万葉雑記 色眼鏡 百一 遊仙窟の享受と万葉人の好み (鴨頭草から楽しむ)
以前、『万葉集』に収容される柿本人麻呂歌集に載る歌で使われる句「千遍死」は『遊仙窟』を典拠とすると云う解説を確認するため、典拠と示された『遊仙窟』について原文を整備した上で、それを眺めました。いつものことですが、我ながら馬鹿げたことをしています。当然、典拠を述べる時、一番簡単なのは先行する権威の論説を無批判で使うことです。次いでは論説を参考として表面上の文字列の比較を行うことです。似た文字列が認められればそれを典拠とすればいい訳ですから、非常に楽です。ただ、古典作品の享受とその影響を云う場合は、それでは社会人のする鑑賞にはならないのではないでしょうか。
もし、『遊仙窟』で使われる文字列で、先行する古典で用いられる語法とは違うものや創語であるもの、その特別な文字列と同じものが『万葉集』にあり、かつ、同じような意味合いで使われていることが示せれば、その時、『遊仙窟』の読書経験があると云うことになるのでしょう。さらに、特別な文字列で示す内容を踏まえ、それを発展していることを認めれば、享受・受容していると指摘が出来ると考えます。ただ、それを示すことが出来ないのですと、偶然の一致かもしれませんし、他の古典や古い時代の漢漢辞典からの引用かもしれません。同じ類似の文字列と云う視線からしますと『遊仙窟』と『万葉集』とに「光儀」や「鴨頭」などと云う同じ特殊用法の文字列がありますが、なかなか、このような言葉は取り上げることはしないようです。
与太話はさておき、『遊仙窟』に載る次の詩文を紹介しようと思います。この詩文の前提として、詩文が詠われた場の設定は、唐初時代の「酒令」と云う、正式の着座での食事の後に行われる男女が入り乱れくだけた酒や歌舞を伴う教養人たちの宴会です。そのような場での遊びとして参加する人々の教養水準を競う詩文ですので、参加者の設定もまた士大夫階級の男とそれに見合う特別な教育を受けた妓女と云うことになります。従いまして、小説の進行から淫靡な場面を暗示するものと思われても表面上は建て前の顔を示します。逆に淫靡と思えるような表現であっても建て前の顔で詩文を解釈するのが大人の決まりです。
ここで『遊仙窟』から紹介する次の詩文はそのようなものであることを了解して下さい。
<例題詩文>
于時、硯在床頭、下官因詠筆硯曰、摧毛任便點、愛色轉須磨。所以研難竟、良由水太多。
十娘忽見鴨頭鐺子、因詠曰、嘴長非為嗍、項曲不由攀。但令脚直上、他自眼雙翻。
漢詩文の読解の手間を省くために翻訳文を紹介しますが、先に述べた”建前の顔”を持つと云う背景がありますから、表の顔を優先するか、裏の顔をも考慮するかにより訳文の表現は変わります。それを踏まえて比較的安価で入手が容易な『遊仙窟』の訳本から訳文を三つほど紹介します。
<漆山又四朗訳註、岩波文庫;訓読みスタイル> 注:原文は訓読文とは別に解説に掲載
摧毛任便點 毛を摧きて便りに任して點す
愛色轉須磨 色を愛して轉た須らく磨すべし
所以研難竟 研りて竟り難き所以のものは
良由水太多 良に水の太だ多きに由る
嘴長非為嗍 嘴の長きは嗍はんが為に非ず
項曲不由攀 項の曲れるは攀づるに由らず
但令脚直上 但だ脚をして直ちに上げしめば
他自眼雙翻 他も自も眼雙び翻らん
<今村与志雄訳、岩波文庫;意訳文スタイル> 注:原文は詩文だけを掲載
摧毛任便點 毛を抜いて使いよくさせる
愛色轉須磨 色をめでて、かえってすらなきゃならない
所以研難竟 だから、すりおわるのがむずかしい
良由水太多 まったく水気が多すぎるせいだ
嘴長非為嗍 口が長いのは、吸われるためではなく
項曲不由攀 うなじが曲がっているのは、手をかけられたからでもない
但令脚直上 脚をまっすぐ上にあげさえしたら
他自眼雙翻 あれは眼のたまがひっくりかえる
<前野直彬訳、東洋文庫;意訳文スタイル> 注:原文の掲載は一切無し
毛をおさえ、筆をおとさば落すまま
濃き色は、磨るほどいいよあらわるる
墨をとる、わが手のとどめあえざるは
げにやこの、水のあまりに多ければこそ
くちばしの、長きは吸われんためならず
ほそくびの、曲るも抱かるるゆえならず
この足を、真上にあげしときのみぞ
