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旅のプラズマ

これまで歩いてきた各地の、思い出深き街、懐かしき人々、心に残る言葉を書き綴る。その地の酒と食と人情に触れながら…。

今年も巡ってきた「山びこの会」忘年会

2010-12-12 13:18:30 | 時局雑感

 

 

  ちょうど一年前になるが、昨年1213日のブログを読み返すと、「素敵だった『山びこの会』忘年会」と題して、この会の生い立ちから素晴らしい活動について触れている。昨夜、再び巡ってきた「忘年会」に参加させてもらった。実は私は正式会員でなく、山行にも参加していないが、昨年のいきさつ(娘と息子が小コンサートを演奏)から参加を許されたのだ。

行ってみると、私のように山にも行かずに暮れの酒飲み会だけに出るような人が何人かいたので、その点門戸が開かれた会なのだ。そしてそこにこの会の素晴らしさがあるのかもしれない。来るものを拒まず、去るものを追わず、全く肩に力の入ってない会で、しかも14年目を迎えて会員数は増えている。(最初の数人から今や70人を超えた)

私は昨年初めてそのことを知って、「今どきこのような会が、未だ日本にあったのか?」と思い続けて来たのであるが、会員の高い自覚と自由な意思に基づいた運営が、今や珍しくなった“長期成長型サークル”を生み出したのだろう。

昨夜の忘年会には、新たな会員3名を迎えた総勢73名の中の59人(80%)が参加、しかも、それに続く二次会にそのうちの半数が参加して、時間の果てるのも知らず話し合っていた。

このような会の存在を見ると、日本も未だ捨てたものではない、と思うのだが。


2010年沖縄見聞記⑦ … 心に残ったM家の夕食(つづき)

2010-12-11 12:36:19 | 

 

 美味しい泡盛の古酒(クース)を飲みながら、ご両親の話を聞く。
 
お父様は昭和11(1936)年生まれというから私より一歳若いが、全く同世代と言っていい。終戦を迎えたのが9歳、激しい沖縄地上戦の中を北部に逃れ、山原(やんばる)の中を逃げまどうが、やがて米軍の捕虜となる。
 我々には想像もつかない苦しみを味わってきたに相違ない。私が住んでいた大分県の臼杵市は焼夷弾攻撃を一度受けただけで、殆ど戦火の記憶はない。日本は終戦の方途を決めきれず、時間稼ぎに沖縄を防波堤にして本土を守ってきたのだ。そのようなことをおぼろげながら感じてきてはいたが、その「防波堤の真ん中にいた人」を目の前にして話を聴くと、今もなお基地の苦しみを押し付けていることに心が痛む。
 基地は単に国土を奪われているという問題だけではない。先年の米軍による女学生暴行事件などが起こる。「あんなことは許されない。あの抗議デモには私も参加しました。二度とあってはならない」と強調した。長く高校教師を勤められたお父様の子どもを思う心も強いのであろう。

 お母様は宮崎県に疎開されていたそうで、終戦を沖縄で迎えることはなかったのであるが、戦後を長く沖縄に生きて、基地に対する怒りは強い。その夜はちょうど県知事選挙の前夜であったが、「明日の選挙は非常に重要だ。沖縄県民の意思をはっきり示す日で、それを全国民に知ってもらわねばならない」と何度も強調された。そして、「普天間もさることながら問題は嘉手納だ」と言っていた。この基地をなくさない限り基地問題は終わらない、と言うのであろう。
 私は、その日の観光バスで車窓に見続けた金網に囲まれた広大な嘉手納基地を思い起こし、ギクリとする思いでお母様の発言を聞いた。そしてその翌日、普天間、嘉手納の二つの基地めぐりをして、「嘉手納撤去の難しさ」をイヤと言うほど聞かされるのである。お母様はそれを知り抜いているからこそ「普天はまだしも、問題は嘉手納だ」と思うのであろう。

    
         国道に長く続く嘉手納基地を囲む金網

            
                           嘉手納基地内遠望

 


2010年沖縄見聞記⑥ … 心に残ったM家の夕食

2010-12-10 14:20:11 | 

  

 二日目の西海岸観光バスツアーを終えて、その夜は友人夫人の実家M家の夕食に招待された。“手づくりの旅”ならではのことである。観光会社の定形ツアーではこれが出来ない。そして、その地に行って最も「その地らしさ」を味わえるのは、家庭の生活を味あわせていただくことである。

 M家に着いたのは8時に近かったが、ご両親と夫人のご兄弟も集まってくれて、私の到着を待っていてくれた。しかもご両親が心をこめて作ってくれた料理の数々と、泡盛『瑞泉』27年もの古酒(クース)を並べてのことである。

