桜井昌司『獄外記』

布川事件というえん罪を背負って44年。その異常な体験をしたからこそ、感じられるもの、判るものがあるようです。

刑務所は楽しかった

2008-05-25 | Weblog
先日、信頼する支援者から「刑務所が楽しかったはずはないから、そんなことは言わない方がいい」と言われた。またか、と思ったね。刑務所にいたときも社会に帰ってからも、良く言われたんだ、「桜井はいい子ぶってる、素直じゃない、幸せなはずない」と。
俺は、何時ものように自分の思いを話した。刑務所にいて、その厳しい制限と限られた自由の中で、全力を尽くす満足、制限があるから感じる自由の尊さ。それらを日常的に感じながら生きることは人間として幸せと感じたし、楽しかったことを。でも、「それは楽しかったのではなくて、楽しいと思うようにしていただけじゃないか」と言う。
それはあったよね。無実の罪で人生を奪われる苦痛は、辛いとか苦しいでは表現できない。それは重いよ。ただ、だからこそ、明るく楽しくありたいと思った。一度限りの人生の刻を奪われる苦痛だからこそ、今という一度限りの時間を全力で過ごし、満ち足りた月日を重ねたかったんだな。
仕事をしては、誰よりも速く、いい靴を造るようにした。作った靴が法務大臣賞を貰い、時の大臣が元警視総監秦野だったのは笑い話かな?運動時間、何時も走り回っていたなぁ。夢中になって野球をやり、「桜井は刑務所に野球をやりに来たのか」なんて担当(工場の担当部長)に言われたっけ。音楽や俳句、詩、民謡に詩吟、何でもクラブ活動をやったなぁ、それぞれに楽しみだった。トランペットを吹いてるときは冤罪を忘れていたもの。何事にも全力!夜間には靴縫いのアルバイト、自己労作と呼ばれる仕事もした。
刑務所も、そこなりに一つの社会。千葉刑務所は殺人犯が過半だけど、大部分は過って人を殺した人ばかりだった。誰の言うことも信じて、「ショウちゃんはお人好しだから」と笑われたりしたな。狭い塀の中での上下関係に縛られる職員との触れ合いだって、指示と命令に操られる身だが、それだけに相手の人間性が見えて面白かった。人は地位や立場を超えて裸の人間性を以て触れ合うことは少ないから、とても貴重な月日だった。勿論、貴重な月日だったのと楽しいのとは違うが、不当な拘束の現実を否定せず、そうある以上は、そこで全力を尽くす思いになれば、不思議と楽しさは見つけられたんだ。
そんな思いを話しても、まだ納得しない相手を前に、俺は不思議な感覚になった。心からの本心を話しても通じない、獄中での思いと体験は、結局、誰にも判って貰えないかも知れない、という孤独感が溢れて来た。
刑務所にいたとき、常に支援者からの思いを感じていたから孤独を感じることは無かった。沢山の善意に包まれる今、それは楽しい毎日だが、この孤独感は何だろうか。
人間、総てが良しとはならない。得れば失うものがあるし、失えば得るものがある。どんな喜びでも幸せでも同じ。どんな苦しみでも悲しみでも同じ。俺は社会に帰って、勿体ないほどの幸せや喜びの月日の中で、何かを失った。何かを。