かの人は、双の眼を見はりなむ
とあります。
それぞれ、訳者の研究態度と出版趣旨により訳文スタイルは違いますし、使う原文典拠もそれぞれに違います。ただし、三人の共通点として、この詩文は表と裏の二つの顔を持ちますが、原則として表の顔だけを紹介して、裏の顔(洒落)を示していません。特に前野直彬氏のものは使った原文自体を書籍中に紹介していませんから、その書籍だけでは詩文に表裏二面の顔を持っていると云うことを知ることは出来ません。さらに意訳文の解説でも詩文が表裏二面を持つことを示唆しませんから、一般の人がそれに気付くことは難しいのではないでしょうか。一方、今村与志雄氏は判る人は判ると云う態度で、地文は訳文のみで原文紹介はありませんが、詩文は原文を優先して訳文は従と云う立場です。読者が原文から自己責任で裏の顔(洒落)に気付く必要がありますし、編集態度がそれを示唆しています。なお、漆山又四朗氏のものは原文からの忠実な訓読を試みたものですので、すべては鑑賞者の自己責任と能力で、原文が示す唐初時代の読書階級向けのポルノ小説をポルノ小説として鑑賞する責任があります。
今村与志雄氏が示唆するように詩文には裏の顔(洒落)もありますから、参考として紹介を試みます。注意事項として、詩文で使われている「摧」、「研」、「攀」などの語字について『漢辞海』以上の漢字辞典などから調べて頂くと、標準的な意味合いの他に特殊な意味を持つ言葉であることに気付くと思います。その特殊な意味から詩文が持つ“洒落”を探りますと、次のようなものとなります。
摧毛任便點 和毛(にこげ)を分け、お核(さね)に気持ちよくすることに身を任せ
愛色轉須磨 愛される気分からか、かえって愛撫を求めてしまう
所以研難竟 それを求めるから、じっくり見つめるのを止められない
良由水太多 気持ちがいいからか、愛液がたっぷり溢れ出ている
嘴長非為嗍 唇を長くするのはあそこを吸うためだけではなく
項曲不由攀 項(うなじ)を曲げるのはあそこに顔を添えたいからではない
但令脚直上 もし、脚を大きく開かせられたら
他自眼雙翻 貴方も私も眼の玉がひっくりかえってしまう
紹介した裏の解釈は特別、恣意的な創訳ではありません。例えば「研」と云う語に「とぐ」だけではなく「深く究める」や「じっくり見つめる」の意味があるようにそれぞれに別な意味があり、巧みにそのような語字が使われています。これが酒令でも特別に雅飲と称される宴会での詩文です。逆の裏の顔が判っても、表の顔として理解していると示すのが大人の酒宴です。およそ、表面上のものだけでなく、洒落として裏のものも楽しめないようでは筆よりも重たいものを持たないと云うような士大夫階級では教養的に落第なのでしょう。当然、「眼雙翻」の句は“する男”と“される女”では様子は違います。興奮で目を見開くか、快感に白目を剥くかの違いです。これもまた文士たる人々の遊びです。
『遊仙窟』にこのような洒落があると認めますと、その詩文の題目として付けられた「鴨頭鐺子」もまた洒落を持つ言葉であろうと推測させます。「鐺子」は一般には三本足を持つナベや液体を入れる容器を意味しますから、ここでは硯に添える小さな水差しです。一方、そのような場合、水差しの頭と首はその目的からしますと、先を細くしほっそりしている鶴の首を比喩や意匠にするのが相応しいはずです。ですから、日本ではそれをそのものずばり“鶴首”と呼びます。ところが、『遊仙窟』では先太りで頭がずんぐりの“鴨の頭”と云う表現を使っています。およそ、この「鴨頭」と云う表現は詩文が示す洒落からしますと、”先が丸く太く、茎がずんぐりしている“とイメージを示し、勃起した男根を想像させる洒落であろうと考えます。つまり、「鴨頭」とは隠語です。
これを踏まえて、『万葉集』で遊びたいと思います。
