ナベ恒が亡くなったらば読売新聞を再読するつもりで中断したが、なかなかナベ恒は死なないし、権力代弁でしかない内容でも比較対照として読む必要があるかと思い、今月から再読を始めた。でも、久しぶりに読んでみると、非常に違和感がある。その違和感がどこから生まれるのか、良くは判らないが、日本の新華社、日本の北朝鮮テレビとでも言おうか、まるまる権力機関の発表記事しかないように感じる薄気味悪さに起因する違和感かも知れない。
小選挙区制度の生み出した安倍晋三独裁自民党を支える読売新聞には、戦前の教訓はないらしくて共謀罪という警察による国民監視を生み出す法律にも賛成だ。安倍晋三の力に屈し、阿る行政官僚たちは、安倍晋三と妻の言動に忖度して国民の財産を投げ売りして、その記録も残さないと嘯くが、読売新聞には森友のモの字すらもない日がある。
新聞とは、誰のために、何のために存在するのだろうか。
自分たちの思惑に反した言動には悪罵を投げ付けて批判し、嘲いをする保守と呼ばれる人たちは、この読売新聞が正義なのだろうが、人間の人間たる存在価値である理性や知性に程遠い安倍政治と、それを取り巻く閣僚などのお友達を無批判に報道する読売新聞のような存在こそ、国家国民を誤らせる曲者だと思う。
布川事件の最高裁判決を批判した、あの読売新聞の理性と違いは、どこへ行ってしまったのだろか。