旅のプラズマ

これまで歩いてきた各地の、思い出深き街、懐かしき人々、心に残る言葉を書き綴る。その地の酒と食と人情に触れながら…。

シチリア文化の源泉を語るイオニア海に沿った街々

2007-03-06 22:30:13 | 

 

 シチリアは地中海に浮かぶ三角形の島として有名。 
  北側の海岸線はティレニア海に面し、西のエリチェからパレルモ、テルミニなどを経てメッシーナに至る。ローマ帝国、ナポリ王国、そしてヨーロッパの列強と面してきた。
 南側のマルサーラからアグリジェントを経てシクリなどに至る線は地中海を隔ててアフリカと対峙する。最も古くから、いわゆるカルタゴとの戦いに明け暮れたであろう。
 メッシーナからタオルミーナ、カターニャを経てシラクーサ、ノートに至る東側は、イオニア海に面し遠くギリシャを臨む。だからこの地域にはギリシャ文明がその痕跡を一番色濃く残しているのではあるまいか。もちろん、その後のローマが改造し、ノルマンやヨーロッパ文明が次々と上塗りしていくのであるが・・・。 
  私のシチリア旅行の最終日程は、このイオニア海に沿った何とも美しい響きの名前のついた街を辿る旅であった。すなわち、シチリアを代表する山、エトナ山を眺めながらタオルミーナ、カターニャ、シラクーサと続く旅である。それらについて書き始めるときりがないので、各地について一言ずつ記しておく。
 タオルミーナは映画『グラン・ブルー』の舞台である。つまり岸壁にへばりつく街と美しい海が売り物であるが、われわれは専ら岸壁の町の名所「ウンベルト通り」で、ひたすら買い物をして終わった。ご婦人方はこれでかなりのストレスを解消したようであったが

  

 

 エトナ山はシチリア富士と呼ばれる(日本人しか付けようのない名前であるが)だけあって、わが富士山を髣髴とさせる。快晴の空に美しかった。
 シラクーサはこれまた映画『マレーナ』の舞台。街の起源は紀元前8世紀のギリシャ人の入植に始まると言うから歴史の重みが違う。『マレーナ』のドゥオーモ広場はもちろん、アポロン宮殿やアレトゥーサの泉など記憶に残り続ける。

   

      

 

 最後の街はカターニャ。街のいでたちもさることながら,ここは作曲家ベッリーニの町。最後の晩そのマッシモ・ベッリーニ劇場でオペラ『蝶々夫人』を観た。オペラと劇場の強烈な印象を胸に、このシチリア第二の都市から帰路についた。


    
   
               ベッリーニ劇場

 思い出のシチリアは,ひとまずこれでおしまい。                         
      

          


サリーナ島への想い

2007-03-03 14:31:21 | 

 

 シチリア島東北部のナスNASUという山村から、北方の海に浮かぶサリーナ島を遠望した。そして、その名前の美しい響きにさまざまな想いを馳せた。

 この旅は映画『山猫』の舞台を辿る旅であった。映画でバート・ランカスターが演じた主人公の名前がサリーナ公爵。原作の同名小説『山猫』の作者トマージ・ランペドゥーサはシチリアの貴族であったが、彼は小説の舞台の一つにナスを選び、村の山間からサリーナ島を眺めて主人公の名前としたと言われている。映画の中でバート・ランカスターは、没落過程にある貴族の尊厳を演じきった。それは、サリーナという「やさしい哀れみと気品ある響き」に呼応していた。
 もう一つ思い起こしたのが、サリーナ島は映画『イル・ポスティーノ』の舞台となったことだ。この映画は、島の山上に住む詩人ネルーダと、毎日郵便物を届ける配達夫の友情物語。郵便配達夫を演じたマッシモ・トロイージは、映画の中では、最後にデモに巻き込まれて死ぬが、現実のトロイージもこの映画を撮り終えて一週間後に死ぬ。彼はどうしてもこの役をやりたくて、命を賭けて演じたのである。
 郵便配達夫とネルーダが肩を並べて、崖の上から見下ろす紺碧のティレニア海の美しさは今も脳裏を離れない。その美しさに負けないような崇高な友情が二人の間に通い合う。無学で貧しい配達夫は、愛する娘へ恋文を書く術を持たず、あるときネルーダの詩をそのまま書いて彼女に贈った。それを知ったネルーダが、「人の詩を勝手に使ってはいけない」と諭すと、「・・・貴方の詩は、最早あなた個人のものではない。全世界の人々の所有物だ」と言い返す。--すばらしいシーンであった。