さて、『万葉集』には「鴨頭鐺子」ではありませんが「鴨頭草」と云う言葉を使う歌が四首あります。それが次の歌です。「鴨頭草」については『本草和名』に「都岐久佐」と訓じるとの解説から「ツキクサ」と読み、現在の露草と推定されています。掲載の順とは違いますが『万葉集』の巻十二に載る集歌3058の歌の句「鴨頭草之 移情 吾思名國」と集歌3059の歌の「月草之 移情 吾将持八方」の対比関係からも「鴨頭草」は「月草」と同じ読みを行い「ツキクサ」の訓じと推定出来るのではないでしょうか。ただ、中国では薬草として扱うときの露草の名称は「鴨跖草」と表記し、それは正面から見た花の形が鴨の固い足の裏の姿を示しているところからのものです。つまり、「鴨頭草」は日本で創られた漢字表記なのです。そのため、どうして「鴨頭草」と表記するのかと云う語源は良く判っていないようです。
集歌1339 鴨頭草丹 服色取 揩目伴 移變色登 称之苦沙
訓読 鴨頭草(つきくさ)に衣(ころも)色どり揩(す)らめども移(うつ)ろふ色と称(い)ふし苦しさ
私訳 ツユクサで衣を色取り摺り染めたのだけど、移り変わりやすい色とあてこするのが残念です。
集歌2281 朝露尓 咲酢左乾垂 鴨頭草之 日斜共 可消所念
訓読 朝露に咲きすさびたる鴨頭草(つきくさ)し日くたつなへに消(け)ぬべく思ほゆ
私訳 朝露の中に咲き誇っているツユクサが、日が傾いていくにつれしぼむように、気持ちがしぼむように感じられます。
集歌2291 朝開 夕者消流 鴨頭草 可消戀毛 吾者為鴨
訓読 朝(あした)咲き夕(ゆうへ)は消(け)ぬる鴨頭草(つきくさ)し消(け)ぬべき恋も吾はするかも
私訳 朝に咲き、夕べにしぼむツユクサのように、心がしぼむような私の命、そして恋も、私はするのでしょう。
集歌3058 内日刺 宮庭有跡 鴨頭草之 移情 吾思名國
訓読 うち日さす宮にはあれど鴨頭草(つきくさ)しうつろふ情(こころ)吾が思はなくに
私訳 きらきらと日の射す大宮に居て多くの殿方と接するけども、ツユクサのように褪せやすい気持ちを私は思ってもいません。
<関連参考歌>
集歌3059 百尓千尓 人者雖言 月草之 移情 吾将持八方
訓読 百(もも)に千(ち)に人は言ふとも月草(つきくさ)しうつろふ情(こころ)吾持ためやも
私訳 あれやこれやと人はうわさ話をするけれど、ツユクサが褪せやすいと云うような、そんな疑いを、私が持っていましょうか。
以下は妄想です。いつものように学問ではありませんので宜しくお願いします。
文学史での典拠の研究では山上憶良、大伴旅人、大伴家持等、彼らの作品に『遊仙窟』を取材したものを認めることが出来、他にも巻十六に無名歌人の作品ですが集歌3857の歌の左注にも取材を見つけることが出来ます。このような事例から『遊仙窟』は平城京時代以降の日本文学史に多大な影響を与えた中国伝奇小説と扱います。
すると、この認識では平城京時代の貴族たちは『遊仙窟』を享受していたと仮定することは、それほどの冒険ではないことになります。そうした時、集歌1339の歌を口唱では;
口唱) つきくさに ころもいろどり すらめども うつろふいろと いふしくるしさ
と高々と詠いあげますが、宴会で回覧する木笏(又は木簡)に次のように表記してあれば、さて、平城京貴族たちはこの歌をどのように受け取ったでしょうか。
表記) 鴨頭草丹服色取揩目伴移變色登称之苦沙
まず、近々の漢方薬と染色を目的とした輸入植物である「つきくさ」は漢語表記では鴨跖草と表記するのを知っているとしますと、回覧された木笏に墨書された鴨頭草は言葉の洒落であろうと気付くと考えます。すると新規渡来で評判の『遊仙窟』では「鴨頭」とは勃起した男根を示す隠語ですから勘の鋭い人は何事かに気付くはずです。その『遊仙窟』の詩文では「硯」に対して「研」の用字ですが、ここでは「服」に対して「揩」の用字です。そのとき、「研」の語字は洒落では「じっくり見つめる」とも解釈出来、同様に「揩」の語字も「手でなすりつける」と云う意味を持つものです。和歌である集歌1339の歌に対して漢詩文的な解釈をしますと「色」と云う言葉の意味の取り方一つで、ある種、隠語を持つ詩文として鑑賞が可能となります。
原文 鴨頭 草丹服色 取揩目伴 移變色登 称之苦沙
訓訳 鴨頭に、丹は草(は)へ色は服(つ)き、取りて揩(すりつ)け伴に目(も)くすれば、移(うご)き變(みだれ)て色(おもひ)は登(の)る、之を称へて沙するは苦(ひど)しと云う (沙;数が多い様 また 沙と射は同音)
