伴家持の日記が加わり歌集としての収拾が付かなくなった理由ではないでしょうか。
結果、万葉集を編纂した丹比国人は柿本人麻呂と大伴旅人を二つの和歌の高峰と称しましたが、現在に至るまで万葉集を凌駕する和歌集が無いとすると、万葉集の編集長である丹比国人もまた和歌の高峰ではないでしょうか。丹比国人の後、百五十年待って紀貫之が古今和歌集を編纂するまで見るべきものはありません。そして、その紀貫之は古今和歌集歌番号1002の「ふるうたたてまつりし時のもくろくの、そのながうた」で示すように、丹比国人の巨大な姿を常に意識して古今和歌集を編纂しています。
ここで、この章の題にあるように少し万葉集の誕生日の日付にこだわると、万葉集前編の「奈弖之故」が上梓されたのが、天平勝宝七年五月十一日です。本来の和暦表示の日付は、天平勝宝七歳五月己未朔己已と記します。この日は養蚕掃立の吉日で十二直の建(たつ)、二十八宿の弖(てい)に中ります。養蚕掃立の吉日・十二直の建・二十八宿の弖と、すべて根本に関わる物事の開始に相応しい吉日です。これは、暦での吉凶占いを行い十分に計画されたお披露目の日程です。
すると、万葉集後編の「宇梅乃波奈」が同じ視線で暦での吉凶占いを行い十分に計画された上梓のお披露目があったとすると、暦の吉凶からの上梓が行われた一番の可能性は、天平宝字二年二月癸卯朔丁已がもっとも相応しい日に中ります。この日は、養蚕掃立の吉日で十二直の満(みつ)、二十八宿の角(かく)に中り、その暦の吉凶からの日付の由来そのものが万葉集の完成を示します。逆に、万葉集が「満」とすると、この日で万葉集の編纂作業は終わりです。
ここから、私は万葉集後編の「宇梅乃波奈」の誕生日を天平宝字二年(758)二月癸卯朔丁已(十五日)とします。
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