まずお父さんに言われたことは、「本土ではまず酒を飲んで食事に進むが、沖縄では最初に少量のものを食べてそれから泡盛に進む。今日は沖縄流でどうぞ」ということであった。なるほど、度数の強い泡盛を、当然ストレートで飲むには先ず食べてからと言うのは合理的なのであろう。既にお茶碗には少量の御飯が盛られていた。

 私は先ず、沈金の綺麗なお椀の汁物から頂いたがこれが美味しい! 私としてはめったにないことだが、後でお代わりをしたくらいだ。

 

  


  そのほかお父様が作ったといわれる「落花生豆腐」はじめ、海ぶどうやソーキ肉など沖縄料理の粋をいただきながら泡盛古酒を飲んだ。27年ものともなれば30度という度数を全く感じさせない。実にまろやかでスイスイとノドを越す。
 

 見れば部屋の隅に古酒の壷が置かれてある。お父さんは酒器に移して飲んだ量だけ、別の壷から注ぎ足す。「仕次ぎ法」とよばれる泡盛独特の熟成法で、こうしてクースの味を保ちながら量を保持していくのである。一般には、良く出来た古酒を年代順に5種ぐらいそろえておき、飲んだ量を古いものから順次注ぎ足し、一番新しいものに新酒を足していくといわれている。酒は、良い酒と悪い酒を足せばよい酒になる性質があると聞いているが、それらの性質を利用しながらの量と質の保存法であろう。ここにもまた沖縄の知恵を見た。

 

       

 

  

 

 これらの話をお父さんに聞きながら、酒と食、旅、戦争、基地など話は弾んだ。何よりも心に残ったのは、戦争と基地にかかわるお2人の言葉であったが、それは次回に譲る。


突然の右足麻痺

2010-12-08 16:58:48 | 時局雑感

 

 昨日仕事を終えて岐路に着く。午後5時40分、大江戸線大門駅のホームに向かうため浜松町のエスカレーターを下っていると、何だか右足がぶらぶらする感じ・・・。「おかしいなあ」と思いながら右足に力を入れるが、力が抜けたようだ。
 エスカレーターを降り切り歩き始めるが、右足だけフニャフニャして歩けない。とうとう壁によりかかり倒れこみ、しばらく足をもんでいると直ってきたので、何とかホームにたどりつき電車に乗り込む。
 ところが、しばらくするとまたフニャフニャになってきたので、席を代わってもらったりして新宿にたどり着くが歩ける状態でない。長いエスカレーターを昇りきったところでついに諦め、駅員さんを呼んでもらう。駅員さんに事情を説明して「タクシー乗場まで」と頼むと、車椅子でつれて行ってくれた。「救急車を呼びましょうか?」といいながら親切な駅員さんは不安そうな顔をしていた。

 今朝、かかりつけの医者の始業(午前9時)と同時に駆け込み診てもらったが、「とにかく脳の検査をしましょう」と近くの松沢病院の予約(午後1時半)を取り付けてくれた。私が一番心配したことは、当然ながら「脳梗塞など脳障害による下半身麻痺」というヤツであった。医者も同じことを考えている、と思うと暗い気持ちになった。昨夜何度も目を覚ましその度に考えたことが、段々現実味を増してきた。
 ただ、たった一つ不思議なことは、ここ数日を含め頭が痛いとか、気分が悪いとか一度もなかったことだけが不思議であった。
 結果は・・・、松沢病院のMRI検査の結果は、「新しい脳障害はなし。古い小さい血栓や梗塞のあとはあるが原因とは考えられない」というもの。診断結果の大きなレントゲン写真数枚をぶら下げて再び主治医に立ち返ったが、「心配した脳ではなく良かったですね。原因はわからないが、もう少し模様を見ましょう」ということになった。

 沖縄はじめ諸旅行の疲れか? いや、たんなる老衰現象の一つか? それとも何か大きな原因が隠れているのか? ・・・・・・、
 まあ、一先ず良かった、と一安心して振り返った松沢病院の木々は、初冬の色に輝いてことのほかに綺麗であった。

   

          


「吉祥寺フィルハーモニーオーケストラ」15周年記念演奏会

2010-12-07 17:18:12 | 文化(音楽、絵画、映画)

 

 125日吉祥寺フィル創立15周年記念演奏会に出かけた。

何故そのような演奏会に行くことになったかと言うと、その演奏会のオペラ演奏の部分を娘が担当することになったからである。それまで私は、失礼なことに吉祥寺フィルの存在すら知らなかった。