紹介したものは少し酔い加減な訓訳文ですが、『遊仙窟』には次のような詩文もありますので「移變色登 称之苦沙」と「若令臍下入 百放故籌多」とを比べた時、裏の歌の解釈では良い勝負ではないでしょうか。
平生好須弩、得挽即低頭
聞君把提快、更乞五三籌
縮幹全不到、抬頭剰大過
若令臍下入、百放故籌多
判ったような判らないような話となりましたが、この妄想があり得るものですと、集歌1339の歌には『遊仙窟』があることになります。そうしますと、この作歌者が万葉集中では一番『遊仙窟』を理解していた人物かもしれません。
当然、集歌1339の歌は口唱での表の歌と墨書での裏の歌とが極端に違いますし、裏の歌は新規渡来の『遊仙窟』に典拠したものだとすると、非常な評判になったのではないでしょうか。すると、平城京貴族の教養と見栄で「鴨頭草」を「つきくさ」と訓じることが流行になったと思います。しかしながら、裏の歌を訓じる為の洒落からの当て字ですから、時代の流れと共に平安時代初期には語源不詳となったのではないでしょうか。ただし、ここでの鑑賞態度からしますと、集歌1339の歌以外のもの、残り三首の「鴨頭草」の表現を持つ歌もまた万葉時代の約束として「鴨頭草」には勃起した男根のイメージを持たせて詠っていると解釈すべきものと考えます。
おまけとして、平城京時代の日本からの遣唐使一行は多くの諸外国からの遣唐使に比べ、格段に中華文明に対する消化能力が高かったようです。皇帝の囲碁の相手となるもの、科挙に合格するもの、風雅を特別に認められるものなど、多く中国正史に記録を残します。
逆に見れば、大唐で本場の士大夫階級の人々と対等に付き合うことが出来たと云うことは、平城京時代の遣唐使に選抜されるような人物は『遊仙窟』程度の娯楽書は自在に読み解く能力は十分にあったと推定されます。従いまして、このような平城京貴族たちが楽しんだ『万葉集』に載るある種の歌は『遊仙窟』の裏の顔をホイホイと読み解くほどでなければ楽しむことが難しいのかもしれません。
で、『遊仙窟』に載る次の文章、十分に楽しまれましたか。
插手紅褌、交脚翠被。両唇對口、一臂支頭。拍搦奶房間、摩挲髀子上。一齧一快意、一勒一傷心、鼻裏痠痜、心裏結繚。少時、眼華耳熱、脈脹筋舒。始知難逢難見、可貴可重。俄頃中間數廻相接。
なお、「翠被」は緑色の布団と訳するようじゃ、面白くありません。また、「數廻」は数回じゃ、ありません。
もし、上記の文章を十分に楽しまれていて万葉人は『遊仙窟』を享受したと云うのですと、次の『万葉集』巻十二に載る集歌2925の歌もまた「拍搦奶房間、一齧一快意」と「摩挲髀子上、一勒一傷心」の対句からヒントを得たと唱えることが出来るのではないでしょうか。このように古典享受は、けっこう、思い付きでも説は唱えることが可能かもしれません。
集歌2925 緑兒之為社乳母者求云乳飲哉君之於毛求覧
訓読 緑児(みどりこ)し為こそ乳母(おも)は求むと云ふ乳(ち)飲めや君し乳母(おも)求むらむ
私訳 「緑児の為にこそ、乳母は探し求められる」と云います。でも、さあ、私の乳房をしゃぶりなさい。愛しい貴方が乳母(乳房)を求めていらっしゃる。
最後に、少し卑怯ですが参考情報として。
中唐の詩人李白が詠う「襄陽歌」に「遙看漢水鴨頭緑(遙かに看る漢水の鴨頭の緑)と云う一節があります。ここでは真鴨の頭部の色合いを以って、彼方に見える大河の景色を表しています。この表現は明朝時代でも汪廣洋が詠う「晩晴江上」に「江水鴨頭緑、楚山螺髻青(江水は鴨頭の緑にして、楚山は螺髻の青たり)」と云う一節がありますから、「鴨頭緑」と云う定型表現を踏まえた上のものであれば「鴨頭草」の表現は単に「緑草」の洒落となります。その場合は実に申し訳ない話です。ただし、『万葉集』と李白との時代の先後を考えますと集歌1339の歌が先に詠われた可能性が高く、玄宗皇帝時代に世に出た李白の詠う漢詩の日本への将来は遣唐使の往来を考えますと天平宝字三年(759)の「迎入唐大使使」以降であろうと思われます。
補足情報として、色調において中古代では「緑」は時に現代人にとって「青」とも思える色をも指しますから、この時、「緑→青→空」という連想ゲームでの「空草(ツキクサ)」と云う洒落が生まれます。この場合は、上記の話は全くの酔いかげんの与太話だけです。
