アナトリアに勃興したトルコ民族オスマントルコにとって、その西の一角に栄華を誇ってきたコンスタンチノープルを征服することは、どんなに夢多きことであったろうか。野心に燃え、文字通り夢多き21歳のスルタン・メフメットⅡ世は、その事業に全生命をかけたのであろう。もちろん、千年にわたり栄え続けたビザンティン文明は、熟しきって崩壊に向かっていたのであろうが、それでも、16万といわれる大軍で2ヶ月を要する大事業であったのである。1453年コンスタンチノープルは陥落、オスマントルコ帝国が誕生してイスタンブールと呼び変えられた。
ビザンティン文明の象徴であった「アヤ・ソフィア」は、モスクに改装されたが破壊を免れた。メフメットⅡ世は自らの名を付した「ファティフ・モスク」を別に建て(ファティフは征服者の意)、居住と為政の本拠としては「トプカプ宮殿」を建てた。
ハーレムの塔
そこには自らが住む住居はもちろん、議会をはじめ政務を執り行うあらゆる施設が設けられ、ハーレムまで設けられてきたのである。なお、ハーレムは当初の宮殿には無く、これが設けられたのは5代あとのムラトⅢ世の時であったという(澁澤幸子著『イスタンブール歴史散歩』33頁)。新しい政権を確立することに全精力を集中したメフメットⅡ世には、そのような施設を置く余裕は無かったかもしれない。ムラトⅢ世の時代は、オスマン帝国も絶盛期を過ぎ、もはや衰退に向かいはじめた時代である。「戦うことよりハーレムに快楽を追う皇帝が続き、帝国は衰退の道を歩いた」というような記述もある(前掲書8頁)。
ハーレムの部屋
メフメットⅡ世が建てたトプカプ宮殿は、オスマントルコが世界に目を向けるまさに権力の中枢であったのであろう。トプカプとは「大砲の門」を意味するそうであるが、ボスフォラス海峡からマルマラ海を眼下に納めるアクロポリスに建てられた宮殿は、船を主要な交通手段とする当時の世界に、大変な威力を示したことであろうと思われる。
われわれは、広大な敷地に点在する館に展示されている宝物をはじめ、歴史的遺産を見学し、一番突端のレストランで昼食をとった。そこで初めて、待望のトルコ料理「羊肉のケバブ」を食べたことも含め、“イスタンブールの威力”を感じたひと時であった。
ケバブ
宮殿の中庭にて ・・・ 「疲れましたなあ」
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