行ってみると、会場の武蔵野市民文化会館(三鷹駅北口から徒歩13分)は1,500名を収容する立派な会館、聞くところによれば、よく外国のオペラ公演なども行われるようだ。それに応えるように、武蔵野市は市民オーケストラも持って、すでに15年の歴史を有しているのである。立派なものだと感動した。

演奏会の一部はオーケストラによる「メンデルスゾーン交響曲3番イ短調『スコットランド』」の記念演奏で、第2部のオペラ演奏部門につき娘が委嘱されたのだ。娘は、オペレッタ『こうもり』をとりあげ、今年の初めから台本書きに始まり一年近くをかけて取り組んできた。3年前に建ち上げた「オペラ音楽集団『ミャゴラトーリ』」の常連歌手たちを中心に役柄を組み、かなり力を入れて取り組んできた。

いくつか問題もあったが、本人自らナビゲーターとして登場しての演出は、まあ良かったのであろう。吉祥寺フィルの方々も大変に喜んでくれたそうで、親としてもホッとしている。

市民音楽家の方々と様々な取り組みができたことは娘も楽しかったようだ。オペラの素晴らしさを多くの人に知ってもらいたいと建ち上げた『ミャゴラトーリ』の趣旨からいっても、千数百名の観衆の前で演奏できたことは本望であったろう。

吉祥寺フィルの方々にお礼を申し上げるとともに、改めて敬意を表したい。このような立派なオーケストラを長期にわたって続けることは素晴らしいことだとつくづく思った。

                  

   
         


2010年沖縄見聞記⑤ … 観光バスで西海岸を満喫

2010-12-04 14:19:28 | 

 

  旅には、大きく分けて旅行会社などが組むいわゆる「お決まりコースの旅」と「手作りの旅」の二つがある。どちらにもそれなりの魅力がある。前者は、身を任せておけばまず「見所」だけには連れて行ってくれる。そしてガイドが「プロとしての解説」をしてくれてポイントだけは抑えることができる。後者は、当然のことだが自分の行きたいところに赴き、自由に時間を使い、対象を深めることが出来る。
  前者は効率的だが「浅く広く」なり、後者は「一点集中的」だが見過ごすものも多いかもしれない。時間のないときは前者が好都合だが、旅の本髄は時間をかけた後者となろう。わずか三日の旅の二日目は、友人が武道の大会に出場するので、私は観光バスを利用して沖縄中北部を回ることにした。
  沖縄バスの提起観光バスCコース「美ら海(ちゅらうみ)水族館・西海岸コース」全10時間のバスツアーである。那覇の旭橋を出発して「琉球村」、「万座毛」、「御菓子御殿」、「海洋博公園・沖縄美ら海水族館」、「パイナップルパーク」とたっぷりのコースだ。
  コース名の如く西海岸を北上していくコースなので、左側に海を眺めながらのコース。それを予期した私は出発の30分前に着いて一番に乗り組み、“左側最前列”の席を確保した。お陰で270度の展望に恵まれ、快晴の下に広がる美しい西海岸を満喫した。悪い癖で、やや写真を撮りすぎたが・・・。

     
                
                                                  万座毛

 「琉球村」で古きよき時代をしのび、「万座毛」で雄大な自然の造形美に浸る。 万座毛とは、珊瑚礁の上に出来た原っぱで、むかし琉球王が立ち寄り「万人が座れる毛(原っぱ)」と名付けたという。多くの人は左側に突き出る象の鼻の形をした絶壁に目が向くが、バスガイドが、「万座毛とはあの絶壁ではなく原っぱですから、そちらも見てください」としきりに言っていた。 これこそ解説がなければ分からないことだ。
 「御菓子御殿」で昼食をとり(泡盛は久米仙しかなくそれを飲む)、人気商品の「芋のタルト」をお土産に買い、水族館に向かう。この水族館の規模の大きさには驚いた。2時間の自由時間だったがどれほど見れたのだろうか? 老体に鞭打ちせっせと歩いて、“じんべえ鮫の餌つけ”も“イルカショー”も見たが・・・。
 途中、ガイドの基地の実態や沖縄の生活に触れた数字に基づく解説も勉強になった。
 いや、何とも盛りだくさんの一日であった。

   
           じんべえ鮫 

           
                          後の島は伊江島


2010年沖縄見聞記④ ・・・ 琉球ガラス体験記

2010-12-03 12:51:21 | 

 