以前、『万葉集』に収容される柿本人麻呂歌集に載る歌で使われる句「千遍死」は『遊仙窟』を典拠とすると云う解説を確認するため、典拠と示された『遊仙窟』について原文を整備した上で、それを眺めました。いつものことですが、我ながら馬鹿げたことをしています。当然、典拠を述べる時、一番簡単なのは先行する権威の論説を無批判で使うことです。次いでは論説を参考として表面上の文字列の比較を行うことです。似た文字列が認められればそれを典拠とすればいい訳ですから、非常に楽です。ただ、古典作品の享受とその影響を云う場合は、それでは社会人のする鑑賞にはならないのではないでしょうか。
もし、『遊仙窟』で使われる文字列で、先行する古典で用いられる語法とは違うものや創語であるもの、その特別な文字列と同じものが『万葉集』にあり、かつ、同じような意味合いで使われていることが示せれば、その時、『遊仙窟』の読書経験があると云うことになるのでしょう。さらに、特別な文字列で示す内容を踏まえ、それを発展していることを認めれば、享受・受容していると指摘が出来ると考えます。ただ、それを示すことが出来ないのですと、偶然の一致かもしれませんし、他の古典や古い時代の漢漢辞典からの引用かもしれません。同じ類似の文字列と云う視線からしますと『遊仙窟』と『万葉集』とに「光儀」や「鴨頭」などと云う同じ特殊用法の文字列がありますが、なかなか、このような言葉は取り上げることはしないようです。
与太話はさておき、『遊仙窟』に載る次の詩文を紹介しようと思います。この詩文の前提として、詩文が詠われた場の設定は、唐初時代の「酒令」と云う、正式の着座での食事の後に行われる男女が入り乱れくだけた酒や歌舞を伴う教養人たちの宴会です。そのような場での遊びとして参加する人々の教養水準を競う詩文ですので、参加者の設定もまた士大夫階級の男とそれに見合う特別な教育を受けた妓女と云うことになります。従いまして、小説の進行から淫靡な場面を暗示するものと思われても表面上は建て前の顔を示します。逆に淫靡と思えるような表現であっても建て前の顔で詩文を解釈するのが大人の決まりです。
ここで『遊仙窟』から紹介する次の詩文はそのようなものであることを了解して下さい。
<例題詩文>
于時、硯在床頭、下官因詠筆硯曰、摧毛任便點、愛色轉須磨。所以研難竟、良由水太多。
十娘忽見鴨頭鐺子、因詠曰、嘴長非為嗍、項曲不由攀。但令脚直上、他自眼雙翻。
漢詩文の読解の手間を省くために翻訳文を紹介しますが、先に述べた”建前の顔”を持つと云う背景がありますから、表の顔を優先するか、裏の顔をも考慮するかにより訳文の表現は変わります。それを踏まえて比較的安価で入手が容易な『遊仙窟』の訳本から訳文を三つほど紹介します。
<漆山又四朗訳註、岩波文庫;訓読みスタイル> 注:原文は訓読文とは別に解説に掲載
摧毛任便點 毛を摧きて便りに任して點す
愛色轉須磨 色を愛して轉た須らく磨すべし
所以研難竟 研りて竟り難き所以のものは
良由水太多 良に水の太だ多きに由る
嘴長非為嗍 嘴の長きは嗍はんが為に非ず
項曲不由攀 項の曲れるは攀づるに由らず
但令脚直上 但だ脚をして直ちに上げしめば
他自眼雙翻 他も自も眼雙び翻らん
<今村与志雄訳、岩波文庫;意訳文スタイル> 注:原文は詩文だけを掲載
摧毛任便點 毛を抜いて使いよくさせる
愛色轉須磨 色をめでて、かえってすらなきゃならない
所以研難竟 だから、すりおわるのがむずかしい
良由水太多 まったく水気が多すぎるせいだ
嘴長非為嗍 口が長いのは、吸われるためではなく
項曲不由攀 うなじが曲がっているのは、手をかけられたからでもない
但令脚直上 脚をまっすぐ上にあげさえしたら
他自眼雙翻 あれは眼のたまがひっくりかえる
<前野直彬訳、東洋文庫;意訳文スタイル> 注:原文の掲載は一切無し
毛をおさえ、筆をおとさば落すまま
濃き色は、磨るほどいいよあらわるる
墨をとる、わが手のとどめあえざるは
げにやこの、水のあまりに多ければこそ
くちばしの、長きは吸われんためならず
ほそくびの、曲るも抱かるるゆえならず
この足を、真上にあげしときのみぞ
かの人は、双の眼を見はりなむ
とあります。
