時ならぬ息子の高校卒業式に参加して、日本の教育の現状ーーその荒廃と病巣について考えることになった。
八洲学園高等学校の生徒の言動を垣間見て、現状からの逃避や、学ぶことを続ける苦悩、脱落などと戦いながら、何とか「学び続けよう」と努力している姿に心を打たれた。全てがうまくいっているなどとは決して思わないが・・・。
中学ぐらいまでのいわゆる義務教育は、読み書きソロバンをはじめ社会に出て生きる生き方を最低限教え込むことが必要であるから、それを全国民に教えていくのであろう。それ以上のいわゆる高等教育は、そもそも「学びたい」という意欲を前提とするのであろう。しかも「なになにを学びたい」という目的を持った勉強ということになるのであろう。
ところが、大学に行く目的は「何を学びたい」ということではなく、学歴社会を生きるための「箔(はく)--学歴」を手にするためのものとなった。よい大学に行くために、小学校はおろか幼稚園ごろから「お受験」が始まる。しかもそれは本人の意思ではなく、殆どが親の欲望からである。そのような子供たちが、「親のために」一つの路線を歩かされる。多面的な人格形成や知識の習得が必要なはずの教育は、「よい大学に行く」という極めて一面的な教育となっていく(これまた全てそうなるとは言わないが)。
大学まで行けば、出れば箔がつくので、特に目的を持って「何かを学ぶ」ことはしない。このような人たちが社会の大半を占めて来たところに現在社会の荒廃の一因があるのではないか? その「一面的なお受験教育」に教育の病巣を見る思いがする。
息子が、地域社会学を学びたい、という思いから高校教育からやり直し、その思いを叶えるために何度もチャレンジして合格した目白大学地域社会学部で、どのような勉強をしていくのだろうか、極めて楽しみにしている。大学とは、そもそもそのような場所だと思うから。