  1月25日付この欄の「スペインと鳩」で、スペインの三大パブロのうちパブロ・ピカソとパブロ・カザルスに触れた。残る一人、詩人でチリのアジェンデ革命などにも参画したパブロ・ネルーダのことを、図らずもこの項で書くことになった。
                           


セジェスタのギリシャ神殿

2007-03-02 17:33:31 | 

 

 シチリアの旅では8日間,島の中だけを廻った。書きたいことが山ほどあるが、何か不思議な印象が残るセジェスタの神殿についてまず記しておく。
  パレルモの南西の丘陵地にそれはあった。

   

 

  実に不思議な光景であった。ブドウ畑が続く谷あいの行き着く先の小高い丘に、忽然と白亜(というより薄茶色)の巨大な神殿が屹立していた。忽然と、というのは正にそのとおりで、周囲には自然のほかに何もなく、建物ははるか下のバス停留所に土産物屋が一軒あるだけであった。 
 停留所から歩いて登ると、近づくにつれその巨大さに驚嘆する。柱と梁だけの神殿で屋根もない。前面に6本、奥行きに12本の巨大な柱が並び梁でつながれているが、屋根はなく、雲ひとつない抜けるような青空が、正にどこまでも抜けていた。 
  この神殿が未完のもかどうか、古来議論が分かれているようだ。ゲーテは、床や周囲が地ならしされてないことと、石を運ぶ「ほぞ」が未だ削り取られていないことを主理由に未完としている(『イタリア紀行』)。フランシーン・プローズは、屋根のないことと柱に縦の溝が彫られてないことを理由に未完としているが、パレルモの丸天井のない別の教会について書いている中で、「・・・見上げればずっと高く、さらに天国まで、見る者と永遠のひらめきとの間に何もない。私はセジェスタの屋根のない神殿を思い出し・・・(中略)・・・屋根の必要性、価値、意味などにつき考えた」と疑問を投げかけている(『シシリアン・オデッセイ』)。 

  この神殿は紀元前5世紀頃、トロイアから入植したエリミ族により建てられたと推測されている。エリミ族はこの神殿で何をしていたのであろうか? もし、天にまします神を崇め、神に近づこうとしていたのなら、天国へ通いやすいように屋根は不必要であったかもしれない。とすれば、この神殿は十分に完成していたとも思える。 
  あの時の、巨大な白亜の柱と梁を抜ける青空は、日本では見たことのない不思議な青さであった。

 

                                                   


「ニーノよ 明日はパレルモだ!」(ガリバルディ)

2007-03-01 23:00:52 | 

 

 一昨年の今日、2005年3月1日に私は春風に誘われるようにシチリアに向かった。その旅の紀行文『シチリア紀行』の序文を、

 「ニーノよ 明日はパレルモだ!」(ガリバルディ)
                  --序にかえて

というテーマで書いた。思い出して開いてみると、

「1860年5月11日、貴族政治打破、共和制樹立によるイタリア統一を目指したガリバルディは、シチリアの西端マルサーラに上陸、そこで体制を整えいよいよ州都パレルモに攻め入る前夜、腹心の部下ニーノに呼びかけた言葉がこれである。この雄姿を、義勇兵としてガリバルディに仕え彼を愛してやまなかった彫刻家ヴィンツェンツォ・ラグーザが描いて
、その彫像がパレルモ市のイギリス公園に建っている。ガリバルディにとって、イタリア統一の端緒を開くパレルモ攻略は、どんなに夢多き事業であっただろうか? 『ニーノよ明日はパレルモだ!』という言葉には、ガリバルディの心の躍動感がほとばしっている」

という書き出しだ。そのあと、ヴィンツェンツォの妻である日本人ラグーザ・お玉(清原玉)のことなどに触れ、夫妻の絵画や彫刻を観る楽しみを書き継ぎ、序文の最後を次の言葉で結んでいる。

 「2月26日、東京には春一番が吹いた。南イタリアを連想させるような生暖かい突風が、少なくなった私の白髪を巻き上げ、北西の空へ吹き去った。これに導かれるように、私は初めてのシチリアへ旅立った。
 --『和弘よ 明日はパレルモだ!』--」

 春 三月・・・毎年、一番希望に胸ふくらます時節である。

  
                             


投票ボタン

blogram投票ボタン