それぞれ、訳者の研究態度と出版趣旨により訳文スタイルは違いますし、使う原文典拠もそれぞれに違います。ただし、三人の共通点として、この詩文は表と裏の二つの顔を持ちますが、原則として表の顔だけを紹介して、裏の顔(洒落)を示していません。特に前野直彬氏のものは使った原文自体を書籍中に紹介していませんから、その書籍だけでは詩文に表裏二面の顔を持っていると云うことを知ることは出来ません。さらに意訳文の解説でも詩文が表裏二面を持つことを示唆しませんから、一般の人がそれに気付くことは難しいのではないでしょうか。一方、今村与志雄氏は判る人は判ると云う態度で、地文は訳文のみで原文紹介はありませんが、詩文は原文を優先して訳文は従と云う立場です。読者が原文から自己責任で裏の顔(洒落)に気付く必要がありますし、編集態度がそれを示唆しています。なお、漆山又四朗氏のものは原文からの忠実な訓読を試みたものですので、すべては鑑賞者の自己責任と能力で、原文が示す唐初時代の読書階級向けのポルノ小説をポルノ小説として鑑賞する責任があります。
今村与志雄氏が示唆するように詩文には裏の顔(洒落)もありますから、参考として紹介を試みます。注意事項として、詩文で使われている「摧」、「研」、「攀」などの語字について『漢辞海』以上の漢字辞典などから調べて頂くと、標準的な意味合いの他に特殊な意味を持つ言葉であることに気付くと思います。その特殊な意味から詩文が持つ“洒落”を探りますと、次のようなものとなります。
摧毛任便點 和毛(にこげ)を分け、お核(さね)に気持ちよくすることに身を任せ
愛色轉須磨 愛される気分からか、かえって愛撫を求めてしまう
所以研難竟 それを求めるから、じっくり見つめるのを止められない
良由水太多 気持ちがいいからか、愛液がたっぷり溢れ出ている
嘴長非為嗍 唇を長くするのはあそこを吸うためだけではなく
項曲不由攀 項(うなじ)を曲げるのはあそこに顔を添えたいからではない
但令脚直上 もし、脚を大きく開かせられたら
他自眼雙翻 貴方も私も眼の玉がひっくりかえってしまう
紹介した裏の解釈は特別、恣意的な創訳ではありません。例えば「研」と云う語に「とぐ」だけではなく「深く究める」や「じっくり見つめる」の意味があるようにそれぞれに別な意味があり、巧みにそのような語字が使われています。これが酒令でも特別に雅飲と称される宴会での詩文です。逆の裏の顔が判っても、表の顔として理解していると示すのが大人の酒宴です。およそ、表面上のものだけでなく、洒落として裏のものも楽しめないようでは筆よりも重たいものを持たないと云うような士大夫階級では教養的に落第なのでしょう。当然、「眼雙翻」の句は“する男”と“される女”では様子は違います。興奮で目を見開くか、快感に白目を剥くかの違いです。これもまた文士たる人々の遊びです。
『遊仙窟』にこのような洒落があると認めますと、その詩文の題目として付けられた「鴨頭鐺子」もまた洒落を持つ言葉であろうと推測させます。「鐺子」は一般には三本足を持つナベや液体を入れる容器を意味しますから、ここでは硯に添える小さな水差しです。一方、そのような場合、水差しの頭と首はその目的からしますと、先を細くしほっそりしている鶴の首を比喩や意匠にするのが相応しいはずです。ですから、日本ではそれをそのものずばり“鶴首”と呼びます。ところが、『遊仙窟』では先太りで頭がずんぐりの“鴨の頭”と云う表現を使っています。およそ、この「鴨頭」と云う表現は詩文が示す洒落からしますと、”先が丸く太く、茎がずんぐりしている“とイメージを示し、勃起した男根を想像させる洒落であろうと考えます。つまり、「鴨頭」とは隠語です。
これを踏まえて、『万葉集』で遊びたいと思います。
さて、『万葉集』には「鴨頭鐺子」ではありませんが「鴨頭草」と云う言葉を使う歌が四首あります。それが次の歌です。「鴨頭草」については『本草和名』に「都岐久佐」と訓じるとの解説から「ツキクサ」と読み、現在の露草と推定されています。掲載の順とは違いますが『万葉集』の巻十二に載る集歌3058の歌の句「鴨頭草之 移情 吾思名國」と集歌3059の歌の「月草之 移情 吾将持八方」の対比関係からも「鴨頭草」は「月草」と同じ読みを行い「ツキクサ」の訓じと推定出来るのではないでしょうか。ただ、中国では薬草として扱うときの露草の名称は「鴨跖草」と表記し、それは正面から見た花の形が鴨の固い足の裏の姿を示しているところからのものです。つまり、「鴨頭草」は日本で創られた漢字表記なのです。そのため、どうして「鴨頭草」と表記するのかと云う語源は良く判っていないようです。
