永江朗「私は本屋が好きでした」
(太郎次郎社エディタス)を読む。
いわゆる「ヘイト本」と呼ばれるものが、
なぜ広く読まれるようになったのか。
ヘイト本を置く書店や流通させる取次、
出版社や編集者、執筆するライターなどに
永江さんが取材を重ねたルポルタージュ。
あまりの面白さに一気読みしてしまったのだけど、
なんともやるせない読後感。

ここでは具体的な書名は出さないけど、
いわゆるヘイト本というものは、
在日外国人やLGBT、障害者などの少数者に対して
差別を助長し、憎悪を膨らませることを目的としている。
本書を読んで、すごく腑に落ちたのは、
ヘイト本とポルノグラフィーが似ているという箇所だ。
ポルノグラフィーであれば、
女性や男性についての性の幻想
(いやよいやよ、も好きのうち、とか)を膨らまし、
ヘイト本であれば、中国や韓国に日本が乗っ取られるとか、
同性婚を認めたら生産性が低下するとか、
端から見たら「なんだかなあ」としか思えない幻想を膨らませ、
読み手に快感をもたらせてくれるわけで。
だったら書店でヘイト本は
成人コーナーと同じような扱いで
囲いをつけたりすればいいのに、と思ったりする。
ともあれ、本書はそうしたヘイト本が書店に並ぶのは、
出版社や取次が書店の意志とは関係なく配本
(パターン配本というらしい)する中に、
ヘイト本が多く紛れていることがある。そうした状況を
書店自体がそのまま受け入れて、書棚に並べてしまうのだという。
だからといって
書店が百パーセント悪いとも言えない。
というのも、書店は慢性的な人手不足で、
自分の意志で新刊を並べることのできる
目利きの書店や書店員は
だんだん減っているという現状が指摘されている。
取次を通さず、店主が自ら本を仕入れるような
セレクトショップ的な書店もあるけれど、
全国的に見ると数少ない。
じゃあどうすればいいのか。
出版の業界に関わる人たちだけが考えればいいのか。
ヘイト本が良くないからといって、
出版を差し止めたら、言論の自由を剥奪することになるのではないか。
だからといって、公共性の高い書店という空間で
ある特定の人たちを
差別する本があったとしたら、それはいかがなものだろう。
多くの人が見るわけだから、タイトルだけだとしても問題だ。
ヘイト本を考えることは、
出版業界で起きているさまざまな問題を浮き彫りにすることであり、
それはひょっとすると日本という国の問題なのかもしれないと
思ったりするのは大袈裟ではない。そんなことを思わせる一冊。