 ひめゆりの塔などに立ち寄り「琉球ガラス村」に着く。ここは案内役S君の元の職場。工場を回っても売り場に立ち寄っても、従業員の皆さんがS君を懐かしがってみんな寄ってくる。トップセールスマンだったと聞く彼が、いかに社員の皆さんに慕われていたがよくわかる。営業仲間はもちろん、工場や裏方で働く人たちとも常に親しく付き合っていたというS君の人柄は、退職して2年を経ても忘れられることはないのであろう。

 アジア各地との貿易の中で、ガラス製品は早くから沖縄に持ち込まれていたようで、明治の頃には既に製造されていたようだ。琉球ガラスはいわゆる“吹きガラス”で、文字通り手製による職人芸の作品に魅力がある。
 戦後は原料不足の中で、アメリカ軍が基地で捨てるコーラやビールの瓶など雑多な空き瓶を集め、それを溶かして再生したことから始めたらしい。琉球の人々の叡智がそこにある。そうして沢山の工房が生れていったのであろう。
 その中で、私たちの訪れた糸満市の「琉球ガラス村(琉球ガラス工業協業組合)」は、1983年4月に設立された「手作りガラスの製造、販売(卸、小売)、ガラスショップ、美術館、レストラン」などを営む沖縄最大手のガラス工房。従業員148名、出資金43,200千円、売上高885.687千円(2009年度)の、まさに沖縄地場産業の最たるものといえよう。
 既に書いたが、沖縄の失業率は本土の2倍。3K産業(基地、公共事業、観光)に偏る産業構造は、本土ゼネコンに吸い上げられる公共事業や、ブームに明け暮れする不安定な観光事業など安定性を欠き、国の財政頼りで地場産業を育てきれていないところにも求人を生み出せない欠陥があるのであろう。
 琉球ガラスのような、まさに沖縄の職人芸を基にした地場産業の発展を祈って止まない。

  私もそこで得がたい体験をさせていただいた。友人の計らいから工場の中に入れて頂き、手袋などで身を固め、職人さんの焼いてくれたガラス球を吹きコップつくりを体験した。真っ赤に焼けただれたガラス玉を左手でまわしながら、右手の火バサミ状の金具でコップの口を広げていくのだが、右と左がバラバラで、出来た物は口が開き切れず、コップか花瓶かわからないような代物であった。イヤ~楽しかったな~

   
まず熱したガラスを吹き、 器具でコップの口を広げる


出来上った品はコップ? せいぜい鉛筆立て? 
琉球ガラスに失礼やなあ

 


2010年沖縄見聞記③ ・・・ 美しい南部海岸を巡る

2010-12-01 14:44:05 | 

 

 斎場御嶽(せーふぁうたき)を後に更に南下して奥武島(おおじま)に向かう。
 ガイドブックによれば、
奥武島は「玉城村の南西100mに浮かぶ隆起サンゴ礁からなる島」とある。今は橋で結ばれて陸続きのようなものである。私たちは、この島の漁師たちが食事を取る定食屋で昼飯を食べようというわけ。
 真っ青の空、コバルトの海の岸壁には、イカが吊るされて干してある。何とものんびりした漁村風景だ。色も空気も風情も、東京とは別世界だ。

    

 海岸にある定食屋に入る。座布団もない素朴なテーブルに座りメニューをひろげると「イカの墨汁定食」なるものが目に入った。大好きなイカだ。さきほど干してあるのを眺めて食べたいと思っていたのだ。しかも“墨汁”というのがたまらない。一も二もなくそれに決める。
 加えて刺身も、海ぶどうも、モズクも出てきた。食べたいものばかりだ。ここは1番、運転する友人に頭を下げて泡盛を一杯だけ飲ませてもらう。「琉球王朝」なる銘柄の泡盛は、「イカ墨汁」や「海ぶどう」にピッタリであった。

       

 いい気持ちになって知念城に向かう。沖縄では城のことを「グスク」と言う。全島にやく300のグスクがあると何かに書いてあった。その殆どが城壁だけの城跡だ。数百年前のものといわれる知念城も、村の背後にその城壁をさらしていた。新旧の城の連城らしく、古いものは「野面積(のづらづみ)」で亜熱帯樹林に囲まれており、新しい方は見事な「あいかた積み(亀甲乱れ積み)」で、アーチ型の城門も付いていた。
 城を後にして、道連れの陶器店に立ち寄るなどしながら、海カフェの先駆的存在といわれる「浜辺の茶屋」でコーヒータイム。ちょうど干潮時で、青海原とはいかなかったが、逆光に映える岩肌が美しかった。
 寸秒を争う東京の生活に比して、時は止まっているかに見えた。

         

 


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