集歌1339 鴨頭草丹 服色取 揩目伴 移變色登 称之苦沙
訓読 鴨頭草(つきくさ)に衣(ころも)色どり揩(す)らめども移(うつ)ろふ色と称(い)ふし苦しさ
私訳 ツユクサで衣を色取り摺り染めたのだけど、移り変わりやすい色とあてこするのが残念です。
集歌2281 朝露尓 咲酢左乾垂 鴨頭草之 日斜共 可消所念
訓読 朝露に咲きすさびたる鴨頭草(つきくさ)し日くたつなへに消(け)ぬべく思ほゆ
私訳 朝露の中に咲き誇っているツユクサが、日が傾いていくにつれしぼむように、気持ちがしぼむように感じられます。
集歌2291 朝開 夕者消流 鴨頭草 可消戀毛 吾者為鴨
訓読 朝(あした)咲き夕(ゆうへ)は消(け)ぬる鴨頭草(つきくさ)し消(け)ぬべき恋も吾はするかも
私訳 朝に咲き、夕べにしぼむツユクサのように、心がしぼむような私の命、そして恋も、私はするのでしょう。
集歌3058 内日刺 宮庭有跡 鴨頭草之 移情 吾思名國
訓読 うち日さす宮にはあれど鴨頭草(つきくさ)しうつろふ情(こころ)吾が思はなくに
私訳 きらきらと日の射す大宮に居て多くの殿方と接するけども、ツユクサのように褪せやすい気持ちを私は思ってもいません。
<関連参考歌>
集歌3059 百尓千尓 人者雖言 月草之 移情 吾将持八方
訓読 百(もも)に千(ち)に人は言ふとも月草(つきくさ)しうつろふ情(こころ)吾持ためやも
私訳 あれやこれやと人はうわさ話をするけれど、ツユクサが褪せやすいと云うような、そんな疑いを、私が持っていましょうか。
以下は妄想です。いつものように学問ではありませんので宜しくお願いします。
文学史での典拠の研究では山上憶良、大伴旅人、大伴家持等、彼らの作品に『遊仙窟』を取材したものを認めることが出来、他にも巻十六に無名歌人の作品ですが集歌3857の歌の左注にも取材を見つけることが出来ます。このような事例から『遊仙窟』は平城京時代以降の日本文学史に多大な影響を与えた中国伝奇小説と扱います。
すると、この認識では平城京時代の貴族たちは『遊仙窟』を享受していたと仮定することは、それほどの冒険ではないことになります。そうした時、集歌1339の歌を口唱では;
口唱) つきくさに ころもいろどり すらめども うつろふいろと いふしくるしさ
と高々と詠いあげますが、宴会で回覧する木笏(又は木簡)に次のように表記してあれば、さて、平城京貴族たちはこの歌をどのように受け取ったでしょうか。
表記) 鴨頭草丹服色取揩目伴移變色登称之苦沙
まず、近々の漢方薬と染色を目的とした輸入植物である「つきくさ」は漢語表記では鴨跖草と表記するのを知っているとしますと、回覧された木笏に墨書された鴨頭草は言葉の洒落であろうと気付くと考えます。すると新規渡来で評判の『遊仙窟』では「鴨頭」とは勃起した男根を示す隠語ですから勘の鋭い人は何事かに気付くはずです。その『遊仙窟』の詩文では「硯」に対して「研」の用字ですが、ここでは「服」に対して「揩」の用字です。そのとき、「研」の語字は洒落では「じっくり見つめる」とも解釈出来、同様に「揩」の語字も「手でなすりつける」と云う意味を持つものです。和歌である集歌1339の歌に対して漢詩文的な解釈をしますと「色」と云う言葉の意味の取り方一つで、ある種、隠語を持つ詩文として鑑賞が可能となります。
原文 鴨頭 草丹服色 取揩目伴 移變色登 称之苦沙
訓訳 鴨頭に、丹は草(は)へ色は服(つ)き、取りて揩(すりつ)け伴に目(も)くすれば、移(うご)き變(みだれ)て色(おもひ)は登(の)る、之を称へて沙するは苦(ひど)しと云う (沙;数が多い様 また 沙と射は同音)
紹介したものは少し酔い加減な訓訳文ですが、『遊仙窟』には次のような詩文もありますので「移變色登 称之苦沙」と「若令臍下入 百放故籌多」とを比べた時、裏の歌の解釈では良い勝負ではないでしょうか。
