竹取翁と万葉集のお勉強

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山部赤人を鑑賞する  芳野の離宮で詔に應へて作れる謌

2010年11月18日 | 万葉集 雑記
芳野の離宮で詔に應へて作れる謌
 この歌は、山部赤人が創った唯一の奉呈歌で、標題に示すように天平八年(736)六月二十七日から七月十三日までの、芳野離宮への聖武天皇の御幸での歌です。集歌923の歌から始まる芳野賛歌五首は、神亀二年(725)のものです。そこには、およそ十年の年月が経っています。山部赤人が創った奉呈歌はこれが唯一ですから、もし、山部赤人を宮廷歌人と呼ぶならば、およそ、宮廷歌人の示す意味合いが専門家と素人ではずいぶん違うようです。素人は宮廷歌人の意味合いを宮廷内に居て、儀礼や日常で貴人に詩歌で奉仕する人と理解しますが、専門家の云う宮廷歌人とは、官吏が勤務で詩歌を風流で詠う場合も宮廷歌人と分類するようです。一方、宮廷内のサロンのような場で貴人と日常接し、詩歌を詠う人々(特に女性)は、宮廷歌人と云わない場合があります。ここらから、この歌は、万葉集を鑑賞する時に宮廷歌人なる言葉が出てきた場合は、一般人の思う「宮廷歌人」とは違う専門用語として理解する必要性を示す重要な歌です。
 さて、神亀二年から天平八年までの十年の年月の間に、時代はそろそろ、大和歌から懐風藻に代表される漢詩へと移る時代と成って来ています。そのためでしょうか、この吉野への御幸では山部赤人が詠うこの歌だけが、天平八年吉野御幸の歌として万葉集に採歌されています。

八年丙子夏六月、幸于芳野離宮之時、山部宿祢赤人應詔作謌一首并短謌
標訓 八年丙子の夏六月に、芳野の離宮(とつみや)に幸(いでま)しし時に、山部宿祢赤人の詔(みことのり)に應(こた)へて作れる謌一首并せて短謌

集歌1005 八隅知之 我大王之 見給 芳野宮者 山高 雲曽軽引 河速弥 湍之聲曽清寸 神佐備而 見者貴久 宜名倍 見者清之 此山
之 盡者耳社 此河乃 絶者耳社 百師紀能 大宮所 止時裳有目

訓読 やすみしし 我が大王(おほきみ)の 見し給ふ 芳野の宮は 山高み 雲ぞたなびく 川速み 瀬の音(と)ぞ清(きよ)き 神さびて 見れば貴(とほと)く 宜(よろ)しなへ 見れば清(さや)けし この山の 尽(つ)きばのみこそ この川の 絶えばのみこそ ももしきの 大宮所 止む時もあらめ

私訳 四方八方をあまねく承知される我々の大王が支配為される吉野の宮は、山が高く雲が棚引き、川の流れは早く瀬の川音が清らかである。その景色は神々しく、見ると貴く親しみがあり、見れば清らかである。この山が崩れなくなり、この川の水が絶えることがあるとき、立派な岩を積み上げた大宮のこの地が廃止されるときもあるでしょう。


反謌一首
集歌1006 自神代 芳野宮尓 蟻通 高所知者 山河乎吉三
訓読 神代(かむよ)より芳野の宮にあり通ひ高(たか)知(し)らせるは山川をよみ

私訳 神代から吉野の宮に通い続け天まで統治を為されるのは、この山や川が清らかであるかです。


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