平生好須弩、得挽即低頭
聞君把提快、更乞五三籌
縮幹全不到、抬頭剰大過
若令臍下入、百放故籌多
判ったような判らないような話となりましたが、この妄想があり得るものですと、集歌1339の歌には『遊仙窟』があることになります。そうしますと、この作歌者が万葉集中では一番『遊仙窟』を理解していた人物かもしれません。
当然、集歌1339の歌は口唱での表の歌と墨書での裏の歌とが極端に違いますし、裏の歌は新規渡来の『遊仙窟』に典拠したものだとすると、非常な評判になったのではないでしょうか。すると、平城京貴族の教養と見栄で「鴨頭草」を「つきくさ」と訓じることが流行になったと思います。しかしながら、裏の歌を訓じる為の洒落からの当て字ですから、時代の流れと共に平安時代初期には語源不詳となったのではないでしょうか。ただし、ここでの鑑賞態度からしますと、集歌1339の歌以外のもの、残り三首の「鴨頭草」の表現を持つ歌もまた万葉時代の約束として「鴨頭草」には勃起した男根のイメージを持たせて詠っていると解釈すべきものと考えます。
おまけとして、平城京時代の日本からの遣唐使一行は多くの諸外国からの遣唐使に比べ、格段に中華文明に対する消化能力が高かったようです。皇帝の囲碁の相手となるもの、科挙に合格するもの、風雅を特別に認められるものなど、多く中国正史に記録を残します。
逆に見れば、大唐で本場の士大夫階級の人々と対等に付き合うことが出来たと云うことは、平城京時代の遣唐使に選抜されるような人物は『遊仙窟』程度の娯楽書は自在に読み解く能力は十分にあったと推定されます。従いまして、このような平城京貴族たちが楽しんだ『万葉集』に載るある種の歌は『遊仙窟』の裏の顔をホイホイと読み解くほどでなければ楽しむことが難しいのかもしれません。
で、『遊仙窟』に載る次の文章、十分に楽しまれましたか。
插手紅褌、交脚翠被。両唇對口、一臂支頭。拍搦奶房間、摩挲髀子上。一齧一快意、一勒一傷心、鼻裏痠痜、心裏結繚。少時、眼華耳熱、脈脹筋舒。始知難逢難見、可貴可重。俄頃中間數廻相接。
なお、「翠被」は緑色の布団と訳するようじゃ、面白くありません。また、「數廻」は数回じゃ、ありません。
もし、上記の文章を十分に楽しまれていて万葉人は『遊仙窟』を享受したと云うのですと、次の『万葉集』巻十二に載る集歌2925の歌もまた「拍搦奶房間、一齧一快意」と「摩挲髀子上、一勒一傷心」の対句からヒントを得たと唱えることが出来るのではないでしょうか。このように古典享受は、けっこう、思い付きでも説は唱えることが可能かもしれません。
集歌2925 緑兒之為社乳母者求云乳飲哉君之於毛求覧
訓読 緑児(みどりこ)し為こそ乳母(おも)は求むと云ふ乳(ち)飲めや君し乳母(おも)求むらむ
私訳 「緑児の為にこそ、乳母は探し求められる」と云います。でも、さあ、私の乳房をしゃぶりなさい。愛しい貴方が乳母(乳房)を求めていらっしゃる。
最後に、少し卑怯ですが参考情報として。
中唐の詩人李白が詠う「襄陽歌」に「遙看漢水鴨頭緑(遙かに看る漢水の鴨頭の緑)と云う一節があります。ここでは真鴨の頭部の色合いを以って、彼方に見える大河の景色を表しています。この表現は明朝時代でも汪廣洋が詠う「晩晴江上」に「江水鴨頭緑、楚山螺髻青(江水は鴨頭の緑にして、楚山は螺髻の青たり)」と云う一節がありますから、「鴨頭緑」と云う定型表現を踏まえた上のものであれば「鴨頭草」の表現は単に「緑草」の洒落となります。その場合は実に申し訳ない話です。ただし、『万葉集』と李白との時代の先後を考えますと集歌1339の歌が先に詠われた可能性が高く、玄宗皇帝時代に世に出た李白の詠う漢詩の日本への将来は遣唐使の往来を考えますと天平宝字三年(759)の「迎入唐大使使」以降であろうと思われます。
補足情報として、色調において中古代では「緑」は時に現代人にとって「青」とも思える色をも指しますから、この時、「緑→青→空」という連想ゲームでの「空草(ツキクサ)」と云う洒落が生まれます。この場合は、上記の話は全くの酔いかげんの与太話だけです。
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